続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

最後の詰合い

2009年08月05日 | 極意探求
前述している「近づける引分け」によって、最深の会に入るとき、気をつけねばならないのが「物見(ものみ)」である。

物見は、通常、打起しの前(弓構え)で行われ、それ以降、意識されないことが多い。しかし、実際には、物見は非常に重要な役割を負っている。

それは、不安定になりがちな最深の会の状態に楔(くさび)を打ち、しっかりと安定させる、ということだ。

具体的に説明しよう。

肩根を完全に下ろし、背中を使って開いていく際、何も意識しなければ普通、物見が浅くなり、顎(あご)が上がる。なぜなら、首の右側の筋が馬手の肩根の筋に引っ張られるからである。(逆に言えば、首筋に引っ張られ、肩根が上がる=肩が縮まる=詰合いが抜ける)

そこで引分けの間、これを直す作用を働かせるのである。(このことを「物見の詰合い」と呼ぶ)

つまり、大三から引き分けてくる際(弓を身体に近づけてくる際)、顎を引き、物見をしっかりと入れるようにするのだ。

こうすることで、首の右側の筋が真っ直ぐに立ち、馬手の肩根と張り合う感じになる。弓手に比べ、馬手は引かれるままに引き下ろしてくるため、会において詰めあう感覚を得にくいのであるが、物見の詰合いを意識することで「張り合う感じ」が得られる。

また、この首の張り(特に顎を引く作用)により、縦線も安定し、肩根が落ちやすくなる。もともと肩根は横線ではなく、縦線であり、縦線の軸である首筋を上向きに張り伸ばす(顎を引くと自然にこうなる)ことで、肩根は逆に張り下げられるのだ。

物見の詰合いは、物見を入れた瞬間から「首の張り」として感じられるものである。したがって、そこから離れ、残身に至るまで、意識を向け続けることで、縦線による引分けができるようになる。

弛まない離れ

2009年07月22日 | 極意探求
弛(ゆる)まない離れは、やはり見ていて気持ちがいいものである。会に入ってからもなお、もたれることなくじりじりと伸合い続け、糸がふっつりと切れたように離れる。

こうした離れには、離そうという意志が全く感じられず、まさに自然のまま、伸びあっていたら切れた、という感じに見えるものだ。

緩まず離れを出す最大のポイントは、会に入ってからなお伸び続けることである。

弓手を的に向かって伸ばし、馬手を引っ張るのには限界があるが、詰めあったまま肩根を中心に背中で開いていくのは無限にできる。(離れに至るまでは)

これが弛まない原理である。

前回述べた「近づける引分け」は、まさにこれを実現する引分けのイメージである。

つまり、打起しから徐々に弓を身体に近づけていき、肩に抱えるようにして背中で入った最深の会から、さらにゆっくりと肩を開いていくのである。

この動きは当然、外から見えるほど大きなものにはならない。なぜなら、顔があるため、会から先へは両こぶしのラインを背中に近づけることができないからだ。

ただし、肩根はまだ余裕を持って開いていくことができる。したがって、会に入ったら自然の離れがでるまで、じわじわと肩根を広げていけばよいのだ。

私の感覚では、会ではほとんど弓の力と和合しているだけで、それ以上開く意識はあまりない。しかし、もたれているのではなく、あくまで「開き続ける」ことが重要であることは言うまでもないことである。

このようにすることで、いわゆる「無限の引分け」という極意も、それほど難しくなく経験できるのではないかと思う。

「下ろす」から「近づける」へ

2009年07月19日 | 極意探求
「上下」を意識する下ろす引分けが自然にできるようになったら、今度は「前後」を意識して引分けをすることで、もう一段高みに上がることができる。

つまり、打起しから、大三、引分け、会に至るにしたがって、弓を身体に近づけていく、ということだ。

下ろす引分けは、高く上げた打起しから、「上下」だけを意識して、ただ下ろしてくる、というものだった。これにより、引いたり、押したりではなく、詰合いによって弓を押し広げる感覚を身につけることを意図していた。

