落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

<講釈> 兄弟  ヘブライ2:9~18

2009-09-28 14:12:06 | 講釈
2009年 聖霊降臨後第18日(特定22) 2009.10.4
<講釈> 兄弟  ヘブライ2:9~18

1. ヘブライ人への手紙について<参考再録>
本年の大斎節第5主日でヘブライ人への手紙が取り上げられたので本書の概説として再録する。
ヘブライ人への手紙(以下「ヘブライ書」とする)は使徒書群の中でも非常にユニークで、手紙というよりも、いくつかの論文がまとめられている。従って、礼拝で読むためにどこかの部分を切り出してそこだけを論じても前後関係がはっきりしないと理解困難であろう。それでヘブライ書について簡単にその特徴を確認しておく。例によって新共同訳聖書の付録によると下記のように紹介されている。
「ヘブライ人への手紙は、長い勧告の書であり、旧約聖書を引用しながら、キリストが預言者、天使、モーセにまさること、またその祭司職は旧約のそれをはるかに凌駕することを指摘し、よく知られる11章には、信仰のすばらしさ述べられている。本書がどこで、だれにあててしたためられたかはわからない」。非常によくまとめられているが、ここで用いられている一つ一つの言葉があまりにも含蓄があり、判ったような判らないような気分にさせられる。たとえば、いきなり「その祭司職」と言われても、旧約聖書における祭司職についての予備知識、さらにはイエスと祭司職との関係についての理解がなくては何のことか判らないであろう。確かに、本書を一通り読めば、「祭司職」ということが本書のキイワードの一つであることは明白であるが、問題は、その「祭司職」が「旧約聖書のそれをはるかに凌駕する」という。旧約聖書における祭司職論が議論の前提になっており、それを踏まえ、それを「凌駕する祭司論がここでのテーマである。新約聖書の語学の専門家に言わせると、本書の著者はパウロと同程度の教養を持った人物で、非常に流暢なギリシャ語で書かれているらしい。
著者が誰かということについては、一部ではパウロということであったが、その意見はかなり早くから疑問が持たれており、現在でも不明ということが定説になっている。従って執筆年代も明白ではないが、2:3~4の「わたしたち」が第2世代のキリスト者を暗示しているので80年代から90年代の間とされている。その旧約聖書についての豊富な知識から、ギリシャ語を自由に駆使できる教養あるユダヤ人であろうと考えられている。
本書は旧約聖書の祭儀論(祭司職論)を前提として、キリストによる救済がそれよりもはるかに優れているということを旧約聖書を解釈することによって論証するというのが主旨である。従って、本書を理解するためには、先ず旧約聖書における祭儀および祭司職の本質を理解しておくということが重要であるが、わたしたちにはそんな余裕はないというのが現実であろう。従って、その辺りのことを補いつつ、選ばれたテキストを丹念に読むしかない。
さて、先ほどの新共同訳聖書の付録の紹介の文章に、「本書は勧告の書」であるという主旨のことが書かれていたが、本書は一応「書簡類」というカテゴリーに納められているが、その内容から判断すると、通常の書簡ではなく、いくつかの説教、あるいは論文をまとめたもの、たとえば、3:1~4:13、あるいは8:1~10:18のようにそれ自体が独立した説教ないしは論文になっている。本書はそれらの説教や聖書解釈をの論文をまとめ、そこに実践的な一種の「勧めの言葉」(13:22)を加えて編集されたものであろう。しかし一つ一つの論文に関しては、その境界線は決めにくく、学者によっても色々な説がある。それらの論文を貫く大テーマは「キリスト大祭司論」である。
ユダヤ教より分離した新宗教であるキリスト教に改宗した信徒たちは、当初はユダヤ教の様々な戒律や祭儀から解放され、喜びに満たされていたであろうが、時がたつにつれ祭儀のない宗教に物足りなさを感じるようになったであろう。宗教儀式にはそれなりの魅力がある。何か宗教の本質ともいうべきものを失ったような空虚感が漂う。ヘブライ書の著者はそのような状況の中で、「わたしたちには偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」(4:14)と宣言し、「わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか」と勧告する。これがヘブライ書執筆の動機である。ここから展開される神学的議論は非常に専門的で理解困難であるが、じっくり読むと内容は非常に豊かである。
2. 祈祷書におけるヘブライ書の扱い
聖餐式の使徒書は本日から7週間ヘブライ書が読まれる。ヘブライ書というのは新約聖書の中でもユニークな文書である。一応「書簡」という形式をとっているが発信人や受信人の記述が欠けている。本書は流暢なギリシア語で書かれており、また思想内容も1世紀終わり頃のキリスト教の問題意識を前提にして非常に高度な論述を展開しているのでかなりの人物であったことは間違いない、と思われる。
