続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

妻手のひねりは隠し味

2011年03月06日 | 積み重ね
角見とともに技術論として挙げられやすいのが、妻手のひねり、あるいは弓手の押さえである。

これは会に入ったとき、左右(的および裏的の方向)への伸びに加え、妻手をひねり、弓手を弓にかぶせるように押さえよというものである。

しかしこの意味を教えられることもなく、ただひねれ、押さえよという指導を見かけるが、これでは力の強い妻手をより意識してしまうのは必然であり、妻手離れを引き起こしかねない。

なぜ妻手のひねりが必要なのか?

それは、弓手での伸合いを安定させること、ただ一点にある。

会では、どっしりと据えられた胴造りと、それを支えに弓の強さに負けない弓手によって弓を押し開くことが肝要である。(前回参照)

しかし、それだけでは、左右のバランスを取ること難しく、往々にして不安定となり、弓手を利かせているにもかかわらず、矢が前にすっぽ抜けるということが起こる。

これは弓手による力の焦点が矢に乗っていないことによる。

そこで、妻手をほんの少しひねり、弓手の圧に添えるごとく圧を矢に加えてやるのである。

そうすると、会での安定が格段によくなり、安心して弓手を開けるようになる。

まさに妻手は介添えをする妻のごとくあるのがよいということだ。

押す際の注意点

2011年02月23日 | 積み重ね
これまで「押す」という表現を極力避けてきたのには理由がある。

それは胴造りで引分ける味を知らないまま「押して」しまうと、体がどうしても的の方に傾きがちだからだ。

こうした射形は、外から見ると中てっ気の強い射形に見えてしまい、最も嫌われる形なのである。

これを防ぐために2点補足をしておきたい。

一つは、胴造りが基本であるということ。

胴造りで下半身をどっしりと据え、上半身は顎を引き背筋を伸ばし整えたら、大三でもこれを確認し、引分けでも意識し、会で再度確認する。

このくらい胴造りを起点にして引くことである。

もう一つは、「押す」という感覚が普段の押すとはちょっと違うということである。

普通は押すというと力を込めていくということになるだろうが、会での「押す」はこれとは感覚が異なる。

大三で虎口(親指と人差し指の股の部分)に弓をはめこみ(※)、そこから手の内の圧を逃すことなく虎口で弓を受けつつ、会にいたる。

会に入ったときは的は満月につけられ、弓手は肩のラインより前に出ている。また、虎口で受けた手の内は親指が的よりやや前を向いている。

これを残身に向かって、つまり肩のラインに一直線になるように、親指を的に向けるように「押していく」のである。

このとき、いわゆる力は一切必要ない。必要なのは、しっかりした胴造り(特に縦の張り)とそれと連動する弓手の張り伸ばす力(勁力)である。

このとき感覚としては弓を上から抑えるような感じなのだが、これを伝えることは難しく、体得してもらうしかないのだろうと思う。


※内竹の左右、3:7のところが理想とされる

前につけて押すと開くことになる

2011年02月21日 | 積み重ね
先日質問を受けたのでここでも回答したい。質問は次のようなものである。

「伸び合いは、弓手を開くのが正しいのか?それとも的に向かって押すのが正しいのか?」

これは本質をついた大変よい質問であると感心したのだが、その理由はこのどちらも正しいからである。

つまり、伸び合いにおいて、弓手は開くのであり、的に向かって押すのである。言い方を変えれば、これらは同じことであると言ってもよい。

これは会の時の弓手の角度に関係する。

会の時、弓手は両肩のラインに対し、多少角度を持って前側(体の前面)に入っている。これは矢が番えてあることで、頭が邪魔(?)になり、肩のラインまで引いてくることができないからである。

これが離れを生じて残身になると、完全に両肩のラインの延長線上に弓手が伸びることになる。

これを頭(つまり自分の目線)から見てみるとどうなるだろうか?

