2005年 降臨節第1主日 (2005.11.27)
目を覚ましていなさい マルコ13:33-37
1. 新しい年
今日は降臨節第1主日で、今日から新しい年が始まる。降臨節とは、降誕日に至る4つの主日の期間であり、降誕節を迎えるに当たって、準備の期間とされている。しかし、特に降臨節第1主日は、単に4つの降臨節の最初の主日というだけではなく、1年間の信仰生活の始まりの主日という意味もある。その点では、本日の日課は旧約聖書、使徒書、福音書いずれもキリスト者の信仰生活の根本にあるものを語っている。
今年度は、わたしは福音書を取り上げたいと思っているが、特に本日の福音書はキリスト者の生活、生き方の根本にあるもの、あるいは根本とすべきことが明白に語られている。「根本」、つまり根元にあるものは、幹や枝や葉っぱのように、誰にでも見える形で顕わになっているわけではないが、見えているすべての生き方を支配し、支えているものである。キリスト者の生活がどこか他の人たちと違うところがあるとしたら、それは目に見える形ではなく、その根本にあるものの違いである。
2. 「目を覚ましていなさい」
本日の福音書には、「目を覚ましていなさい」という言葉が4回も出てくる。この「目を覚ましている」ということこそが、キリスト者の生き方、生きる姿勢の根本にあるものである。主イエスは弟子たちに対して繰り返し、繰り返し「目を覚ましていなさい」と語っておられる。(共観福音書で16回)その中でも、特に重要であると思うのは、ゲッセマネの祈りの場面で、弟子たちの中で指導的な立場にあると思われているペテロとヤコブとヨハネの3人に対して、「わたしが祈っている間、目を覚ましていなさい」と命じておられる。ゲッセマネの祈りというのは主イエスの人生の中で最も危機的な状況で、ここで主イエスは最後の決断をされたのである。ところが、主イエスの真剣な願いにもかかわらず3人とも眠りこけてしまう。主イエスは3回も弟子たちを起こしに来られたにもかかわらずである。これは、非常に象徴的なエピソードで「目を覚ましていなさい」という主イエスの命令に従えない弟子たちの弱さを示している。その時、主イエスは「心は燃えていても、肉体は弱い」(マルコ14:39)と非常に象徴的な言葉をかけておられる。
「目を覚ましていなさい」という言葉は寝ている人たちに対していう言葉ではない。むしろ、起きている人たちに「眠ってはいけない、起き続けていなさい」と語るのである。わたしは、キリスト者の生き方の根底に、この「目を覚ましている」ということがあると思っている。言い換えると、この世で生きるキリスト者の見えない根元には「醒めたもの」がある。
3. 「主人の帰宅を待つ僕たちの譬え」の意味
さて、本日の福音書では「主人の帰宅を待つ僕たちの譬え」が取り上げられている。この譬えは、マタイ(24:45-51)もルカ(12:35-38)も取り上げているが、いずれも「その時がいつなのか、あなた方には分からない」ということが強調されている。ただ、その強調の仕方にそれぞれの特徴がある。マタイもルカも「何時か分からない」ということを強調するに際して、ノアの物語を引用したり(マタイ24:37-39)、二人の男と二人の女の譬え(24:40-41)や、泥棒の譬え(24:42-43)や10人のおとめの譬え(25:1-13)を語る。おまけに、忠実な僕に対する報酬の譬えまで付け加える。要するに、マタイはマルコのこの問題に対する語り方が足りないと感じている。それは、ルカも同様である。いったい彼らはマルコに何が足りないと感じているのであろうか。むしろ、マタイやルカの語り方を調べることによって、逆にマルコが強調したかったことが浮かび上がってくるのではなかろうか。結論を言おう。マタイやルカは、待ち方によって、「終末後」の待遇の違いを語りたいのである。主人によいところを見られたら大きな報いが得られる。要するに報いを求める待ち方が重要なのである。そうなると、現在の自分たちのあり方よりも未来の報酬に関心がある、ということになる。それは、まさに主イエスが批判したユダヤ人たちと同じ生き方である。
マルコはそういうことに対する関心を完全に切り捨てて、現在の生き方にのみ関心を集中する。未来のための現在ではなく、現在は現在として重要な課題であると考える。
4. マルコの強調点
さて、以上はマルコが語らないことについてのメッセージであるが、逆にマタイもルカも語っていないことをマルコは語っている。ということは、マルコの方が先に書かれたのであるから、実はマタイやルカはマルコが語っていることを削ったことになる。それは、3つある。