これと同様に、近づける引分けは、「前後」だけを意識し、詰合いながら胸を開き、弓を肩に背負い込み、背中で会に入る、という感覚を養うものである。

下ろす引分けが自然にできるようになっていれば、近づける引分けはそう難しくない。意識を「上下」から「前後」にかえ、打起しから大三、会へと至るまで、弓を身体に近づけてくることだけを意識するのである。

具体的に見ていこう。

まず、打起しをできるだけ身体から離してとるようにする(高さも十分にとること)。こうすることで、大三に向けて、弓を近づける感覚がわかりやすい。

もちろん、肩根を落とし、腕をしっかりと伸ばし、やや円相を保つようにすることは以前と変わりはない。

次に、打起しから大三にかけて、弓手は肩根を中心に回し開き、馬手は引かれるまま肘で保ち、やや身体に近づける。

このとき、馬手を引かれるままに身体に近づけるためには、肘をやや張り上げることが必要なことに注意をしよう。やってみればわかると思うが、これは馬手を身体に近づけるためには必要な動作である。

これで、打起しのときの両こぶしを結んだラインは、大三でやや身体に近づくことになる。(イメージとしては、打起しでは両こぶしのラインを、大三では弓手のこぶしと馬手の肘とのラインを考えるとよい)

そこからさらに、そのラインを背中のちょうど両肩根を結ぶラインに向けて、近づけるように引き分けてくる。

このとき、的に向かって弓手を伸ばしたり、馬手を引いたりする意識を一切捨て、身体に弓を近づける「前後」の意識だけを持つようにすることが肝要である。(上下の引分けができていれば容易にできるはずである)

このように引き分けると、深く詰合いながら、弓に深く分け入る感覚が体感できる。

シンプルに捉えること

2009年07月16日 | 極意探求
物事は、単純に、シンプルに捉えることがとても大切である。自然は一見すると多種多様であるが、その本質はゆっくりと変化し続ける川の流れに等しい。

本質を捉えることで、物事をシンプルに捉えることができる。

弓もそうである。多くの場合、枝葉ばかりを気にして、複雑怪奇な世界に入り込むのを好む傾向があるが(私自身の自戒も含め)、これは正しい研究の姿勢とはいえない。

むしろ、枝葉の裏側にある、一本の軸(本質)は何か?それを捉えたい、という一心で研究し、稽古することが大事だと思う。

そういう意味で、弓道の本質は、限りなく深い詰合いであり、そこから生まれる最深の会であり、身体での伸合い(発勁)である。

それが実現したとき、弓と矢と射手が一体となり、まるで木の葉から滑り落ちる一滴の雨水の如く、自然のままに離れが生じる。

ただそれだけのことだ。


自然の離れはなぜ出るか?

2009年07月12日 | 極意探求
これまでいろいろと説明をしてきたが、要は、最深の会を生み出すための3つの条件を説明してきたに過ぎない。それは、以下のとおりである。

 ①縦線の安定
 ②肩根から手の内までの最深の詰合い
 ③的に向かってまっすぐに伸びる伸合い(背中に向かう開く勁力と手の内の作用)

これらは①から③までちょうど因果の関係になっている。つまり、縦線が完成して初めて深く詰めあうことができ、完全な詰合いがあって初めて伸合うことが出来るようになる。

そして、これらの先にあるものこそ、最深の会であり、自然の離れである。

ここでいう自然の離れとは、自分で離そうとすることなしに、弓力と身体の力(勁力)とが自然にはじけて離れを出すことを言う。

実は、上記3つの条件こそ、自然の離れを生み出す基本的なシステムなのである。

今回はこのことについて簡単に説明したい。

なぜ、上記3つの条件を満たすと、自然の離れが生まれるのか?

それは、これら3つの条件が、伸筋(勁力)のみを使わざるを得なくなる状態に持っていくからである。そういう意味では、詰合いの完成こそ本質といえるだろう。

勁力を矢印でイメージしてもらうと(写真参照)、縦横十文字に詰合い切った会では、両足(2本)、頭(1本)、両腕(2本)という5つの矢印が全て身体の中心から外側に向かって放たれていることがわかるだろう。(もし完全な詰合いでなかった場合、矢印はどうかわってしまうだろうか?)

