続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

「詰合い」という極意

2007年02月23日 | 極意探求
では「詰合い」とは何であろうか?

正確にいうならば「詰合い」とは、力を伝える技術である。たとえば胸の力や背中の力、あるいは腰や足の力を腕を通じて弓に伝える。これが「詰合い」の本質である。

詰合いは簡単に体験することができる。なぜなら、誰もが普段使っている技術だからである。少しやってみてもらいたい。どこか近くにある壁を全力で押してみる。これだけだ。

どうだろう?全力で押すとき、足を踏ん張っているのがわかるはずだ。そして、腕で押すというよりは、腕を固定し、身体で押しているという感覚に近いのではないだろうか?

これが「詰合い」である。このとき腕はいわゆる「力の入っていない状態」(脱力とは違うことに注意)になるため、(壁に)押されるほどにきつくなり、まさに詰め合っている感覚になる。(昔の人は、すばらしい感覚とそれを美しい日本語に表現するセンスに長けていた!)

もう少し「詰合い」を正確に感じるために、今度は直立した状態で軽く壁を押してみよう。わかりやすいように、壁を右手に立ち、右手で壁を押してみてもらいたい。そして、押した状態を保ちつつ、ゆっくりと腕の力を抜いていく。

腕の力を抜いてしまっても壁が押せただろうか?押せれば「詰合い」の完成である。このとき感覚的には完全な脱力の状態にある。しかし、実際は、下筋(二の腕の外側の筋肉)だけはしっかりと張っている。(左手で下筋が張っているか確認しよう)

また、腕の力を抜くほどに力は別のところに移っていく。直立して右手で壁を押す場合、それとは逆側、つまり左の足の踏ん張りが強まっていくはずだ(これをぜひ感じてもらいたい)。腕の力を完全に抜き、左足だけで壁が押せるようになれば完璧である。


早気は病か 二.

2007年02月18日 | 極意探求
では、なぜ弓に押し負けてしまうのだろうか?

この問いは単純なようで実は奥が深い。なぜなら、よくよく考えて見れば「弓に押し負けること」こそ、自然な事であるからだ。

どういうことか?以前書いたように弓の理想形は、「会」(深い会)からの離れにある。「会」というのは完全に伸びきった状態であるということだ。(必ずしも弓手が伸び切っていることを言ってはいない。実際には下筋(後述)さえ張っていれば「会」となる)

このときひとつの疑問が生じる。はたして伸びきった状態で弓に押し負けず、さらに弓を押していくことができるのだろうか?

普通に考えれば困難であると言わざるを得ない。実際、誰もが初心者の頃、この命題に悩む事になる。つまり「伸び合っていけ」と言われ、会に入ってもなお伸び合い続けるが、しまいには力が入り切らないところまで伸び切ってしまい、(逆に弓の反発力は最大になるので)弓に負ける。

結果、もどり離れになったり、負けまいとがんばるから馬手離れになったりする。(だからといって、会で余力を残すと会は浅くなり、離れは鈍く、弦音も悪くなる)そして、このようなことを続けていくと、しだいに弓に押し戻されることが怖くなり、早気におちいる危険性が高まっていく。

これを解消するのが「詰合い」である。「詰合い」とは、伸び切った状態でなお力を保ち、さらにそこから大きな力を発揮するための技術である。完全に伸びきってしまう「会」において「詰合い」は、それを十分に保ち、さらに伸び合えるだけの余力を与えてくれるのだ。

「詰合い」は、特殊な技術では決してない。むしろ、我々が日常的に活用している技術である。たとえば、重いものを運ぶときや強い力で何かを押すとき、誰もが無意識に「詰合い」を利用している。

早気を生まないためにも、指導者はまず「詰合い」をこそ教えるべきであろう。

早気は病か 一.

