続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

高度な稽古法

2010年08月30日 | 積み重ね
合気道では、圧を逃がさないことを大変大事にして稽古を積む。

これは、「力を相手に伝える」ということが、実は自分として「圧が感じられる」ということに等しいからである。

相手と組み合っているときに「圧が感じられている」ということは、相手にも「力がかかっている」ということであり、これを維持し続けることで相手を自由自在にコントロールするのが合気道の真骨頂である。

弓道も全く同じである。

弓を自在にコントロールしようと思うのならば、力が効率よく弓に伝わっていなければならない。その証(あかし)となるのが、自分が感じられる「圧」である。

引き分けるときに感じられる圧にじっと意識を集中し、それを眺めてみよう。そうすると、今どこに圧がかかっているのか?どのくらいの圧がかかっているのか?それがどのように変化していくのか?が分かってくる。

おそらく初心のうちは、手先を中心に圧がかかり、しかも、それが引分けてくる間に、大きくなったり、小さくなったり、あるいは感じられなくなったり、変化が激しいものである。

それが段々と身体で引くことを覚えてくるに従い、背中や肩、首などに圧を感じられるようになり、しかも、それが引分けの間、ずっと保たれて会に至るようになる。

これが「身体で引く」ということであり、「身体の力を弓に伝える」ということに他ならない。

詰合い=全体感覚

2010年08月23日 | 積み重ね
よく誤解されることだが、詰合いとは決してどこか一部(たとえば関節とか)のことを指しているのではない。

極端に言えば、身体全体(両足、腰、背中、首筋、そして両肩、両腕、両手の内)が詰め合って初めて詰合いと呼ぶのだ。

まさに稽古の目指すところはここにある。すなわち、個別の感覚を統合して、最後には一つの全身の感覚(詰合い)として認識できるようにするのである。

たとえば、初心のうちは、射法八節という型から学ぶ。このとき、足の開きは矢束(やづか)くらいとか、打起しは45度とか、大三のときの妻手は額から拳2つ以内など、かなり細かい感覚(気遣い、意識)が必要となる。

しかし、少しずつ慣れていくにつれ、足踏みはこういうもの、打起しはこうすればいい、大三はこう、というように、大きな節として捉えて修正をかけていけるようになる。

さらにこれが進むと、身体全体の使い方として統合され、背中で引くとか、開いていくだけとか、全身を張り詰めるといった、ざっくりとした全体的な感覚として認識できるようになってくる。

これがいわゆるコツや勘というものであり、こういう全体(全身)感覚を養うことこそ、稽古を行う目的である。

したがって、いつまでたっても上達しない人というのは、往々にしていつまでたっても個別の技術にばかり意識がいっていて、それを統合しようとしていないということに他ならない。

大事なことは、個別の稽古を続けながらも、常にそれらの上位にある全体感覚(詰合い)を意識し、それをこそ追い求めることである。

しなる腕

2010年08月20日 | 積み重ね
最近、高校野球を久しぶりに見ている。

私も中学校を卒業するまでは野球少年で、7年くらい野球を続けていたわけだが、たいした成果も上げられず、面白さも分からず、辞めてしまい、苦い思い出となっている。

こうして大人になって野球を改めてみてみると、弓道と同様に多くの身体技術が含まれていることに気づき、驚かされる。

たとえばピッチャーの投球フォームがスローで映される場面などは圧巻で、まるで鞭(むち)のようにしなった腕から、放たれた球が一転ずっしりと重みを感じられるほど真っ直ぐキャッチャーミットに届く様は、大変見応えがある。

これなどは「身体を使う」ことの好例だろう。

つまり、腕でいくら速い球を投げようとしても、腕は固くなり、球は走らない。逆に、身体(特に下半身)を動力として、腕はそれを伝える役割に徹することで、腕がしなり、球に加速的に力を伝えることができるのである。

また、これを実現するには腕が脱力しきっていてはだめで、しなやかな竹の如く張っていなければならない。さらに、手先は球を握るでもなく、軽く持つでもなく、しっかりとそれでいて力むことのない、すなわち握卵(あくらん)の手の内でなければならない。

ここまで書けば弓道もまさに同様であることがわかるだろう。

すなわち、角見の働きや妻手の作用にばかり気が取られていてはだめで、むしろ、身体(胴造り)を基点に、背中、首、肩の辺りで引き分け、両腕はその力を伝えることに徹するのである。

そのために腕や肩をしなやかに伸ばし(詰合い)、両の手の内は適度に張り(握卵の手の内)、じわじわと身体を開いていくことで(伸合い)、離れを出すのである。

こうすると、まさに高校野球さながら、腕がしなるのがわかるほどしなやかで弾力ある強い離れを発することができる。

体力をつける稽古

2010年08月17日 | 積み重ね
技を磨くことも重要であるが、いつでも同じような射を引くためには体力も欠かせない要素である。

始めのうちはよい射が出せても、引いていくうちに会が浅くなり、的中率も下がるということでは、弓引きとしては心もとない。

ではどうすれば、安定して射が出せる体力を身につけられるのだろうか?

