続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

中りは弓道の命

2011年01月31日 | 積み重ね
昨日、団体戦があった。私は散々な戦績でチームのみんなに迷惑を掛けてしまった。

改めて思うのは、弓道は当たって何ぼということである。

どんなに矢勢がよくても、どんなに体配が美しくても、射品があろうとも、中っていて初めてそれらを語る権利が生まれるである。

とはいえ、昨日の私の射は見るも無残な大変残念なものだったので、中りだけというわけではないのだが、、、

自分のために、今一度、稽古のテーマをあげておきたい。

一.離れの時期を見極めること。会で安定してしまい、自分で開かなくてはならないようでは安定した離れは生まれない。

一.そのために、弓手主軸にすえて角見を確認し、妻手十分に送り込み手首から矢に圧を掛けて大三を取る。

一.引分けは弓手の肩根を基点に行い、妻手が背中を通る心持ちで深く会に入るべし。

一.離れの時期は、満月から新月に入り、さらに矢が内側に入る準備が整ったと感じられたときなり。自らの意思で離すこと無し。

純粋に楽しむか?上達を目指すか?

2011年01月22日 | 積み重ね
上達の早い人のもう一つの特徴は、よいときと悪いときの違いを見極めようとするということだ。

えてして、調子のよいときにはそれを楽しんでしまうし、調子の悪いときには「今日は調子が悪い」といって諦めてしまう。

弓の楽しみ方としては当然それも重要であろうが、これでは上達することはなかなかにして難しい。

しかし、中には調子のよいときでも「それがなぜよいのか?」「悪いときと何が違うのか?」と考えて、その答えにたどり着く人がいる。

そういう人は、今度はそこに気をつけて引くようになるから、それが身につき、次第に当たり前にできるようになる。

これが上達というものである。

偶然に身を任せ、その時々の弓を楽しむということも一つの弓の楽しみである。しかし、偶然から法則をつかみ、それを我が物として必然に変えていくところに武道としての醍醐味があるのも事実である。

これを昔の人は「久(きゅう)」と呼び、中り(中)、貫通力(貫)とともに、目指すべきゴールとして掲げたのである。

勘がよいとは何か?

2011年01月13日 | 積み重ね
どんな世界でも同じだが、勘のよい人もいれば、あまりよくない人もいる。私も含めて、あまりよくない人の方が圧倒的多数であろう。

しかし、中には少しの稽古量で、人の何倍も早く、コツをつかみ、一気にうまくなってしまう人がいる。

そういう人と我々とは何が違うのだろうか?

一般的には「素質が違う」ということになるのであろうが、私はこれには断固として反対する。勘のよくない(素質のない)人間代表として、勘とは何か?ということを武道を通じて探求しているのである。

今のところわかっていることとしては、勘がよいというのは、稽古の振り幅が大きいということだ。どういうことか?

たとえば、先生に「弓手で押していけ」といわれたとき、勘のよい人は、体が前に行ってしまおうが、妻手がおろそかになろうが、まずは言われたことを極端に行ってみる。

これによって、先生だけが知っているコツの味を知ることができるわけだ。

ところが、一般的にはこれは非常に難しいことである。なぜなら、これまで培ってきた自分の型というものがあるからだ。

なので、普通は自分の型を崩さない範囲で、少し先生に言われたことを意識して「弓手を押してみる」ということになってしまう。

しかし、それでは当然のごとく、先生の伝えたい、まだ見ぬ世界までは届かないのである。

この稽古の振り幅というか、コツを得るために今の型を大胆に崩そうとする勇気というものが勘のよい人の特徴と思う。

初稽古

2011年01月07日 | 積み重ね
今年のお正月はのんびり過ごそうと決めていたので、昨晩が的前での初稽古となった。

ところが、あまりの寒さに途中でおなかの筋肉が痙攣(けいれん)し始め、ついには吊った状態となり、気分も悪くなり、あえなく退散となってしまった。

心頭滅却すれば火もまた涼し、とはいうものの、体がついてこないというのは困ったものである。

とはいえ、稽古自体は年末から研究していた手の内を存分に試すことができたし、手ごたえもあったので、まあよしとしよう。

今年はさらに離れの鋭さを追求すべく、銅造りの拮抗(きっこう)と両手の内の関係を研究していこう。(詳細は後日)


お正月という風情

2011年01月01日 | 積み重ね
1月1日というのは実に風情を感じる一日である。

おそらくそれは人生の節目であるからであり、人生を豊かに過ごすためにつくられた先人の知恵なのである。

私は毎年この特別な日に一年の優先順位を考えることにしている。

だいたいいつも同じようなことを書いているのであるが、それは自分の中での優先順位がより明確になっていることを意味する。

今年は特に変化の多い年になることは間違いないのであるが、その中でも心を乱すことなく、淡々と過ごしていくためにも、自分の中でぶれない優先順位は必要と思う。

それがあれば、たとえ激流にのまれようとも、それが瑣末(さまつ)な環境の変化に過ぎないことを悟れるのである。

こうしてみると、武道もつくづく人生と同じである。

つまり、幹(武道の根本)さえおさえておけば、枝(技術)は柔軟に保ちながら、嵐にも折れることのない粘り強い大木となるのである。

伊勢神宮の御神木のようにどっしりと地に根をはった射を今年も目指して精進しよう。