これは、実際の会での感覚とイコールである。つまり、完全な詰合いによって最深の会に入ったならば、会では「身体で押し広げる」という感覚になるのだ。

これは例えば、四方を狭い、強固な壁で覆われていることをイメージしてほしい。体育座りでようやく入れるような狭い箱である。

そこに例えば閉じ込められているとして、そこから抜け出るために、全力でその箱を押し壊そうとしてみよう。

このとき、手足の力ではなく、身体全体で圧をかけていることが感じられるだろうか?

それでも、もちろん強固な壁はびくともしないのであるが、背中、首、足などは全力で壁を押していて、すごい圧力を感じることができるはずである。(腕はほとんど使わないことに注目。支えにはすれど、腕の力で押そうとすることはしないはずである)

この身体全体で弾けさせようとする感覚こそ、勁力による離れの発動のイメージである。

もし上記で突然箱が壊れたら、どうなるだろうか?自分も箱が壊れるとともに、転げ出てしまうだろうか?

否、そうはならない。四方八方に身体全体を使って圧をかけているならば、箱が壊れた瞬間に、身体全体から四方八方への力が抜け、伸びきった感覚になるだけで、微動だにしないだろう。

もちろん箱は、限界の圧を受けて、激しく四方に飛び散ることになる。

これこそ、自然の離れのイメージである。

手の内により生まれる真の伸合い

2009年07月02日 | 極意探求
これまで、詰合い、伸合いが本質であり、手の内はその延長という説明をしてきた。当然、このことは正しいと信じているわけだが、だからといって手の内が重要でないとは考えていない。

むしろ、手の内の完成によって初めて、詰合い、伸合いは完成する。詰合いについては、手の内が弓手の延長であるから当然のこととして、伸合いについても実は手の内が大きく関連しているのである。

このことについて少し詳しく見ていこう。

手の内の役割は、前回の「受ける手の内」で説明したように、弓力の圧(弓からまっすぐ押される圧)とねじれの圧を全てもらさず蓄えることにある。

特にねじれの圧を蓄えることが本質的な役割なのだが、もしこれが働かなかったとしたら、伸合いはどうなるだろうか?

もし手の内でねじれの圧を受け切ることなしに伸びあったとしたら、これは開いていく伸合いになる。ちょうど、徒手で伸び合っているのと同じ状態である。

実際に徒手で伸び合うとわかるのだが、最深の会に入ってからさらに伸びあうためには、胸を開き、背の下方に向かって開いていかざるを得ない。

これは伸合いとしては正しい伸合いである。(「どの方向に伸び合えばよいか?②」参照)

しかし、手の内が完成すると、これと全く同じ動作をしても、全く違う作用が働く。それは「的に向かってまっすぐに伸び合う」という作用だ。

正しい手の内によってねじれの圧を逃すことなく蓄えるようになると、ただ胸を開いていったのでは弓が手の内の圧に引っかかり、完全に会に入ることができないということが起きる。

ところが、逆に、まるでこれを解消するかのように、ねじれの圧に大して反対の作用が手の内で働く。つまり、角見を通して的に向けてまっすぐに押す作用だ。(これをぜひ体感してもらいたい)

これは前回も書いたように、意識的に押すのとは全く違う。あくまで手の内は弓力を受けているだけなのだが、そこに働くねじれの圧への反作用として、角見を通して的に向けてまっすぐの力が働くのだ。

いわば、手の内は、背中と弓手による開く力を、的に向けてまっすぐに伸ばしていく力に変換する機能を担っているのである。

このようにして会に入ると、自分の力だけでは到底及ばないくらい深いところまで伸び合うことができる。しかも、弓手はまっすぐに伸びているから、離れでほとんど弓手が動くことがない。

不動の弓手から生まれる離れは限りなく鋭く、矢飛びは限りなく軽い。

受ける手の内

2009年06月30日 | 極意探求
手の内に関してよく聞かれる質問がある。それは「どこに力を入れればいいのか?」というものだ。

これに対し、いつも同じように応える。「どこかに力を入れる必要はない」と。

手の内は、弓手の詰合いの延長である。したがって、弓手同様、大三以降、「押す」とか、「伸ばす」とか、そういう作用を必要としない。

むしろ大事なことは、大三において、肩根、肘、手首、手の内を全て”最大限に深く”詰め合うことであり、それ以降、この深い詰合いを崩さないように、背中と肩根、腕の下筋のみで、会にまで至ることである。

