続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

巻藁(まきわら)稽古と的中率

2010年02月28日 | 積み重ね
昨日、自宅の巻藁(まきわら)の補修を行った。もう1年くらい経つので、穴が大きくなり、必ず裏に抜けてしまうようになったからである。

巻藁稽古の頻度は特に決めておらず、なるべくしっかり矢数をかけてはしっかり休むように心がけている。あまり毎日やりすぎても、身体が固くなり、のびのびした射にならないような気がするからだ。

巻藁稽古を始めるようになってから、射の安定度は格段に上がった。その結果、当然的中率も安定している。

ここに弓道の真実があるような気がしてならない。

昨今、多くの大会で的中率が記録され、的中率だけが評価の対象となることが多くなった。確かに弓道が武道である限り、的中率によって射の良否を判断することには異論はない。

しかし、射手としては大変注意しなければならない。それは、的中率だけを求めては、射は下手になっていくしくしかないということである。

これは当然で、的中率だけを求めると、意識は的につき、ねらいについてしまう。少しでも外れればそれを修正すべくねらいを直し、射を直そうとする。これでは、まさに本末転倒である。

正しくは、正射があって中りが出るのであって、決して中りが出ればそれが正射であるとは限らないのだ。したがって、意識は常に身体についていなければいけない。

的中だけに意識が奪われた人の射は、まるで抜け殻のように中身のないものになる。それに比べて、たとえ初心者であっても、正しい稽古を行っている人の射には厚みが感じられるものである。

巻藁稽古は、そういう意味で大変優れた稽古法である。的にとらわれる心配がそもそもないので、安心して意識を身体に集中できる。

このような巻藁稽古の意味については、特に学生や初心の人には理解してもらいたいし、先生方にもぜひ伝えてもらいたいと願う。

見取り稽古

2010年02月26日 | 積み重ね
前回書いた稽古のやり方を「見取り稽古」という。これは古来より武道の世界では重宝されてきた稽古法である。

この稽古、要は「見て学べ」ということなのだが、ポイントがいくつかある。

一、目指す姿を見よ。

前回は、自分の射形についても見ることを勧めたが、本来の見取り稽古は、主に師匠や先輩の姿を目で追って行うものである。

そうすることで、自分のありたい姿がイメージとして焼きつき、そうなって初めて自分の身体で表現できるということである。

逆にいえば、イメージできない姿を自分の身体で表現しようとしても、それは無理な話ということだ。

二、感覚をイメージせよ。

見取り稽古は、ただ見ているだけでは効果は少ない。大事なことは、その人に自分もなりきって、特に感覚を想像することである。

今、どこに、どのくらいの力がかかっているのか?どこに力を入れて、どこに力を入れていないのか?どういうイメージで引いてきているのか?など。言葉ではなく、あくまで感覚を感じ取るのである。

これが分かってくると、途端にこの稽古の醍醐味を理解するようになる。

三、自分の身体で再現せよ。

観察によって得たイメージと引く感覚の両方を、今度は自分で再現してみる。簡単に言えば、真似をするということである。

良射を真似ることほど上達の近道は他にない、と私は思う。

以上をあわせて「見取る」といい、見取る稽古法を「見取り稽古」と呼ぶのである。

最も効果のある稽古

2010年02月24日 | 積み重ね
稽古のやり方というのは、人それぞれあってよいと思うが、お勧めしたい稽古のやり方が2つある。

一つは、ビデオで自分の射形を撮って見る稽古。

よく言われることに、相手の悪いところはよく分かるというのがある。これは実際に目の前に見えているからそうなるわけで、これが自分の姿であっても同様である。

誰かに何回も言われるよりも、一目自分の射形を見た方が圧倒的にインパクトがあるし、直そうという気も自然に湧き上がってくる。

人の悪いところを指摘してまわっている人をたまに見かけるが、そういう人にこそお勧めしたい稽古法である。

もう一つは、ああなりたいと思う人の射形を何度も見る稽古。

これも、その人に許可が取れればビデオにとって何度でも見たほうがよい(※)。今の時代、便利な道具がたくさんあって、私は師匠の射を携帯に動画で保存して、毎日、暇があれば見ている。