会では自分より前に弓手の拳があり、したがって目線の先にある的に対しては弓手を開いてこなければならない。

一方、体の感覚としては、自分の前にある弓手の拳を、的に向かって押し込むという感覚によって、初めて圧を抜かずに開いていくことができる。

つまり、感覚としては的に向かって押すのであり、その結果、実際の動きとしては弓手が開かれていくのである。

これが理解できると、なぜ会において的を満月につけるのかがわかるだろう。

力の拮抗

2011年02月15日 | 積み重ね
身体で引いている人の特徴の一つに、引分けの際に身体の力が拮抗しているということがある。

具体的には、両肩根をつなぐ横のラインと胴造りと首根をつなぐ縦のラインが、背中を通じて拮抗する。

これを外から見ると、まさに弓に身体を入れるように見え、結果として両腕が開いていく格好となる。

ところが、身体で引けていない場合は、この身体の拮抗が見られない。

左右の腕は当然拮抗しているわけだが、それが身体を通していないために、身体を入れて押し開くというよりは、単純に横のラインだけで押し引きしているように見えてしまう。

当然、離れに重厚感は感じられず、タイミングのみの軽い射に感じられてしまうのである。

こうならないためにも、今一度、身体で引くポイントをいくつか挙げておきたい。

一. 胴造りにおいて、肩根を落とし、顎を引き、背中の筋を首で持ち上げる心持で縦線を延ばすこと。

一. 大三において、縦線が延びていることを今一度確認するとともに、弓手張り伸ばし、角見を利かせ、妻手十分に送り込み、肘を上げ、弓手の角見と妻手の肘より下、二の腕、肩とを拮抗させること。また、このとき弓を身体に近づけることで縦線と横線が身体(背中)で交わり拮抗する。

一. 引分けは、身体(背中)の拮抗を維持するように顎を十分に引きながら、弓手角見を利かせつつ、妻手首の後ろを回すように首根、肩根を開いていくこと。

一. 会においては、弓手満月につけ、妻手頬付け口割りまで十分に引き込み、縦線を利かせることで、身体で力を拮抗させること。

一. そこから縦線をさらに張り伸ばすとともに、弓手かすかに開いていくと、身体の拮抗が弾けるように離れが生じ、弓手拳一つ分開き残身となる。

手の内のマメ

2011年02月08日 | 積み重ね
私は未熟者なので、いまだによく手にマメをつくってしまう。

特に、天文筋と小指のラインが交わる点からちょっと手首に寄ったところのマメは、何度もできてはつぶれてを繰り返しているところである。

師匠曰く「普通だったら平付けでダメと言われるだろうが、そうじゃなくてもできるところだからそのままでいい」とのこと。

「そうじゃなくても」ということについて師匠は教えてくれないので、自分で解説してみたい。つまり、平付けではないのに、ここにマメができるのはなぜか?ということだ。

まず、上押しにはなっていないということはまずいえるだろう。上押しの場合、弓からの圧をほぼ角見で受けてしまうわけだから、できるとしても親指の根元の部分か、その対極にある小指の間接付近である。

では下押しか?

実際に自分の手の内をビデオにとって見てみると、下押しの特徴である親指と中指が浮いてしまうということは一切ないので下押しということでもなさそうである。

実際、引分けてくる際に角見の圧は十分に受け止めている感じがあるし、それによって鋭い離れも出ている。

では、なぜマメができるのか?

上押しでもなく、下押しでもなく、それでもまだ理想の手の内ではないとすればやはり「平付け気味」だということであろう。

平付けというのは、手の内がつぶれ、本来、点で弓を支えるべきところを面(手の平)で支えてしまっているということである。したがって、手の平部分にマメができやすい。

おそらく、私の場合もこれだろうと思う。

しかし、平付けは角見がしっかりと利いているという条件の下では、より一層離れの冴えを際立たせてくれることもありうると私は思う(※)。

本当の平付け(つまり角見の利いていない)は、「ただ押す」だけしか出来ないために鋭い離れは期待できない。

ところが、完全に角見を利かせた状態で、かつ、手の内を小さくまとめ、あたかも弓に纏(まと)わりつくかのように手の内を弓に絡めると、いわゆる角見だけで押すときよりも数段安定して弓を弾(はじ)くことができる。

また、手先ではなく、身体で弓を引くときには、身体全体のハタラキを角見に集約するわけだから、親指の付け根だけでこれを支えるというのは心もとなく、そういう意味でも手の内全体で弓を弾くこの手の内は理想といえるかもしれない。


※角見が利いている時点で平付けとは言わないのであろうが。。

中りは弓道の命

2011年01月31日 | 積み重ね
昨日、団体戦があった。私は散々な戦績でチームのみんなに迷惑を掛けてしまった。

改めて思うのは、弓道は当たって何ぼということである。

どんなに矢勢がよくても、どんなに体配が美しくても、射品があろうとも、中っていて初めてそれらを語る権利が生まれるである。

とはいえ、昨日の私の射は見るも無残な大変残念なものだったので、中りだけというわけではないのだが、、、

自分のために、今一度、稽古のテーマをあげておきたい。

一.離れの時期を見極めること。会で安定してしまい、自分で開かなくてはならないようでは安定した離れは生まれない。

一.そのために、弓手主軸にすえて角見を確認し、妻手十分に送り込み手首から矢に圧を掛けて大三を取る。

一.引分けは弓手の肩根を基点に行い、妻手が背中を通る心持ちで深く会に入るべし。

一.離れの時期は、満月から新月に入り、さらに矢が内側に入る準備が整ったと感じられたときなり。自らの意思で離すこと無し。

純粋に楽しむか?上達を目指すか?

