続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

散歩に出かけるように始める

2009年12月28日 | 積み重ね
これから年末、年始にかけて、いよいよ稽古がつらい時期になる。

何でもそうであるが、勉強であれ、稽古であれ、仕事であれ、積み重ねることはすべて億劫(おっくう)である。

それを面倒くさがって楽な方に行けば確かにラクであるが、往々にしてむなしい時間となり、後悔が生まれる。

人生を豊かにするものは面倒くさいことにいかに取り組むかにかかっているのかもしれない。

そんなとき、私はいつも「散歩に出かけるように始める」ことを意識する。普段着で、ふらっと出歩くように、気負わず、淡々と稽古に向かうようにする。

そうすると、以外に普通に始められることにちょっと感動したりする。

始めると次第に自然にのめりこんでいき、集中してくる。

試合や審査のときにも、そんな心持で的前に立てたら、どんなに素敵だろうと思い、稽古に出かける今日この頃である。

角見の効かせ具合

2009年12月27日 | 積み重ね
最近、角見の効かせ具合について研究している。

角見は大三の取り方によって、強弱を調整できる。たとえば、弓手をあまり開かず馬手だけを身体に近づければ強く、弓手・馬手ともに十分に身体に近づければ弱く角見を効かせることができる。

初心のころは前者を行うことで角見の感覚を知り、あるいは、早気気味の場合は後者を行うことで離れの誘発を防ぐことにもつながる。

角見を強く効かせると、離れが出やすく、射も安定するので実践向きと言えるだろう。しかし、会は浅くなり、離れまでの時間は短くなるので、その分、どうしても軽い射になってしまう(離れは鋭いが)。

一方、角見をあまり効かせなければ、身体の伸合いによって離れを誘うしかないから離れは出にくい。しかし、その分、十分に会を深く取ることができ、厚みのある射が出る。

おそらく両者のちょうどバランスの取れた射が理想なのであろうが、これを決めるのがなかなか難しい。おそらく一生引き続けて、行きすぎをそぎ落としていくしかないのだろう。

「中らない」は技が未熟ということ

2009年12月25日 | 積み重ね
弓道では往々にして精神的な何かを重視する傾向がある。たとえば射品とか、風格といったものである。

これらが大事だということに異論はないが、そういうことを言っている人ほど、勘違いをされているように思えてならない。

つまり、「射技はいいのだ」というような傾向である。

もちろん、言葉ではそうは言っていない。「射技も重要であるが・・・」という言い方をするのだろう。

しかし、射自体がそれを物語っていないことが少なからずあるように思う。つまり、会が浅かったり、離れが鈍かったり、的中率が低かったり、と。

弓道はあくまで武道であり、儀式ではない。したがって、心構えは常に生死を分かつ場面を想定していることが理想である。(極端ではあるが)

つまり、その一射がもし外れたら、その瞬間に敵に射られて死んでしまうかもしれないのである。だからこそ、技を磨き、いついかなるときでも最高の射を出せるように稽古するのだと思う。(これが中・貫・久の「久」の意)

そして、必中の射は、すなわち正射であって、それ以外はまぐれ中りに過ぎない。中るべくして中る、という射をこそ求めるべきである。だから、中りではなく、正射を求めるのである。

ここを履き違えてしまっては元も子もない。中らないということは、技が未熟なのだと思わなくてはいけない。(自省をこめて)

中らない ⇒ 中る ⇒ 正射により中る ⇒ 射品・風格(神秘さを感じるレベル)

本質に向かう稽古

2009年12月23日 | 積み重ね
人間誰しも「どうすればできるようになるか?」ばかりが気になってしまう。いわゆる、方法論である。これは弓道に限ったことではなく、仕事や学問においても同様の傾向が見られる。

しかし、それでは、どうしても表面的な部分にばかり目がいってしまい、結局、なかなか上達しないということになる。

上達の早い人というのは、目先の方法論にとらわれることなく、その本質を探究する姿勢のある人である。そういう人は、一時期、周りから遅れているように見えたとしても、突然、別人のような成長を見せるものなのだ。