本当にいい射というのは、見れば見るほど、いろいろなことが分かってくる。自分が上達するほどに今まで気づかなかったことが見えてきて、分かれば分かるほど「すごい」と思わされる。

私は先生の射が全て理解できるまで見続けようと思っているが、おそらくまだまだ先の話しであろう。


※ただし、写真やビデオを撮ることを快く思わない先生も多いし、それは当然と思わなければいけない。一昔前は「技は盗むものであって、見せるものではない」というのが常識であり、弟子でさえも気安く技を見せてはもらえない時代があった。当然、無許可で撮影するなどということは失礼極まりない行為である。

好不調

2010年02月16日 | 積み重ね
調子が良い、悪いは、確かにある。しかし、調子のせいにしている限り、成長は望めない。

調子がよいときには、何がうまく行っているのか?それを次も同じようにできるためにはどうすればいいのか?ということを考えることが重要である。

また、調子が悪いときには、調子がよいときと何が違うのか?どこに不安定さがあるのか?ということを考えるといい。

いずれにしても、調子の波があるということは、中・貫・久のうち久が出来ていないということであるから、悪いところは高め、良いところは定着させるように稽古を積むことが重要である。

とはいえ、調子が悪いときというのは、何とも稽古のやる気がそがれるものであるから、そういう時はいっそのこと休息を取るということもいいかもしれない。

弓と一体になる技術

2010年02月14日 | 積み重ね
最近、新しい弽(ゆがけ)に馴染んできたためか、以前にもまして、弓と一体になっている感覚がある。

特に引分けから会にかけて、ねっとりというか、しっとりというか、ぶつかるところが少しもなく、離れにおいても手の内に弓が吸い付くようにきゅるりと弓返りし、衝撃は一切感じられない。

この感覚は、合気道で経験するそれと非常によく似ている。

合気道ではこの感覚(対象と一体になる感覚)を「和合(わごう)」と呼び、重要視する。そもそも、合気という言葉には「相手の気と合わせる=和合」という意味があり、和合の技術こそ合気道の極意といえるのだ。

では、和合するためにはどうすればよいのか?

それが詰合いである。合気道では詰合いとは呼ばず、「合気を掛ける」というような言い方をするのであるが、本質的には全く同じことを言っている。

つまり、相手(弓)の力に対し、こちらの力を均一に掛け続けるというものだ。

この「掛け続ける」ということがポイントであり、少しでも相手との圧が抜けてしまうと、合気が外れて、相手との一体感がなくなってしまう。

弓道でも全く同じである。特に打起しから引き分ける際、大三で一度止め、会でもまた止まってしまう射をよく見かけるが、これでは弓との和合が失われてしまう。

そうではなくて、大三に入っても弓にかける圧は保ちながら引分けに移行し、会に入ってもなお圧を保ち続けることが肝要である。

こうすることで弓と和合し、一体になれる。

弓を背中にしょいこむ

2010年02月12日 | 積み重ね
多くの人は、打起しから会に至るまで、身体の前半分で引いている。

これは至極当然で、実際には前に打起し、会でもせいぜい身体と触れる位置まで来るが、やはり前であることに変わりはないからだ。

しかし、身体の内部に働く(感じられる)力は、前だけとは限らない。外見上、身体の前で引いているように見えても、実は後ろ、つまり背中で引いているということがありうる。

そのためには、大三で両腕を張りつつ、十分に身体に近づけなければならない。前で引いている人の多くは、大三が身体から遠いために、前で引くことになってしまっている。

また、身体に十分に近づけた大三から、肩入れをする感覚で、首の後ろを通すような感覚で、背中に背負い込むように、引分けてくることが必要である。

このとき、往々にして馬手先行になってしまうので、注意が必要である。

こうして引分けてきた会は、とても安定感があり、そこからの伸合いの余力を十二分に残すことになる。

前で引くと、どうしてもこの安定感が得られず、会が早くなったり、射が安定しなかったりするのである。