落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈>「イエスに従う者 マルコ8:31-38」

2012-02-27 20:05:51 | 講釈
S12L02(L)
2012.3.4
大斎節第2主日 <講釈>「イエスに従う者 マルコ8:31-38」

1.文脈とテキスト
本日のテキストに続く部分の冒頭に「六日の後」という言葉がある。では、その六日前とは何か。結論から言うと、それがイエスが始めて弟子たちに向かって受難と復活の預言をした出来事である。イエスの予告を聞いてペトロが「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」。そのペトロに対して「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と激しく叱られたという。
本日のテキストはそれに続く言葉で、何気なく読むとイエスが諄々と弟子たちに語られた言葉のように思われる。しかし注意深く読むと「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」という言葉が見られる。つまり33節まではイエスと弟子たちとだけの会話であるが、34節からは群衆が加わり、公的な会話となる。

2.小さな言葉集(「受難の六訓」)
8:34から9:1までの部分は、イエスの受難告知とイエスの姿変わりの出来事との間に行われたイエスの言葉という構成になっているが、厳密に読むと、二つの大きな出来事の間に「沈黙の六日」あるいは「気まずい六日」があり、マルコはその隙間にいろいろなところで話されたイエスの言葉の断片をまとめたものと思われる。これらは元来はそれぞれ単独で伝えられたものと思われるが、マルコがそれらをまとめて、ここに入れたのである。結論的にいうと、これらの「イエスの言葉」はイエスが実際に語ったというよりも、マルコが活躍していた頃の教会で「イエスの言葉」として流布していたものであろう。ここにはそれらの内の「イエスの弟子としての生き方」に関する6つの言葉が収録されている。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(8:34)
<参照:マタイ10:38、ルカ14:27>
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(8:35)
<参照:マタイ10:39、ルカ17:33>
(3) 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(8:36)
(4)「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(8:37)
(5)「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(8:38)
<参照:マタイ10:32-33、ルカ12:8-9>
(6)「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(9:1)


3.6つの言葉の全体的な考察
これら6つの言葉を全体として眺めると、イエスの大決断という文脈に相応しいのは、最初の言葉だけである。そして2番目の言葉は最初の言葉を裏から支える役割を果たしている。つまりイエスの個別的特殊的具体的な決断を支える普遍的本質的な人間についての生き方を示している。これがワンセットになっている。
同じように3番の言葉と4番目の言葉も表と裏のセットになっている。表は人生の目的であり、裏は人生に破れた場合の回復が述べられている。この2つの言葉はイエスの言葉というよりも一般的に流布していた一般的な格言であろう。だからといって、イエスがこの格言を語らなかったわけではない。むしろイエスは庶民の間でよく知られていた格言や例え話を口にされたのであろう。
5番目の言葉は、この世におけるキリスト者の生き方が述べられている。最後の言葉は以上の5つの言葉とは雰囲気が異なり、おそらくイエスの言葉というよりもマルコ独自の言葉であろう。その頃の教会内では「世の終わり=イエスの再臨」を生きて迎える者がいると信じられていたようである(1テサロニケ4:15)。
マルコ福音書においてイエスの弟子たちに対する教訓が真っ正面から取り上げられている部分は他にはない。私自身はこの部分はマタイ福音書の「山上の垂訓」に比して「受難の六訓」と命名したいと思う。大斎節やあるいは受難週の連続説教に相応しい教えである。
それで今年は今日から3週連続で礼拝奉仕が当たっているので、これら5つの言葉のうち3つを取り上げることとする。
第1回目(八幡聖オーガスチン教会)は1番目の「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)という言葉を取り上げ、第2回(戸畑聖アンデレ教会)では3番目の「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(8:36)を、次々主日の久留米聖公教会では5番目の「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる」(8:38)を取り上げる。

4. 十字架の告知
先ず始めに、これらの言葉に先行するイエスの十字架と復活の告知の場面を簡単に考察しておく。
イエスは弟子たちに向かって「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と質問し、ペトロが弟子たちを代表して「あなたは、メシヤです」と答えたという出来事があった(マルコ8:27-30)。本日のテキストはそれに続くイエスと弟子たちとの対話である。
イエスはペトロの答えを受けて、「(わたし)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。
ここには、イエスを思うペトロの率直な真情が描かれている。むしろイエスの態度の方がどうかしている。いくら何でもペトロをサタン呼ばわりしないでもいいではないか。もしペトロに間違いがあるなら、もっと優しくそれをただしたらいいではないか。と、私などは率直に思う。しかし、イエスはそうではなかった。ここの場面は、私たちが想像する以上にすさまじいものであったようである。それ程、受難の予告ということは、イエスにとってもペトロにとっても重要なものであったのだろう。