一つは、主人が旅行に出かける前に、僕たちに命じた命令の内容である。この点について、前に触れたようにマタイやルカはタラントンの譬え(マタイ25:14-30)、ルカはムナの譬え(ルカ19:11-27)を語るのであるが、マルコはただ「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ」とだけ語る。この言葉は短いけれどもそれだけにはっきりしている。「目を覚ましている」という言葉の内容は現在に対する仕事と責任である。これは非常に重い言葉である。主人が何時帰ってくるのかということにだけ関心を寄せるのではない。それならば、主人が帰ってくる直前まで何をしていても、その直前に起きあがって、迎えれば済むことではないか。そういう生き方での第一の関心事は「何時」ということになる。マルコはそういう生き方をここではっきりと批判している。主人が何時帰ってくるのかということは問題ではなく、今現在自分に割り当てられている仕事に対する責任、それが第一の関心事である。
第2の点は、特に「門番」という役割についての言葉である。これについてはマタイもルカも完全に無視している。マルコはこの世に対する主イエスの弟子としての「仕事と責任」として、「門番」という役割を考えているようである。門番こそまさに「目を覚ましている」ということが「仕事」であり「責任」である。門番の仕事は他の人々とかなり異なる。他の人々の仕事と比べると門番の仕事はあたかも何もしていないかのようである。何もしていないようで、常に周囲に油断なく目を光らせ、他の人々が安心して仕事をしたり、寝たりすることを助ける。人々が寝込んでしまうときにこそ、彼らは目覚めていなければならない。つまり、門番は他の人々が安心して日常生活に埋没出来るように、日常生活とは別の視点から状況を見張り、その危険を語る責任を持つ。その意味では、彼らはこの世に属しつつ、この世を超越する存在である。
5. 「すべての人に」
さて、マルコはもう一つ重要なことを語っている。というより、主イエスの言葉として、わたしたちに語っている決定的に重要なメッセージをマルコは語る。マタイやルカは完全に無視し、削除してしまった言葉である。実は、多くのキリスト者も見落としている言葉である。と言うよりも、あまり触れたくない言葉なのかも知れない。特に、世の終わりにおいて、祝福されたものと呪われたものとを区別する「信仰者」に対する厳しい言葉である。「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(13:37)。この言葉は、主イエスの弟子たちとそれ以外の人々とを分ける考え方を批判し、否定している。ここで語られている主イエスの弟子たちの根底にあるもの、「目を覚ましている」ということは、キリスト者だけに限定された生き方ではなく、すべての人たちへのメッセージでもある。
目を覚ましていなさい マルコ13:33-37
1. 新しい年
今日は降臨節第1主日で、今日から新しい年が始まる。降臨節とは、降誕日に至る4つの主日の期間であり、降誕節を迎えるに当たって、準備の期間とされている。しかし、特に降臨節第1主日は、単に4つの降臨節の最初の主日というだけではなく、1年間の信仰生活の始まりの主日という意味もある。その点では、本日の日課は旧約聖書、使徒書、福音書いずれもキリスト者の信仰生活の根本にあるものを語っている。
今年度は、わたしは福音書を取り上げたいと思っているが、特に本日の福音書はキリスト者の生活、生き方の根本にあるもの、あるいは根本とすべきことが明白に語られている。「根本」、つまり根元にあるものは、幹や枝や葉っぱのように、誰にでも見える形で顕わになっているわけではないが、見えているすべての生き方を支配し、支えているものである。キリスト者の生活がどこか他の人たちと違うところがあるとしたら、それは目に見える形ではなく、その根本にあるものの違いである。
2. 「目を覚ましていなさい」
本日の福音書には、「目を覚ましていなさい」という言葉が4回も出てくる。この「目を覚ましている」ということこそが、キリスト者の生き方、生きる姿勢の根本にあるものである。主イエスは弟子たちに対して繰り返し、繰り返し「目を覚ましていなさい」と語っておられる。(共観福音書で16回)その中でも、特に重要であると思うのは、ゲッセマネの祈りの場面で、弟子たちの中で指導的な立場にあると思われているペテロとヤコブとヨハネの3人に対して、「わたしが祈っている間、目を覚ましていなさい」と命じておられる。ゲッセマネの祈りというのは主イエスの人生の中で最も危機的な状況で、ここで主イエスは最後の決断をされたのである。ところが、主イエスの真剣な願いにもかかわらず3人とも眠りこけてしまう。主イエスは3回も弟子たちを起こしに来られたにもかかわらずである。これは、非常に象徴的なエピソードで「目を覚ましていなさい」という主イエスの命令に従えない弟子たちの弱さを示している。その時、主イエスは「心は燃えていても、肉体は弱い」(マルコ14:39)と非常に象徴的な言葉をかけておられる。
「目を覚ましていなさい」という言葉は寝ている人たちに対していう言葉ではない。むしろ、起きている人たちに「眠ってはいけない、起き続けていなさい」と語るのである。わたしは、キリスト者の生き方の根底に、この「目を覚ましている」ということがあると思っている。言い換えると、この世で生きるキリスト者の見えない根元には「醒めたもの」がある。
