先日、当ブログの「実戦の射と芸術の射」の回を読まれた方から質問があったので、ここでも回答したい。
質問は、次のようなものである。
― 的中だけを考えれば、会は短ければ短いほどいいのでしょうか?
この質問に対し、誤解を与えてしまうような文面になってしまっていたことをお詫びしつつ、次のように回答した。
― どんな場面、どんな状況でも、会を充実させて持ち続けるということは難しいから、そういう意味で3秒くらいの会が最も中りやすい(邪念がでない)といえる。しかし、本来は会で伸び合うことによってさらに詰合いが確固たるものになっていくので、段々と焦点が定まっていくように狙いも定まっていくものだ。と。
したがって、やはり最も的中が難しいのは早気である。会がないということは、身体で狙いを絞っていく段階がないということだから、どこに矢が飛んでいくかはまさに神頼みということになる。
逆に、会に入ってからなおじりじりと伸合い、身体の詰合いを充実させていく、そういう会であるならば、会が深まるほどに狙いは一点に絞られていく。
特に、金的などの通常よりも小さな的を狙うときには、会の充実なくして的中は難しいだろう。
質問は、次のようなものである。
― 的中だけを考えれば、会は短ければ短いほどいいのでしょうか?
この質問に対し、誤解を与えてしまうような文面になってしまっていたことをお詫びしつつ、次のように回答した。
― どんな場面、どんな状況でも、会を充実させて持ち続けるということは難しいから、そういう意味で3秒くらいの会が最も中りやすい(邪念がでない)といえる。しかし、本来は会で伸び合うことによってさらに詰合いが確固たるものになっていくので、段々と焦点が定まっていくように狙いも定まっていくものだ。と。
したがって、やはり最も的中が難しいのは早気である。会がないということは、身体で狙いを絞っていく段階がないということだから、どこに矢が飛んでいくかはまさに神頼みということになる。
逆に、会に入ってからなおじりじりと伸合い、身体の詰合いを充実させていく、そういう会であるならば、会が深まるほどに狙いは一点に絞られていく。
特に、金的などの通常よりも小さな的を狙うときには、会の充実なくして的中は難しいだろう。