5. 「わたしの後に従いたい者は」
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という言葉は、この文脈に置かれるときに異常な光を放つ。ここでの「わたし」とは「自分を捨て、自分の十字架を背負って」、十字架に向かうイエス自身である。ここではイエスが弟子たちに語った言葉とされるが、むしろ教会におけるイエス理解とそのイエスに従う信徒たちとの関係において語られた言葉であろう。先行するイエスとイエスの後を歩む信徒、それが「後ろに」という言葉に込められている。
「従いたい者は」という言葉には私たちの意志を問うという意味が込められている。従いたいか、従いたくないか、それは私の意志の問題である。従って「従いなさい」という言葉はそれを願う者にだけ命令文となる。従って、この言葉は、まずわたしたちに「従うか、否か」という選択の自由が与えられている。イエスに従うことは義務ではない。義理でもない。強制もされない。むしろ完全な自由において主体的にしか従うことはできない。イエスはここで弟子たちを完全に自由にする。
ここでは「誰でも」という。「弟子の中で」でもない。まさしく「誰でも」である。この文章が加えられることによって、34節の「群衆と弟子たちと共に呼び寄せて」という言葉が意味を持ってくる。33節までの会話は「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」という言葉で始まり、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という言葉でクライマックスに達する一連の会話である。イエスと弟子たちとの間での会話であり、ことさらに「人々」と「わたしたち」とが区別されている。そこには弟子としての誇りとか、名誉とかがちらついている。しかし34節以下では弟子たちも群衆の中の一人にすぎない。ここでは弟子たちもイエスとの師弟関係から解放されて「群衆の中の一人」として、イエスの前に立つ。その「私」に向かってイエスは「わたしに従いたいのか、否か」と問う。私の意志、私の願い、私の決断が問われている。あの時のペトロと同じように「何か別の道」を求めるのか。それとも、その道が「十字架への道」であることを知った上で、なおイエスの後に従うのか。

6. 従うということ
イエスをどう理解するか、預言者なのか、メシヤなのか、偉大な人物なのか。そんなことはたいした問題ではない。誤解したってかまわない。どうせ、そんな理解は少し状況が変わればすぐに吹っ飛んでしまう。イエスに関しては理解の問題が問われているのではない。従うか否かということが問われている。従うことなしにどのような立派な理解でも無意味である。世間がどういう評価を彼に与えているのかということが問題なのではない。弟子集団がイエスをどう理解したのかということさえ問題ではない。私が彼をどう理解し、そのことによって私がどう生きるのかということが問題なのである。イエスのように生きる覚悟があるのか、それが私の課題である。私はイエス以外にそういう「課題性」を持った人物に出会ったことがない。それがまさにそれこそが、キリスト教が私に突きつけるメッセージである。

7. 「自分を捨る」、「自分の十字架を背負う」
イエスに従う者には2つのことが要求される。いや、たった2つの条件だけである。1つは「自分を捨てること」、もう1つは「自分の十字架を背負うこと」。しかしよく考えてみるとこれら2つは実は1つのことの両面である。両者をつなぐものは「自分」である。自分を捨てるということと自分の十字架を背負うということとは、どちらが表でどちらが裏かは明確ではないが、コインの両面のように1つのことである。
この場合、自分を捨てるということは禁欲的な生活に入ることを意味しない。禁欲的生活とは、今眼前にある欲望を捨てることによって、より大きな、意味のある、価値の高いものを獲得する一つの方法である。言い換えると、より高次の自己を実現する道である。その場合、「より高次の自己」とは何かが問題である。
それに対して「自分の十字架を背負う」という場合、自分の十字架とは何か。通常、マスコミなどで「自分の十字架」という言い方をする場合、自分に降りかかってきた生きる苦労を意味する。イエスの場合、十字架とは何にもまして処刑の方法である。「自分の十字架」という場合、自分自身が十字架上で死ぬことを意味している。直接的には刑場まで自分自身の十字架を背負って歩くことを意味している。それは生きる目的にはなり得ない。まして人生の目的にもならない。目的地に到着したら死が待っている。それは敗北者としての生に他ならない。自分自身の使命が強制的に中断させられる敗北者の生である。イエスの十字架の死を「勝者の死」(ヨハネ16:33)と考えるのは後の教会の信仰である。イエス自身においては敗北者としての死に他ならない。それが「自分の十字架を背負う」という意味である。
「自分を捨てる」ということと「自分の十字架を背負う」という言葉がコインの両面になっている場合、同じ意味を示すと同時に、異なる表情を示している。自分を捨てるという姿は、自己の使命のために自分の意志とか願望とか楽しみ等を捨てること、つまり「自己否定」であり、自分の十字架を背負うという表情は「覚悟」である。敗北者としての最後を覚悟する。
これら2つを合わせると、「自己否定を覚悟する」「その自己否定の結果死ぬことになる覚悟はできている」という生き方を示す。イエスはそういう生き方をした。イエスに従いたい者はそういう生き方をせよ。

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