3. 「主人の帰宅を待つ僕たちの譬え」の意味
さて、本日の福音書では「主人の帰宅を待つ僕たちの譬え」が取り上げられている。この譬えは、マタイ(24:45-51)もルカ(12:35-38)も取り上げているが、いずれも「その時がいつなのか、あなた方には分からない」ということが強調されている。ただ、その強調の仕方にそれぞれの特徴がある。マタイもルカも「何時か分からない」ということを強調するに際して、ノアの物語を引用したり(マタイ24:37-39)、二人の男と二人の女の譬え(24:40-41)や、泥棒の譬え(24:42-43)や10人のおとめの譬え(25:1-13)を語る。おまけに、忠実な僕に対する報酬の譬えまで付け加える。要するに、マタイはマルコのこの問題に対する語り方が足りないと感じている。それは、ルカも同様である。いったい彼らはマルコに何が足りないと感じているのであろうか。むしろ、マタイやルカの語り方を調べることによって、逆にマルコが強調したかったことが浮かび上がってくるのではなかろうか。結論を言おう。マタイやルカは、待ち方によって、「終末後」の待遇の違いを語りたいのである。主人によいところを見られたら大きな報いが得られる。要するに報いを求める待ち方が重要なのである。そうなると、現在の自分たちのあり方よりも未来の報酬に関心がある、ということになる。それは、まさに主イエスが批判したユダヤ人たちと同じ生き方である。
マルコはそういうことに対する関心を完全に切り捨てて、現在の生き方にのみ関心を集中する。未来のための現在ではなく、現在は現在として重要な課題であると考える。
4. マルコの強調点
さて、以上はマルコが語らないことについてのメッセージであるが、逆にマタイもルカも語っていないことをマルコは語っている。ということは、マルコの方が先に書かれたのであるから、実はマタイやルカはマルコが語っていることを削ったことになる。それは、3つある。
一つは、主人が旅行に出かける前に、僕たちに命じた命令の内容である。この点について、前に触れたようにマタイやルカはタラントンの譬え(マタイ25:14-30)、ルカはムナの譬え(ルカ19:11-27)を語るのであるが、マルコはただ「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ」とだけ語る。この言葉は短いけれどもそれだけにはっきりしている。「目を覚ましている」という言葉の内容は現在に対する仕事と責任である。これは非常に重い言葉である。主人が何時帰ってくるのかということにだけ関心を寄せるのではない。それならば、主人が帰ってくる直前まで何をしていても、その直前に起きあがって、迎えれば済むことではないか。そういう生き方での第一の関心事は「何時」ということになる。マルコはそういう生き方をここではっきりと批判している。主人が何時帰ってくるのかということは問題ではなく、今現在自分に割り当てられている仕事に対する責任、それが第一の関心事である。
第2の点は、特に「門番」という役割についての言葉である。これについてはマタイもルカも完全に無視している。マルコはこの世に対する主イエスの弟子としての「仕事と責任」として、「門番」という役割を考えているようである。門番こそまさに「目を覚ましている」ということが「仕事」であり「責任」である。門番の仕事は他の人々とかなり異なる。他の人々の仕事と比べると門番の仕事はあたかも何もしていないかのようである。何もしていないようで、常に周囲に油断なく目を光らせ、他の人々が安心して仕事をしたり、寝たりすることを助ける。人々が寝込んでしまうときにこそ、彼らは目覚めていなければならない。つまり、門番は他の人々が安心して日常生活に埋没出来るように、日常生活とは別の視点から状況を見張り、その危険を語る責任を持つ。その意味では、彼らはこの世に属しつつ、この世を超越する存在である。
5. 「すべての人に」
さて、マルコはもう一つ重要なことを語っている。というより、主イエスの言葉として、わたしたちに語っている決定的に重要なメッセージをマルコは語る。マタイやルカは完全に無視し、削除してしまった言葉である。実は、多くのキリスト者も見落としている言葉である。と言うよりも、あまり触れたくない言葉なのかも知れない。特に、世の終わりにおいて、祝福されたものと呪われたものとを区別する「信仰者」に対する厳しい言葉である。「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(13:37)。この言葉は、主イエスの弟子たちとそれ以外の人々とを分ける考え方を批判し、否定している。ここで語られている主イエスの弟子たちの根底にあるもの、「目を覚ましている」ということは、キリスト者だけに限定された生き方ではなく、すべての人たちへのメッセージでもある。