3. ヘブライ書のイエス像
本書で描かれているイエス像は「天使にまさる神の御子」(第1章)であるが、「天使よりも、わずかの間、低い者とされた」(2:9)。この思想は地上のイエスを知っている直接の弟子たちから出てきたものとは思えないが、直弟子たちの「印象」と当時の一般的な思想とが結びついて生まれてきたものであろう。福音書によると、結局直弟子たちは数年間にわたって共同生活をしたにもかかわらず、イエスのことを理解できなかった。言い換えると、イエスが「ただ者ではない」という印象を強くもちつつ、彼らの理解を絶していた。つまり、彼らの持っている言葉ではイエスがどういう方なのかということについて「語れなかった」。例外的な部分で、おぼつかない表現で、しかもその内容は明白ではないが「メシア(救い主)」という言葉がイエスに向かって語られた。しかし、イエスに対してこの「メシア」という名称を付けるためには、彼ら自身の「メシア観」そのものが決定的な変革をする必要があった。
このメシア観の変革といういわば弟子たちの内的な経験は、「イエスは何故死んだのか」という彼ら自身の深刻な疑問、問題意識を追求することによって、その答えを得るということとして体験された。それが聖霊を受けるという宗教経験であり、その宗教的エネルギーが外的には教会の成立という社会的な事件へと展開する。しかし、その経験そのものは驚くべきエネルギーを持っているとは言え、思想的には余りにも素朴で、単純なものであり、そのままでは世界を揺るがすような力はない。いわば、局部的、地方的、宗教現象の一つに過ぎない。この経験が当時の代表的な宗教思想によって解釈され、実はここからキリスト教神学というものが出発する。それが10節と11節の前半の議論である。人類の救済という大事業は神一人の業ではなく、神と神の子との共同作業であった。11節前半の言葉は「聖なる者となさる方=父なる神」と「聖なる者とされる人たち=全人類」とは御子イエスにおいて「一つの源から出ている」という関係が成立する。言い換えると、この「一つの源」という関係においてイエスと全人類とは「兄弟」という関係になる。ここには実に壮大な宗教思想が表現されている。
4. イエスの言葉
さて、以上のことを前提として本日のテキストではイエス自身の3つの言葉が取り上げられている。しかし、これらの言葉は現在わたしたちがもっている聖書の中には見いだせない。おそらくヘブライ書の著者が手に入れた独自の資料があったのだろうと推測される。
文脈上特に重要な言葉は最初の言葉で、「わたしは、あなたの名を私の兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」とある。この言葉はイエスが愛唱した詩編第22編23節の言葉である。ヘブライ書の著者はこの言葉をイエスが語ったという。しかも、この言葉自体は神に対する祈りの言葉である。イエスは神に向かってわたしたちを「わたしの兄弟」と呼んでいる。実はこれが本日のメッセージである。これは弟子たちにとって、特にイエスの直接の弟子たちにとっては単に言葉上の問題ではなく、イエスはわたしたちと「兄弟のように」生きて下さったという経験がものを言っている。彼らにとって「兄弟のように」生きているときには、それがどんなに驚くべきことか理解していなかった。しかし今、イエスがわたしたちを「兄弟」と呼んで下さったということの意味を知った。そこから信仰の全てが始まる。
5. 「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」(11節)
今週から始まるヘブライ書からの説教では、その日のテキストに含まれている一つの文章あるいは語句に焦点を合わせて、わたしたちの信仰について考える。いわば「ズームイン説教」を試みたい。その場合に、そのテキストの背景は一応無視する場合もありうる。ただし、<講釈>においてはできる限り文脈とその語句との関係を解明する。
6. イエスの言葉
本日のテキストでは、イエスの3っの言葉が残されている。文脈上特に重要な言葉は最初の言葉で、「わたしは、あなたの名を私の兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」とある。ヘブル書の著者がこの言葉を引用している理由は、ここに信徒たちを「兄弟」と呼ばれたということである。イエスはわたしたちを「兄弟」と呼んで下さった。実はこれが本日のメッセージである。これは弟子たちにとって、特にイエスの直接の弟子たちにとっては単に言葉上の問題ではなく、主イエスはわたしたちと「兄弟のように」生きて下さった、という経験がものを言っている。彼らにとって「兄弟のように」生きているときには、それがどんなに驚くべきことか理解していなかった。しかし今、イエスがわたしたちを「兄弟」と呼んで下さったということの意味を知った。そこから信仰の全てが始まる。


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