2011年01月22日 | 積み重ね
上達の早い人のもう一つの特徴は、よいときと悪いときの違いを見極めようとするということだ。

えてして、調子のよいときにはそれを楽しんでしまうし、調子の悪いときには「今日は調子が悪い」といって諦めてしまう。

弓の楽しみ方としては当然それも重要であろうが、これでは上達することはなかなかにして難しい。

しかし、中には調子のよいときでも「それがなぜよいのか?」「悪いときと何が違うのか?」と考えて、その答えにたどり着く人がいる。

そういう人は、今度はそこに気をつけて引くようになるから、それが身につき、次第に当たり前にできるようになる。

これが上達というものである。

偶然に身を任せ、その時々の弓を楽しむということも一つの弓の楽しみである。しかし、偶然から法則をつかみ、それを我が物として必然に変えていくところに武道としての醍醐味があるのも事実である。

これを昔の人は「久(きゅう)」と呼び、中り(中)、貫通力(貫)とともに、目指すべきゴールとして掲げたのである。

勘がよいとは何か?

2011年01月13日 | 積み重ね
どんな世界でも同じだが、勘のよい人もいれば、あまりよくない人もいる。私も含めて、あまりよくない人の方が圧倒的多数であろう。

しかし、中には少しの稽古量で、人の何倍も早く、コツをつかみ、一気にうまくなってしまう人がいる。

そういう人と我々とは何が違うのだろうか?

一般的には「素質が違う」ということになるのであろうが、私はこれには断固として反対する。勘のよくない(素質のない)人間代表として、勘とは何か?ということを武道を通じて探求しているのである。

今のところわかっていることとしては、勘がよいというのは、稽古の振り幅が大きいということだ。どういうことか?

たとえば、先生に「弓手で押していけ」といわれたとき、勘のよい人は、体が前に行ってしまおうが、妻手がおろそかになろうが、まずは言われたことを極端に行ってみる。

これによって、先生だけが知っているコツの味を知ることができるわけだ。

ところが、一般的にはこれは非常に難しいことである。なぜなら、これまで培ってきた自分の型というものがあるからだ。

なので、普通は自分の型を崩さない範囲で、少し先生に言われたことを意識して「弓手を押してみる」ということになってしまう。

しかし、それでは当然のごとく、先生の伝えたい、まだ見ぬ世界までは届かないのである。

この稽古の振り幅というか、コツを得るために今の型を大胆に崩そうとする勇気というものが勘のよい人の特徴と思う。

初稽古

2011年01月07日 | 積み重ね
今年のお正月はのんびり過ごそうと決めていたので、昨晩が的前での初稽古となった。

ところが、あまりの寒さに途中でおなかの筋肉が痙攣(けいれん)し始め、ついには吊った状態となり、気分も悪くなり、あえなく退散となってしまった。

心頭滅却すれば火もまた涼し、とはいうものの、体がついてこないというのは困ったものである。

とはいえ、稽古自体は年末から研究していた手の内を存分に試すことができたし、手ごたえもあったので、まあよしとしよう。

今年はさらに離れの鋭さを追求すべく、銅造りの拮抗(きっこう)と両手の内の関係を研究していこう。(詳細は後日)


お正月という風情

2011年01月01日 | 積み重ね
1月1日というのは実に風情を感じる一日である。

おそらくそれは人生の節目であるからであり、人生を豊かに過ごすためにつくられた先人の知恵なのである。

私は毎年この特別な日に一年の優先順位を考えることにしている。

だいたいいつも同じようなことを書いているのであるが、それは自分の中での優先順位がより明確になっていることを意味する。

今年は特に変化の多い年になることは間違いないのであるが、その中でも心を乱すことなく、淡々と過ごしていくためにも、自分の中でぶれない優先順位は必要と思う。

それがあれば、たとえ激流にのまれようとも、それが瑣末(さまつ)な環境の変化に過ぎないことを悟れるのである。

こうしてみると、武道もつくづく人生と同じである。

つまり、幹(武道の根本)さえおさえておけば、枝(技術)は柔軟に保ちながら、嵐にも折れることのない粘り強い大木となるのである。

伊勢神宮の御神木のようにどっしりと地に根をはった射を今年も目指して精進しよう。