例えば、「手の内をどうすればよいか?」ではなく、「手の内とは何か?どういうことを手の内と呼ぶのか?」という問いである。

「どう伸合い、どう詰め合うか?」ではなく、「伸合うというのはどういうことか?詰め合うとはどういうことか?」と問うのである。

このような問いを突き詰めていくことが本質にせまるということである。

言葉遊びのようであるが、これらの問いが持っているニュアンスには雲泥の差がある。

身体を入れる VS 引き寄せる

2009年12月21日 | 積み重ね
確か弓道教本第1巻の伸合いの章に、「・・・弓に身体を割って入る気持ちで・・・」というような記述があったように思う。

身体を弓に分けいれるように(身体を使って)引分けるということだが、これをする方法として二通りあるようである。

一つは、言葉通り身体を弓に入れていく引き方(前傾していく)。もう一つは、身体はとどめ、弓を引き寄せる引き方。

流派や先生によっても違うようであるが、私は後者を実践している。それは武道の観点から見て、後者の方が理に適っていると思うからである。

特に、武道特有の「力の理」を考えると、重心を保つことこそ重視する必要があると考える。

武道特有の「力の理」とは、自然の力(重力)を使うということだ。これを使うためには、リラックスして、重力を身にまとい、大地としっかりとつながっていなければならない。

それが出来ているときは、「しっかりとした支えがある」という感覚があり、強い弓を引いていても、ぶれる気がしないものである。

重心がずれてしまうと、感覚として違和感があり、どうもしっくりしないという感じになる。それは、大地という支えがなく、身体だけで弓を支えなければならないからである。

それでも左右のバランスが完璧に整っていれば射自体には問題ないのであろうが、天地の伸合いから生じる離れという意味では、左右だけでは心もとない。

どっしりと根を張り、凛と立ち、しなやかに枝を伸ばす大木のような射を実現したいものだ。

姿勢の重要性

2009年12月20日 | 積み重ね
最近、姿勢の重要性をつくづく感じる。

姿勢正しく胴造りを作り、姿勢正しく打起し、姿勢正しく大三をとり、姿勢正しく引分け、姿勢正しく離れを待つ。

「姿勢主導」とも言うべき、この引き方によって、最高の離れが生じる。最高の離れは、キュルリと振動でなく、弓の弾性が伝わってくるのですぐにわかり、大変気持ちがよい。

姿勢は常日頃、稽古をし続けることが可能である。普段から意識をすることにより、初めてそれが「自然」となり、意識せずとも「姿勢主導」の弓が引けるようになるだろう。

<姿勢の要点>
・首の背中側に重心がくること(重心を後ろに残す感覚)
・そのために、顎を引くこと
・リラックスして重心を意識し続けること

最大のコツは「重心を後ろに残す感覚」である。この感覚をもって、打起し、大三、引分け、会、伸合いができるとき、キュルっとした離れが出る。

しかし、意識しなければ、意外に簡単になくしてしまう感覚である。例えば、打起しでは前に、大三では斜め前方に、引分けでは的の方に、ほんの少しだけ引っ張られる傾向がある。

それを常々「重心を後ろに残す感覚」でもって修正をかけて、我慢して離れを待つのである。

これは日常でも同じで、急いでいるときなどは無意識にほんの少しだけ前傾になるし、座っているとき、本を読むときなども前傾になりがちである。

これを稽古し続けることによって、自然の領域まで高めたいのである。

心機一転

2009年12月20日 | 積み重ね
心機一転、ブログを再開することにした。

これまでの積み重ねをまとめようということで当ブログを開設し、一旦はその役割を終えたと考えていたのだが、思いのほか、継続を望む声が大きく、日々ご覧になっている方も多いようなので、趣旨を変えて継続をしたいと思う。

これからは、日々の気づきをつづっていく。したがって、もちろん体系的にはまとめず、自分の感じるままに更新をしていくつもりである。

そういうわけで、今後も当ブログをよろしくお願いしたい。

※趣旨の変更に伴い、コメントの受付をしないこととしました。これまでコメントを頂いた方には、心より感謝申し上げます。引き続き、閲覧にてお楽しみいただければ幸いです。