その間、当然、弓から受ける圧は大きくなっていく。しかし、それに対し、手の内の力で何とかしようとすれば、当然意識はそこに集中し、他の主要な詰合いが必ず緩む。

それを防ぐには、手の内を大三で固めたら、それ以降、それを崩さないように意識するということである。

イメージとしては、手の内に力を込めていくのではなく、固めた手の内で弓の力を受け止めていく感じに近い。(これを「受ける手の内」と呼ぶ)

無論、ここでいう弓の力とは「弓力の圧」だけでなく「ねじれの圧」も含む。つまり、大三で詰めあった手の内と弓とが一体となり、そこから深く引き分けてくる間、弓力の圧もねじれの圧も全て手の内で受けることになる。

技術的には、次のことが肝要である。

 ①大三において、手首を返しすぎないこと
 ②弓力を角見だけで受けないこと

①については、前回説明した中押しが重要だということである。大三で、中押し以上に手首を外側に返してしまうと、それ以降、ねじれの圧が生まれにくい。したがって、会では弓を押すことになってしまう。(次回詳説)

②についても同様に、角見だけで弓力を受けようとすると圧が集中し、どうしても力を入れざるを得なくなる(=押してしまう)。したがって、角見(親指)だけでなく、親指と小指両方の締めによってねじれの圧を生み出すことが重要となる(※)。


※このことを一般的には「天文筋に外竹を合わせる」ということで説明することが多い。ただ、そこにばかり目がいくと、形式的になるばかりか、上押しになったり、手首を返しすぎたりと、弊害もあることに注意したい。本質は、親指(角見)だけでなく、手のひら(ベタ押し)でもなく、親指と小指の付け根(朝顔の手=手の内の詰合い)によって、弓を巻き込むということである。

「中押し」とは何か?

2009年06月26日 | 極意探求
手の内は、弓手詰合いの延長であり、したがって肩根からまっすぐに伸びる「中押し」が基本となる。

では、「中押し」とはどういうことを言うのであろうか?

結論から言えば、中押しとは、弓手の肩根、下筋、肘、前腕、とつながる伸筋を、途切れさせることなく手首、手指へとつなげることをいう。

これも実際にやってみた方が理解は早いと思われる。

剣道を思い出し、徒手でいいので竹刀を(持っているかのように)腰の前で構えてみよう。あまり難しいことは考えず、肩を落とし、背筋、首筋を張り、顎(あご)を引く。腕はリラックスしつつ、円相(※)をつくり、最大限伸ばしていく。弓道と同じである。

これができたら、手の内に注目してほしい。

まず、腕の円相に合わせて、手首をやや内側に丸め、手の中が顔を向くようにする。この状態から、雑巾を絞るようにゆっくりと手首を外側に曲げていこう。

このとき、肩根、腕からつながる伸筋を意識しながら、その伸びにつながるように手首を外側に伸ばしていく。感覚を最大限高め、ちょうど腕の伸びに手指の伸びがぴったりと一体となる手首の角度を見つけてもらいたい。

どうだろうか?

おそらく、普通思うよりもやや外側に手首が返っているところで、ちょうど前腕とまっすぐに伸び合うことができるのではないだろうか。(もちろんそれより外側に手首が返ってしまうと、伸びが重ならない感じがするはずなので、ちょうどよいところを見つけてほしい)

そして、もう一つ。

上記の状態から、ほんの少しずつ上押しをかけていこう。上押しとは、手の内の一番上に来ている親指を下に向けていく(親指の筋を伸ばしていく)ということで、結果として手首が下を向いていく。

これは先ほどよりもさらに微妙な感覚が必要であるのだが、少しずつ上押しを加えて、さらに前腕と手指とが一体となる角度を探ってみよう。

これもおそらく、無意識に構えたところから、若干上押しをかけた方が、より強い一体感が得られるのではないかと思われる。

この状態が剣道でいうところの中段の構えである。そして、このときの手の内の状態こそ、弓道における中押しである。

つくる過程でよくわかるように、中押しは決して外観により定義されるものではない。内的に、伸びが手指に至るまで延長されているか否かによって決まるものである。


※円相とは、ほぼまっすぐであるが、少し丸みを帯びている様をいう。円形と捉え、肘を張らないように注意。

角見と詰合いは表裏一体 二.

