続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

力を抜くは正しいか?

2010年01月28日 | 積み重ね
先生は「さぼらない」についてはうるさく言うが、逆に「力を抜け」とは一切言わない。私も入門して以来、一度も「力を抜け」といわれたことがない。

弓道だけではないが、武道全般において「力を抜くこと」が重視される傾向がある。

これは、自分の力を使うのではなく、自然の力、すなわち重力を使うことにその極意があるからである。

しかし、その境地は遥か高みにあり、初心者にそれを求めるのは酷というものである。

にもかかわらず、初心の頃から「もっと力を抜きなさい」という指導が行われることをよく見かける。

初心の者が力を抜こうとすると、必要な力まで抜いてしまい、まさに脱力ということになってしまいがちである。

しかし、実際には「無駄な力」を抜くのであって、たとえば弓道においては詰合いを緩めることはあってはならない。

中国拳法には、開展緊湊(かいてんきんそう)という稽古のセオリーがある。これは、初心のうちは大きく全力で稽古することを心がけ(開展)、徐々に小さくまとめていく(緊湊)、という意味である。

実践に必要な圧倒的なパワーと正確さをまず養い、その後に、相手の動きに合わせられる命中精度やスピードを高める、という考えに基づく。

「無駄な力を抜く」は緊湊であり、まずはしっかりとした詰合い、伸合いを身につけるために「さぼらない」稽古をするのがよいと思う。

詰合いとはさぼらないこと

2010年01月27日 | 積み重ね
私の師匠は、御歳80歳に迫ろうとしているのに、まだ現役で弓を引いており、しかも、いまだに的中率は9割を超えている。

先生はいつも「会が日に日に浅くなっていくのがわかる」と言われるのだが、私から見れば、詰合い、伸合いとも、惚れ惚れするようにしっかりとしていて、力に満ちている。

「どうすれば先生のようになれるのですか?」と聞くと、必ず「正しい稽古を積み重ねてきた結果だ」という。

正しい稽古とは何か?先生曰く「さぼらない」ということらしい。

先生は誰に対しても、「さぼっている」ところを次々に指摘し、これを正していく。

自分も昔は散々言われたが、先生に言われて気合を入れなおすと、本当に射が見違えるように変わった。

特に初心の頃は、いろいろなところに課題を抱えているから、そこに意識が集中してしまうのであるが、そうすると他がおろそかになって緩みが生じる。これが「さぼる」ということらしい。

それを先生はいちいち「さぼっている」と指摘してくれる。実際、先生に指摘されたところを意識して、詰合い直すと、感じられる感覚が全く変わってしまうくらい射が変わるのである。

そうした経験を何度もすることで、いかに射にとってさぼらないこと、すなわち、詰合いが大事かがわかってくるのである。

弓手先行

2010年01月24日 | 積み重ね
角見を利かせるためには、弓手が利いていないといけない。

弓手が利いているというのは、大三から引き分けてくる際に、弓手に弓の圧がしっかりと掛かっているということだ。

一見、形の上では弓手と馬手がバランスよく引分けられていたとしても、そこに感じる圧の強さはバラバラであるということがある。(なぜこれが起こるのかは私にもよくわからない)

特に、多くの人に見られるのは、明らかに馬手に圧を受けて引分け、したがって弓手に力が入らず(弓手が利かず)、馬手で離しているという姿である。

これでは前述のとおり、離れを誘っていることにはならないので、どうしても離れは鈍り、矢勢は落ちる。

これを防ぐためには、大三から引分けの際に、弓手だけをまず先に始動させることである。ご存知の通り、弓手先行ということだ。

弓手を先に始動させると初めて弓手に圧がかかるのが分かる。この圧を保つように、馬手を弓手の下ろしに合わせるように引き分けてくると、弓手に圧をしっかりと受けたまま会に入ることができる。

このとき、初めて角見が利くのであり、手首ではなく、胸の開きで離れを誘うことができるのだ。

角見のハタラキ

2010年01月19日 | 積み重ね
弓道の技術としては、詰合い、伸合いとともに、角見が特に注目を集めやすい。これは、それだけ本質的な技術であるからであろう。

しかし、実際、角見がなぜこれほどまでに重要なのか、どんなハタラキを持っているのか、についてはあまり認識がされていないように思う。

よく言われるのは、「矢を真っ直ぐに飛ばす」というハタラキである。

これは確かにごもっともで、弓の構造上、角見がなければ矢は必ず前に飛ぶ性質を持っている(※)から、それを補正する役目として角見が貢献していることは間違いない。

しかし、これよりももっと重要なハタラキを角見は持っている。それが「離れを誘うハタラキ」である。

離れを誘うというのは、離れの刹那にほんの少しでも弓が的に向かって動くことをいう。

これは、たとえばパチンコ(Y字型の二股の先にゴムをつけ、石などを飛ばすオモチャ)で石を飛ばすときのことをイメージすると分かりやすい。

パチンコで石を勢いよく飛ばすコツは、手で持つY字型の台座を飛ばす方向に傾けてやることである。そうすると、まさに石が発射される瞬間、あたかもY字型の台座に引っ張られるように石が勢いよく発射されるのである。

もし、Y字型の台座を真っ直ぐにして石を飛ばすと、どんなにがんばったとしても、台座はゴムの反作用でねらいとは逆の方向に引き戻される(刹那のレベルで)。これは当然、飛んでくる石とはぶつかる方向であり、勢いを二重にそいでしまうことになる。