2007年02月10日 | 極意探求
弓道の数ある病の中で、最も深刻とされているのが「早気」(はやけ)である。ご存知の通り、早気とは会に完全に入り切る前に無意識のうちに矢を離してしまうことである。

早気は最も大事な会を失ってしまうことになるので、射としては評価が低くならざるを得ない。また、一度かかってしまうとなかなか直らないため、弓道界では不治の病として恐れられている。

原因は様々言われているが、精神的な問題として扱われるケースがほとんどである。たとえば「気力が充実していない」「中てることに意識がいってしまう」「慣れによって会が短縮される」などである。

しかし、本当にそうであろうか?実は、この永遠の謎「早気」にも、「詰合い」が深く関係しているのだ。

そもそもなぜ「早気」は起こるのか。これは前回書いた弓道の特性に関係がある。すなわち、弓それ自体が力を発揮するという点である。もし弓に反発力が全くなければ、早気など存在しない。これは至極当然のことで、ひもか何かを引っ張ってみればわかる。

つまり、早気は多かれ少なかれ、弓の力に負けることにより発生するのである。実際、早気の人の射を見てみると、矢を放つ瞬間、明らかに弓の力に押し戻されているのがわかる。

では、なぜ弓の力に押し戻されてしまうと、離れが勝手に出てしまうのだろうか?

それは、弓の力に押し戻されるとき(それがたとえ弱い弓であったとしても)圧倒的な力で押し戻されるように感じるからである。これは射手にとっては恐怖とも呼べる感覚である。自分の意志ではどうにもならない圧倒的な力に、そのまま押しつぶされてしまうのではないかという恐怖。これが早気の直接的な原因である。

恐怖は、自分の身に危険を感じるときに生じる感覚である。人の身体は、自分の身に危険を感じると反射的にそれを回避しようとする。つまり、早気の人は、圧倒的な弓の力を制御することができず、自分の身に迫る危険を感じるのだ。そして、それを回避するために反射的に矢を放すという動作を起こすのである。

弓道の本質とは

2007年02月09日 | 極意探求
弓道の目指すべきゴールは一般に、技術的には「中・貫・久」(※1)であるし、精神的には「真・善・美」(※2)であるといわれる。では、そこに至るには何が必要なのだろうか?弓道の本質的な技術とは何であろうか?

「中・貫・久」を実現する最も本質的な技術。それは「会」(かい)である。あえて「会」と一言でいってしまうが、ここでいう「会」は極限までに引き絞られた深い会のことである。そして、「会」(深い会)を実現するのが「詰合い」(つめあい)である。

「詰合い」を意識せずに、手の内(てのうち)やら、大三(だいさん)の形やら、口割り(くちわり)やら、に気を使っても、それは枝葉の議論というより他にない。

むしろ、手の内も、大三も、そして口割りも、すべて「詰合い」の結果生じる自然な姿であって、それを作為的に成したところで意味はないのである。すべてが「詰合い」ながら会に入れば、そのとき会は自然に最も深い会、すなわち「会」になるのだ。

「会」から生じる自然の離れは美しい。静寂の中にあって、放たれる矢はこの上なく鋭く、力強く的を射抜く。それは射手(いて)だけでなく、それを見る者をも魅了する射である。それはまさに大自然に出会ったときに感じる感動と同じものである。

このような射を目指し、我々は稽古に励むべきであろう。



※1:ちゅう・かん・きゅう=中りが的確で、貫徹力があり、それが長く続くこと
※2:しん・ぜん・び=真の心、善い行い、美しさ=大自然そのもの

はじめに

2007年02月08日 | 極意探求
弓道ではよく「壊れる」「病気にかかる」「悪い枝が生える」などの言い方がされる。これは、いったん上達した人でも何かの拍子に初心者同然にまで技のレベルが下がってしまうことを意味している。

もちろん、他の武道でも、あまり上達が早くない人はいる。何年も稽古を続けていても、なかなか壁を越えることができず、現状に留まるということも少なくない。しかし、それでも「稽古を続けて下手になる」ということは通常あり得ないことである。

実はこのような現実が実際にあるというところに、弓道の特殊性とその本質が隠されている。つまり、弓道は他の武道と違い、弓そのものの力を扱う武道であるということだ。

道具を使う武道であれば、剣道、居合道、薙刀(なぎなた)など様々あるが、道具そのものが力を発揮し、それをコントロールしなければならない武道は他にない。

従って弓道においては弓そのものの力と自分自身の力とを融合させ、バランスを取らなければならない。これが少しでも崩れると、あっという間に見るも無残な射になってしまうのだ。

当ブログでは、このような特殊性を持つ弓道において、何が本質なのかについて探求していきたい。そして、あわよくばこれを読まれる方の向上に少しでも寄与できれば幸いである。