私がお勧めしたいのは、限界以上引く稽古である。これは身体を壊せといっているのではない。身体はムリな力を出すと壊れてしまうので、そうではなくて矢数をかけるのである。

たとえば、いつも百射引いているのであれば、月に一度は二百射引いてみる。五十射引いていれば百射というように、自分の限界と思われる矢数の倍くらいを目安に、引き続けるのである。

そうすると当然、射は乱れ、身体はへとへとになる。しかし、その状態まで引いたあと、体力が回復してからまた引いてみると、以前より楽に矢数が掛けられるようになるのだ。

これを私はサイヤ人の法則と呼んでいる。もちろんご存知のとおり、ドラゴンボールのサイヤ人である。

彼らは死んでしまうほどの深いダメージを受けて生還を果たすと、以前よりレベルの高い戦士になっている。

これはアスリートの世界でも同じだと思う。技は、毎日ムリのない範囲で、コツコツ稽古をした方が上達は早いが、体力は逆にある程度の期間をあけて負荷を極端に掛ける稽古が効果的である。

美の違い

2010年08月07日 | 積み重ね
前回に引き続き、日置流と小笠原流の違いについて考えてみたい。

私は日置流と小笠原流の一番の違いは、求める「美」の違いだと考える。

日置流は実戦と射技そのものを重んじる実戦の美、つまり「機能美」を追い求めているのであり、小笠原流は非日常と射技の昇華によって生じる奇跡のような美、つまり「芸術美」を追い求めているのではないだろうか。

これら二つの美の性質は、そのまま射技の精神に現れる。

日置流では、いつでも、同じように、しかも当たり前のように、十分鋭い射、そして的確な射を発することを目指す。

これはすなわち、無駄を徹底的に省き、淡々と技を磨き、射技そのものに成り代わろうとする、いわば職人の精神である。

一方、小笠原流では、型を重んじ、射技そのものというよりは、射技を含んだ礼射という流れの中で、自分を芸術作品へと昇華することを目指す。

これは徹底的に細部にこだわり、極限まで高度化された技術を、ほんの一瞬のきらめきの如く自ら体現してみたいという、いわば芸術家の精神である。

これら二つの違いは、そのまま日本伝統の美の価値観に受け継がれているものであり、どちらが優れているというものではなく、どちらも日本伝統の価値観なのである。

いずれにしろ、弓道が中てっこではない所以(ゆえん)は、射手が何を目指しているかによるところが大きいということであろう。

日本人として弓道に取り組むのであれば、いつかこうした美しさを体現したいものである。

実戦の射と芸術の射

2010年08月07日 | 積み重ね
以前、競技用の射技と礼射の射技とを使い分けるという話を書いた。

これに対し「二つの射技の違いは会の長さだけか?」という質問をいただいたので、ここで回答したい。

見た目の上からは会の長さの違いしかおそらくわからない。しかし、実際には雲泥の差がある。

それは会の深さの違いである。

競技の射は、会に入ってからその延長として一気呵成に離れを出すのが特徴である。

そうすると、だいたい3秒ほどで離れの時機(タイミング)がやってくるのだが、このとき身体の働きとしては、力を抜いていくという作用が起こっているのが一般的である。

言い換えると、会が浅いうちに、意図的に力を抜くことによって離れの時機を早めているのである(※1)。

これに対し、礼射の射は、会に入ってから一切気を抜かず、むしろ気を充実させ、余計に身体の張り合い(詰合い、伸合い)を高めていく。

それでも開き続けていくと、徐々に妻手から弦が抜けていき、離れの時機を迎えることになる。

これが7秒の離れである。

このように、詰合いを一切解くことなく、弦が自然に抜けるのを待って離れの瞬間を迎えることを、深い会と呼ぶわけである。

私はこの二つの射技の甲乙をつけようとは思わない。むしろ今風に言えばTPO(時と場合)に応じて使い分けるのがよいと思う。

実際、戦国時代のような実戦弓道であれば、圧倒的に前者がよいだろうし、現代のような芸術性を重んじる弓道であれば、後者を追い求めるのも面白いだろう。

ちなみに実戦射技を追い求めたのが日置の流れであり、芸術射技を追い求めたのが小笠原の流れであると私は考えている(※2)。


※1特に妻手の力を抜いていくと離れが出やすいばかりでなく、より弓手主導になり鋭い離れになる。

※2現代弓道は小笠原の流れを重んじる傾向が強いが、私は日置流の実践射技も伝え残すべきものであると思う。これらは、全く違う哲学が根底にあるように思われ、どちらも甲乙つけがたい。

大三は張り上げるところ

2010年08月03日 | 積み重ね
最近の人の射形を見ていると、打起しが高く、そこから大三にかけて矢筋が下がってくる人が多いが、これは誤りである。

大三は本来、打起しから弓手、妻手ともに張り上げていくところであり、結果として、打起しと大三での矢筋の高さは変わらないことが理想である。

弓手と妻手を張り上げることによって、自然に半分くらいの矢尺が取れる形になるのが理想であるのだが、高い打起しから下ろして来ることで大三を取るとどうしても大三が開きすぎてしまう傾向がある。

本来弓は大三から下ろしてくるものであり、打起しから下ろしてくるものではないのである。

このことは武者系である斜面打起しを見れば明らかである。実践の場では、打起しなどという非合理な節は飛ばしてしまって、いきなり大三から入る。

いきなり大三で、弓手と妻手を張り上げたならば、そこから一気呵成に会まで開き下ろしてくるのである。

たとえ礼射を重んじる現代の弓であっても、この射法の原理をおろそかにしてはならない。