続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

射法訓が示す引分け ②

2009年05月30日 | 極意探求
射法訓の一説「・・・弓手三分の二弦を推し、妻手三分の一弓を引き・・・」について、もう一つ疑問な点がある。

それは「弓手・・・弦を推し、馬手(妻手)・・・弓を引き」の部分だ。

普通に考えれば「弓手弓を推し、馬手弦を引き」となるだろう。しかし、そうなってはいないところに、この射法訓の深みを垣間見ることができる。

結論から言うと、これらの表現は、「弓手も、馬手も、押し引きしない」ということを示している。

たとえば「弓手弦を推し」ということは、弓手が弦を担当しているのであって、弦を持っている馬手はただ支えているだけ、ということになる。

同様に「馬手弓を引き」ということは、馬手が弓を担当しているのであり、弓を持っている弓手はただそれを受けているだけ、ということになるのだ。

これは、感覚的に大変重要なことを示唆している。つまり、弓(特に引分け)は、引いたり、押したりするものではなく、腕をつっかえ棒としてそれを開き下ろしていくことで、自然に広がっていくもの、ということを示しているのだ。

そして、これらの感覚(手は支えている、受けているだけという感覚)は、両手の内の完成によって、さらに高まることになる。

次回以降、手の内について考えていこう。

骨法で射る ~馬手の緩みの対処法~

2009年05月29日 | 極意探求
初心の方の悩みに「馬手が緩(ゆる)む」ということがある。これまで「弓手の緩み」について説明してきたので、馬手の緩みについても考えてみよう。

馬手が緩む最大の理由は「馬手が正しい会の位置まで入りきれていない」ことである。

正しい会の位置とは、肘が両肩の延長よりやや背中側(ほんの少し下がった位置)までくることをいう。(もちろん馬手の手の内は、矢筋の延長にあるわけだから、口割りと平行な位置に来ている)

これが馬手の会の位置であり、ここまで馬手がしっかり入っていれば、そうそう緩むことはない。

試しに、補助で誰かに手伝ってもらい、この状態まで弓を引き、弓手の詰合いも確認し、そこから一人で会を維持してみよう。もし、それでも緩むようであれば、弓が強すぎる可能性が高いので、弓を換えることも検討した方がよいだろう。

ほとんどの場合、この位置まで持ってきてしまえば、緩まないどころか、緩みようがないことが実感されるはずだ。

ちなみに、これこそが射法訓に出てくる「骨を射る」ということである。

つまり、筋力により引き伸ばす(弓を射る)のではなく、骨(関節)と弓力との強固な釣り合いによって引き下ろしてくる(骨を射る)ことで、容易には揺るまない引分けが可能となるのだ。

そして、この骨と弓力との釣り合いを詰合いと呼ぶのである。


では、どうすれば、馬手を正しい会の位置まで引き下ろすことができるのだろうか?

それは、大三で決めた馬手の位置から、自分の身体に近づけるように引き分けてくることで容易に実現される。

イメージとしては、馬手の手の内が、耳の後ろを通り、物見を入れている頭の真後ろまでくるくらいの感じ(※)でちょうどよいはずだ。

もちろん、実際には矢が番(つが)えてあるので、そこまでは不可能であるが、そのくらい「身体に近づけるイメージ」で下ろしてくると、馬手が背中と連動し、正しい会の位置まで引き下ろすことができる。

逆に、馬手が浅い人は、身体の前面で引き分けてくることがほとんどである。それではどうしても馬手の、腕だけの筋力で引くしかなく、それが弓力に負ければ浅くもなるし、緩みもするというわけだ。

したがって、大三から会にかけては、弓手と同様、馬手も背中を使って、身体に近づけ、下ろしてくることが肝要ということだ。


※このときの弦の通り道を「弦道(つるみち)」といい、射の成否に大きな影響を与える重要なポイントとして昔から研究の対象となっている。

さぼる弓手、りきむ馬手

2009年05月24日 | 極意探求
本来であれば、大三から左右同じように引き分けてこれればよいのだが、これがなかなか難しい。

特に、弓手が緩み、馬手が力む傾向がある。前回、射法訓の説明でこの点に触れているが、もう少し補足をしておきたい。

なぜこうなってしまうのだろうか?

