続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

会が短いほど的中する?

2010年11月22日 | 積み重ね
先日、当ブログの「実戦の射と芸術の射」の回を読まれた方から質問があったので、ここでも回答したい。

質問は、次のようなものである。

― 的中だけを考えれば、会は短ければ短いほどいいのでしょうか?

この質問に対し、誤解を与えてしまうような文面になってしまっていたことをお詫びしつつ、次のように回答した。

― どんな場面、どんな状況でも、会を充実させて持ち続けるということは難しいから、そういう意味で3秒くらいの会が最も中りやすい(邪念がでない)といえる。しかし、本来は会で伸び合うことによってさらに詰合いが確固たるものになっていくので、段々と焦点が定まっていくように狙いも定まっていくものだ。と。

したがって、やはり最も的中が難しいのは早気である。会がないということは、身体で狙いを絞っていく段階がないということだから、どこに矢が飛んでいくかはまさに神頼みということになる。

逆に、会に入ってからなおじりじりと伸合い、身体の詰合いを充実させていく、そういう会であるならば、会が深まるほどに狙いは一点に絞られていく。

特に、金的などの通常よりも小さな的を狙うときには、会の充実なくして的中は難しいだろう。

上達とは積み重ねること

2010年11月14日 | 積み重ね
先日、「なかなかうまくならない」と悩んでいた生徒にアドバイスした内容を書き残しておこう。

その生徒は大変まじめで、稽古も休まず、とても熱心に取り組んでいた。言われたことは素直に受け入れ、一生懸命にやろうとする。そういう子だった。

しかし、それでも本人のいうように、それがなかなか定着せず、そのうちにまた違う課題が出てきてしまうということの繰り返しだった。

そこで積み重ねることの重要性について説明した。

それは、一つのことを定着するまで続け、それが当たり前になるくらいまで何度も稽古する、ということである。

そのために、一つのことを彼女に課した。稽古の終了後、必ずその日に学んだこと、自分でやろうと決めたことを日記のようにメモしておくということだ。

これは実際に、私も何年も続けていることである。

稽古で気づいたことやつかんだことを箇条書きでよいのでメモしておく。それをいつも持ち歩き、暇なときなどに見返すのである。

これは一種のイメージトレーニングである。常に稽古をし続けることは難しいが、頭の中であれば、何度でも同じ事を繰り返しイメージできる。

これをより効果的にするコツは、稽古のあと、すぐに書くことである。身体の感覚というのは忘れやすいものであるし、ただでさえ言葉にしてしまうとその生々しさが消えてしまうものである。

それを少しでも残すためには、稽古の終わったあと、その感覚が残っている間に言葉にすることが重要である。

ちなみに、これは専門的には「省察」とか「リフレクション」などと呼ばれ、スポーツにおいても、勉強においても、上達する要として重宝される方法である。

彼女にも上達の味を早く知ってもらいたいと切に願う。


強い弓のススメ

2010年11月07日 | 積み重ね
身体を使って引くことの味を知らない人が多い理由の一つに、弓が弱いことが挙げられる。

身体を使うためには手先の力を抜くことが前提となるが、弱い弓であれば、たとえこれと一緒に身体の力が抜けてしまっても、ある程度の詰合いを維持したまま会に入れる。

しかし、強い弓ではそうはいかない。

手先の力と一緒に身体の力も抜けてしまったのでは、どうしても引分けが浅くなり、また会も浅くなる。

それを何とか深く詰合い、会を深く取ろうとするほどに、今度は手先に力が入ってしまう。

このジレンマを解消すべく稽古を積んでいくと、やがて身体で引く味を知ることになる。

しかし、弱い弓ではこのジレンマ(手先の力を抜き、身体はしっかりと力を入れる)が生じないために、試行錯誤が行われないのである。

稽古を積んで強い弓を引けるようになる、ということももちろんあるが、一方で、強い弓で稽古をすることで技を知る、ということもあることを忘れてはならない。

息合いを自然に行うこと

2010年11月03日 | 積み重ね
よく高段者の体配の稽古において見られる光景が、息合いのタイミングを体配に合わせようとしている光景である。

例えば、本座に向かって歩いていく際に、吸って、吸って、吐いて、吐いて、というようにリズムをとって行うように。

初段者の型稽古としては重要な稽古であろうが、高段者となってもこのように、体配に、息合いを合わせるやり方はうなずけない。

正しくは、息合いに、体配を合わせるのである。

なぜ息合いに合わせるのかといえば、呼吸こそ自然のものであり、生命の源であるからである。

当然のごとく、それを止めることはできないし、いわんやスピードをコントロールすることも生命のエネルギーを妨げる要因となってしまう。

したがって、息合いは深い息合いを自然に行い、それに体配、すなわち身体の動きを全て合わせていくのである。

こうすると、息合いの深さによって個人差が出るのは当然のことである。しかし、こういう息合い先行の稽古を続けることで、息合いが深くなっていき、誰もが同じようなタイミングに近づいていくのである。

最終的には、身体的な動きは全て無意識になり、呼吸だけを行って弓を引くような境地にまでなるという。

そういうところを目指すのが弓の道といえよう。