これと全く同じことが弓でも起こる。つまり、弓が止まったまま離れが出ると、刹那のレベルで弓は引き戻され、飛んでくる弦矢とぶつかる。(これは関板と弦がぶつかる音によってわかる:よく弦音と勘違いされるが、バキャーンというどうにも鈍い音である)

ところが角見が効いていると、離れの瞬間に弓が的の方向にぐっと動き、その勢いがそのまま矢に加わり、弓の鋭い弾性とあいまって加速度的に矢を加速させる。

このとき、弦は関板とぶつかることはないから、純粋にキャンという鋭い弦音が鳴るわけである。

このように、弓が矢を押す、あるいは、弓手が矢を押すようなイメージで離れることが重要であり、そのために角見は欠かせない要素なのである。


※離れの際、弦(矢筈)は弓に向かってぶつかるようにまっすぐ飛んでいくのに対し、矢本体(矢尻)は弓の前側面を沿うように出て行くから、的に対し前に出て行く。

道具に技を磨かれる

2010年01月12日 | 積み重ね
弽(ゆがけ)を買い換えて以来、弦が抜けて矢が暴発するという状況に悩まされていたが、ようやく落ち着きを見せ始めている。

以前は、馬手をほとんどひねることなく、ただ弓手に引かれるまま下ろしてくる感覚で引いていたが、それでは弦が抜けてしまうので、馬手のひねりを見直した。

取り掛けの際に弦がねじれない程度に強めに馬手のひねりを入れる。ちょうど、矢を番えている部分の弦が人差し指の付け根でしっかり感じられる程度である。

その圧を保ちながら、打起し、大三、引き分けと、会に入ると、手先に力を入れずとも、かなり安定した感じになる。

しかも、都合のよいことに、以前より離れの抜けが鋭くなったようだ。

まだオッカナビックリ引いている感じは否めないが、新たな境地に進む良い機会と感じる。

道具が新しい技を教えてくれるということなのだろう。

合わせ離れは百害あって一利なし

2010年01月09日 | 積み重ね
早気の一つの原因に合わせ離れがある。

合わせ離れとは、会で的についたら伸合うのをやめ、ねらいだけで離す離れである。

初心から3年くらい稽古を続けると突然中りだす時期が来るが、合わせて中っているというケースが少なくない。

会に入ってから的にイメージをつなげ、離れが出るのを待つようにすると、自然に弦が抜けて、容易に中る。離れも鋭くでることが多いので、感覚的には自然に離れが出ているように感じてしまう。

しかし、これが大きな落とし穴である。

まず第一に、合わせ離れで中りが出るということは、本来の的より後ろをねらっているということになる。

合わせ離れの人の後方(本座側)から矢筋を見てみると、会では的を外れて後方をねらっている。

それは当然で、ただ弦を離しただけでは、矢は前に出る性質を持っているからである(これについては後日詳説)。

本来であれば、ねらいどおりに中てるというのが本道であるのだが、それを感覚的に(イメージで)修正して、的より後ろをねらうことで中てているのである。

第二に、早気になりやすいということである。

これも当然で、的にイメージがついてさえいれば、それ以上持っている必要はないからである。したがって、自然に的についた瞬間に離れが出るようになる。

そして、それを意図的に制御しようとすればするほどに手先に力が入り、余計に離れを誘発してしまうのである。

これを防ぐには、ねらいを正しくすることである。

会での矢筋がきちんと的に向かっているかどうかを誰かに確認してもらい、そこから伸びあって離れを出す稽古をする。

したがって、初めのうちは、必ず前に抜けるはずである。しかし、それをねらいによって中てようとせず、胸を開いていく(つまり伸び合う)ことで中てられるように稽古を積むことである。

この過程を経ずして、本当の離れを習得する道はない。

鼓膜損傷!

2010年01月04日 | 積み重ね
昨年の暮れに弽(ゆがけ)を新しいものに買い替えた。以前と同じ三つ弽で、より指にフィットしたものが欲しくなり、購入したのだ。

ところがこれがなかなか難しい。以前の余裕のある弽に慣れ親しんでいるため、新しい弽ではなんとも心もとない感覚があった。

特に、大三から引分けにかけて、弦が今にも抜け出てしまいそうな感覚を覚えていたのだが、そのまま無視して今までどおり引いていた。

すると、案の定、会に入る直前、弦が抜けて、矢が暴発。耳を思い切り打ってしまった(元旦だというのに・・)。

今は20キロ強の弓を引いていて、それがほぼ会に入っていたわけだから痛くないわけがない。

しばらくうずくまり、痛みが治まってくると恐る恐る耳を触ってみた。外傷は特になかった。

が、おそらく打った衝撃が鼓膜に伝わったのだろう、3日たっても、いまだに耳鳴りが止まない。。(このままで直るのだろうか??)

抱負

2010年01月01日 | 積み重ね
雪化粧で新年が明けた。厳しい寒さと正月の静けさが重なり、厳粛な気持ちになる。

私は毎年、その年の目標を元日に掲げることにしている。今年はどんな目標をたてようか?

今年のテーマは「心の1年」である。

去年までいろいろなことに精一杯力を尽くし、精神的にも逼迫した中で時間を過ごしてきた。今年は、一息抜いて「余裕とゆとり」を大事にする一年にしたいと思う。

そして、これからの人生をより豊かにしていくための英気を養おう。