2009年06月18日 | 極意探求
では、詰合いと角見の関係とはいったいどういうものなのだろうか?

正面打起しの場合で具体的に考えてみよう。

正面打起しの場合、手の内の完成は大三の完成と同時に行われる。すなわち、打起した後、大三に向け弓手を開いていくのと同時に、円相をなしていた弓手の手首を腕の中筋に対してまっすぐに伸ばしていく。

そして、大三の完成した時点で、手首は腕に対しまっすぐ延長線上にあり、手指もまた、まっすぐに張り伸ばされている(「朝顔の手」参照)。

これが大三における手の内の完成である。(したがってこの時点では天文筋と弓とがまっすぐにはならないことに注意。まっすぐにするには手首を曲げる必要がある※)

そして、ここから引分け、会、離れに至っては、手の内を崩すことも、手首を曲げることも許されない。つまり、大三でまっすぐに詰め合った弓手(手の内を含め)は、残身に至るまで全く形を変えないということである。

では、なぜこれで角見が利くのであろうか?これには角度と弓力(弾性)が関係している。

まず、角度については、身体の真上から見たとき、両肩のラインを0度とする。そうすると、打起しのとき弓手の角度は90度に近く、残身のとき0度である。

大三のときで弓手はおそらく30度くらい、そこから会に近づくにつれ、角度は段々小さくなっていく。

一方、弓と弦は、真上から見たとき肩のラインと並行に移動し続けるので、弓手との角度はまた30度(大三から会までで)ほどの変化が起こる。

この角度の変化が、手の内の中で「ねじれ」という圧を生む。

もう一つ、大事な要素が弓力(弾性)である。これは単純で、大三から会、離れに至るまで、つまり弓を開けば開くほど戻ろうとする力が高まる。したがって手の内に掛かる弓の圧力は増し続ける。(手の内に力を込めずとも!)

これらの二つの圧、すなわち「ねじれの圧」と「弓力の圧」が詰め合った手の内の角見に結集され、「角見が利く」ということになるのだ。(正確には、ねじれの圧を弓力の圧で抑え高めるということ)

したがって、角見を利かせる上で最も大事なことは、弓力の圧に負けない詰合いの強固さであり、ねじれの圧を逃がさないために無限に続く伸合いである。


※天文筋を弓に合わせることを重視し、手首を上押し気味に曲げて大三を取ると、それ以降、引分けの間に手首を腕に対してまっすぐに直すことは非常に困難になる(弓力の圧が増し、上押しを続けなければ緩んでしまうため)。したがって、この場合、ほとんど会では上押しとなる。

角見と詰合いは表裏一体 一.

2009年06月11日 | 極意探求
手の内(※)が大事とされる大きな理由の一つに、角見の重要性が挙げられる。つまり、手の内によって角見の利き方が変わってくるという議論である。

これは確かにそのとおりで、いかに最深の引分けと会を持ってしても、最後の最後、手の内から弓に力が充分に伝わらなければ、鋭い離れにはなりようがない。

しかしその点ばかりが注目され、「どうすれば角見を効かせられるか?」といった議論がなされることが多いが、これは枝葉末節といわざるを得ない。なぜなら、「角見が利く」ということは一つの結果であって、射の目的ではないからだ。

射の目的とは、中・貫・久(ちゅう・かん・きゅう)であり、それを実現するのは縦横十文字の詰合いと伸合いである。

詰合いと伸合いの一つの結果(現象)が「角見が利く」ということであって、角見が利くから縦横十文字の規矩(きく)が実現するのでは決してない。

実際、角見に蓄えられる力(圧)は、肩根から手の内に至る一連の詰合いによって、初めて生まれる力である。

このあたりの具体的な仕組みについては次回説明するが、まずは、手の内の技術だけで角見を効かせようとしても、射の本質には近づいていかない、ということを認識することが重要であろう。

※以降、「手の内」と書いたとき「弓手の手の内」を指すこととする。「馬手の手の内」については、「馬手手の内」と記述する。