昨日、自宅の巻藁(まきわら)の補修を行った。もう1年くらい経つので、穴が大きくなり、必ず裏に抜けてしまうようになったからである。
巻藁稽古の頻度は特に決めておらず、なるべくしっかり矢数をかけてはしっかり休むように心がけている。あまり毎日やりすぎても、身体が固くなり、のびのびした射にならないような気がするからだ。
巻藁稽古を始めるようになってから、射の安定度は格段に上がった。その結果、当然的中率も安定している。
ここに弓道の真実があるような気がしてならない。
昨今、多くの大会で的中率が記録され、的中率だけが評価の対象となることが多くなった。確かに弓道が武道である限り、的中率によって射の良否を判断することには異論はない。
しかし、射手としては大変注意しなければならない。それは、的中率だけを求めては、射は下手になっていくしくしかないということである。
これは当然で、的中率だけを求めると、意識は的につき、ねらいについてしまう。少しでも外れればそれを修正すべくねらいを直し、射を直そうとする。これでは、まさに本末転倒である。
正しくは、正射があって中りが出るのであって、決して中りが出ればそれが正射であるとは限らないのだ。したがって、意識は常に身体についていなければいけない。
的中だけに意識が奪われた人の射は、まるで抜け殻のように中身のないものになる。それに比べて、たとえ初心者であっても、正しい稽古を行っている人の射には厚みが感じられるものである。
巻藁稽古は、そういう意味で大変優れた稽古法である。的にとらわれる心配がそもそもないので、安心して意識を身体に集中できる。
このような巻藁稽古の意味については、特に学生や初心の人には理解してもらいたいし、先生方にもぜひ伝えてもらいたいと願う。
巻藁稽古の頻度は特に決めておらず、なるべくしっかり矢数をかけてはしっかり休むように心がけている。あまり毎日やりすぎても、身体が固くなり、のびのびした射にならないような気がするからだ。
巻藁稽古を始めるようになってから、射の安定度は格段に上がった。その結果、当然的中率も安定している。
ここに弓道の真実があるような気がしてならない。
昨今、多くの大会で的中率が記録され、的中率だけが評価の対象となることが多くなった。確かに弓道が武道である限り、的中率によって射の良否を判断することには異論はない。
しかし、射手としては大変注意しなければならない。それは、的中率だけを求めては、射は下手になっていくしくしかないということである。
これは当然で、的中率だけを求めると、意識は的につき、ねらいについてしまう。少しでも外れればそれを修正すべくねらいを直し、射を直そうとする。これでは、まさに本末転倒である。
正しくは、正射があって中りが出るのであって、決して中りが出ればそれが正射であるとは限らないのだ。したがって、意識は常に身体についていなければいけない。
的中だけに意識が奪われた人の射は、まるで抜け殻のように中身のないものになる。それに比べて、たとえ初心者であっても、正しい稽古を行っている人の射には厚みが感じられるものである。
巻藁稽古は、そういう意味で大変優れた稽古法である。的にとらわれる心配がそもそもないので、安心して意識を身体に集中できる。
このような巻藁稽古の意味については、特に学生や初心の人には理解してもらいたいし、先生方にもぜひ伝えてもらいたいと願う。