続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

一点集中

2010年06月21日 | 積み重ね
射は、一見すると平坦な動きのように見えるが、実はメリハリがとても重要である。

メリハリとは、力の使いどころ、入れどころのことであり、始めから終わりまで力を入れ続けていたのでは固くてなんともならないし、逆もまた武道としては成立しない。

では、どこで力を全開にすべきであろうか。(ここでいう「力」は「力む」とは違うことはもはや言うまでもないだろう)

それはいわずもがな「離れ」の瞬間である。八節としては「離れ」と表記するが、この会から離れが出るその一点にこそ、全身の力が集約されなければならない。

ところが、実際にはこれがなかなか難しい。というのも、大抵最初の方が気合が入るものであり、打起し、大三、引分けくらいでその気合と力を使い果たし、離れの瞬間に緩むことが多いのである。

これを防ぐためには、以下の二つが大事である。

一.打起しは特にリラックスし、大きく、伸び伸び行うこと

二.引分けを始めたら、そこからは一気呵成(いっきかせい:一息に)に会まで到達し、その後、止めずに離れの瞬間を待つこと

特に、二.において、「離れの瞬間を待つ姿勢」が大変重要であり、これは無意識に待つのではなく、意識を全開にして、全てを意識するくらいのつもりで待つことである。(たとえば身体の隅々にいたる感覚や自分の立ち姿、あるいは周りの状況なども含めてとにかく意識を全開にしていること)

この意識(心)と全身の詰合い(技)とが一体になると、まさに一点集中、鉄石相剋して火の出ずる離れが出るのだ。

早気を直す稽古

2010年06月15日 | 積み重ね
先日、早気で悩んでいる学生にある稽古法を薦めた。

その子は、型は非常にきれいなのだが、手先の力が入りすぎているため、肩に担ぐまで引いてくることが出来ず、結果、会で不安定になり、弓に負けて矢が出てしまう、という症状のように見えた。

そこで、家に弓を持ち帰り、以下のポイントに注意して肩入れの稽古をするように伝えた。

<ポイント>
①弓を相棒と思って、相棒をストレッチさせるつもりで引いてくること
②ストレッチだから、相棒が痛がらないように、手先の力を抜いて、やさしく引いてくること
③柔らかく、大きくストレッチしてやることで、相棒を気持ちよくさせること

その子の中で、何らかのイメージが沸いたようで、早速帰ってやってみると帰っていった。

この稽古を少なくとも一ヶ月毎日続けたならば、手先ではなく、身体で引いてくる感覚が少しは感じられるようになるだろう。

そうなれば、矢を番(つが)えても同じことができるように稽古を積めばよい。

早気にもいろいろあるが、原因のない早気などないと私は考える。

頬付けと口割り

2010年06月10日 | 積み重ね
頬付けと口割りの重要性はよく知られているが、それがなぜ重要かは、誤解も多くあり、あまり知られていないように思う。

頬付けと口割りが重要なのは、深い会に至る目安となること、ただ一点である。

これは以前このブログで説明している「下ろす引分け」と「開く引分け」に関係している。

つまり、下ろす引分けで「口割り」まで下ろしてくることができれば最深の会となるし、開く引分けで「頬付け」ができるところまで開ければ最深の会となる、ということだ。(実際には両方があいまって、頬付け、口割りの状態となる)

これらが目安となるには、前提として「深く詰合いながら会に至れば」ということがなければならない。なぜなら、浅い会、つまり肩根が縮まっている状態で口割りや頬付けをするのは、それほど難しくないからである。

肩根が落ち、開き切っていれば、それだけ引分けで描かれる半円は大きくなるわけだから、ぎりぎりの深い詰合いを保ちつつ、より大きな弓の力を受けとめることになり、これは容易ではない。

しかし、そのぎりぎりの状態を維持し続け、頬付け、口割りまで至ったならば、自然に自分が持ちうる最深の会が得られるのだ。

それはまるで張り詰めた糸のごとく緊張感に満ちた会であり、そこからほんの少し伸び合うだけでその糸はふっつりと途切れ、不動の弓手から弦がはじけ、矢が的を貫くのである。

首根と肩根

2010年06月06日 | 積み重ね
会で浅くなりがちなのが、いわゆる肩根である。

簡単に「肩」といってしまって間違いではないのだが、正確には首と肩が交わる付け根である。

ここが、会において縮まってしまっている人が多く見られる。

幹となる胴造りから初めて枝分かれする部分であるから、詰合いにおいて最も大事な部分といえるにもかかわらず、この肩根が注目されることが少ないのは残念なことである。

肩根が縮まると、肩が上がり、見た目にも詰まって見えるので、全体として小さな射となる。当然、そこから生まれる離れは、たとえ鋭さはあったとしても、どこかこじんまりとしていて、緊張感は感じられないものとなる。

これを防ぐためには、取掛けの時点で、肩が落ち、開いている(縮まっていない)ことを確認し、その感覚を維持したまま、打起し、引分け、会へと至るしかない。(これこそ詰合いと呼ばれる技術そのもの)

このとき、同時に首根を意識すると、さらに深く詰合うことができる。

首根は肩根と同じ部位であるが、肩(横)だけでなく、首(縦)に繋がる筋を伸ばすことで、さらに詰合いが完全になる。

具体的には、こちらも取掛けの時点でしっかりと顎を引き、首の筋が背中を引っ張る心持ちで、それをずっと維持したまま、打起し、引分け、会へと至るのである。(特に物見と大三のときに抜けやすいので注意)

この二つの詰合い(まさに縦横十文字)により、真に深い会を実現することができるのである。

会の深さ

2010年06月02日 | 積み重ね
射の優美さは、何と言っても深い会とそこから生じる鋭い離れに集約される。では、深い会というのはどういうことをいうのだろうか。

それは引き尺の長さでも、会の時間的な長さでもない。各関節が持ちうる詰合いの度合いを「深さ」と呼ぶのである。

詰合いの最大値は人によって当然異なる。なぜなら、関節をどのくらい開いて保てるか(詰合い)は、その人の骨格や背丈、関節の具合によって違ってくるからだ。

しかし、各々が持っている最大の詰合いに対し、それをどのくらい発揮しているか、については、一律に割合で示すことができる(あくまで感覚的に)。

つまり、もともと身体が大きく、詰合いの最大値が大きい人でも、余力を残すような会では「浅い会」となるし、逆に身体が小さく、詰合いの最大値は小さくても、その人がもっている最大の詰合いでもって会に入るならば、それは「最深の会」となる。

社会人の射に比べ、学生の射が軽く見えてしまう(全てではないが)のは、会が浅いためであることが多い。

特に、中りを求める稽古を続けていると、どうしても余力を残したまま中てようとするので会はどんどん浅くなる。

一方、社会人では、射形が尊重されるので、深さを求めるのであるが、今度は、日常的に鍛えていない筋肉の活用が求められるため、会を長くもてなかったり、不安定になり中りが安定しなかったりする。

これを克服するには、深い会での稽古を長年続けるしかない。深い会で使う筋肉は、腕の筋肉ではなく、背中の筋肉である。深い会での稽古を長年続けることによって、この背中の筋肉が鍛えられ、深い会であっても安定した射を発現できるようになる。

このとき初めて射は完成するのである。