それは当然のことながら、弓手と馬手の下ろし方の違いからくるものである。つまり、弓手は伸ばし、馬手は折りたたむ、この違いである。

弓手は伸ばしたまま下ろしてくる必要があるので、使われる筋肉は伸筋(しんきん)のみである。

以前説明したように、腕の筋力のイメージは屈筋(くっきん)によるものであるから、伸筋を使うことは慣れていない。したがって、緩みがちになる。

また馬手は形としては肘から折り曲げて下ろしてくる必要があるから、屈筋が使われるように見えてしまう。したがって、屈筋を使って、つまり力んで引き分けてくる傾向が現れる。

しかし、実際には弓手、馬手とも、同等に伸筋だけが働き、同じように胸の筋から左右に分かれるのが正しい。

そうなるために、弓手三分の二、馬手三分の一の感覚で引き分ける必要があるのだ。


具体的には、打起しから大三に移行する間に、弓手の伸筋を全開に働かせ(特に肩根をしっかりと落とすこと)、伸ばしていくと同時に、馬手の力(特に肘から先)を抜いていき、肘だけで支える状態に持っていく(※)。

ここから先、離れに至るまでは、ほとんど弓手の詰合いだけを意識して、両腕を下ろしてくるくらいでちょうどよいはずである。

会が深まれば深まるほどに、弓手の詰合いの安定感が増し(圧が高まり)、それに負けないような伸合いを続ける土台となるだろう。

また、馬手は手先の力が抜けてさえいれば、会が深まるにつれ、キチキチと音を立てて弦が抜けていくのが分かるはずだ。

それに動じず、ただただ伸合い続けると、いつの間にか、鋭い離れが出現し、残心でピタッと静止し、我に返る時が訪れるのである。


※この過程を、馬手から弓手に力を移していくということで「受渡し(うけわたし)」と呼ぶ。

射法訓が示す引分け ①

2009年05月20日 | 極意探求
射法訓の一説にこうある。

「・・・弓手三分の二弦を推し、妻手三分の一弓を引き・・・」

何度読んでも、このあまりの簡潔さと内容の深さに背筋に電気が走るほどの衝撃を受ける。この極めて短い一節の文章から、あまりに豊かな引分けの理想の姿とその感覚とがイメージされるからである。

引分けのまとめとして、この射法訓が示す理想の引き分けについて考えてみたい。

まず第一に考えるべきは、「弓手三分の二、馬手(妻手)三分の一」とはどういうことか?である。

下ろす引分けを行う限り、両腕を均等に下ろしてくればよいのではないか?

これは、引分けで詰合いを保ちながら下ろしてくるときの「内部の感覚」を表している。

つまり、大三で縦線、両肩根、肘などの詰合いを確認した後、ゆっくりと下ろしてくる際、馬手よりもずっと多くの労力を、弓手の詰合いに割かなければ、均等な引分けにはならない、ということだ(※)。

実際、自分の射をビデオなどにとって見てみるとよくわかる。弓手、馬手ともに同じくらいの詰合い方(特に肩根)で下ろしてくると、どうしても馬手が強く、会で肘が下がる傾向がある。

かといって、馬手の詰合い(伸合い)を抑えようとすると、それ以上に弓手が緩み、会が浅くなってしまうのである。

これは上段者にも多く見られる。上段者の場合、緩みは多くはないが、逆に深く詰め合うことで、馬手が下がり、それに合わせるように弓手が上がるという状態である。

このまま離れを出しても鋭い離れは出るのであるが、どうにも見た目が良くない。また、馬手の肘が下がるため、口割りで矢を保つためにはどうしても馬手の手首で引分けを保つようになる。これでは、背中から発動する勁力での離れは到底望めない。

これを是正するためには、まさに弓手三分の二、馬手三分の一の「感覚」で、下ろしてくることが肝要である。

この馬手と弓手の感覚の差はことのほか大きい(ことが多い:個人差あり)。私の場合、馬手は「折りたたんでくる」だけで、弓手の詰合いに「全力を尽くす」、くらいでちょうど十文字の引分けができる。

おそらくこの差は、伸ばし切っている弓手と、曲げている馬手との感覚の差であると思うのだが、いずれにしろ、会で深く詰合い、かつ、十文字になっているバランスを見つけるように稽古を積む必要があるだろう。


※「三分の二、三分の一」という割合は、弓の強さ、筋力、詰合いの成熟度などによって大きく異なる。特に、初心のうち、筋力(弓力:ゆみぢから)が弱く、詰合いが完成されていないうちは、これとは逆に馬手が緩んでしまうことの方が多い。しかし、筋力・詰合いが充分に身につき、ちょうどよい弓の力で引いていくほどに、この射法訓の割合が理想になっていくようである。

成長の原理

2009年05月17日 | 極意探求
弓道の技術的な頂き(いただき)である「中・貫・久(ちゅう・かん・きゅう)」。この中でも特に重視したいのが「久」である。

「久」とは、高いレベルでの「中」=中り(あたり)と「貫」=貫通力とが安定して発現するということである。

つまり、どんなによい射が出たとしても、それが続かなければ本当にその段階に到達したとは言えないということだ。

これは武道としてみた場合、至極当然のことである。なぜなら、元をたどれば生死を分けるような場面に合って、いつでもそれを回避できるような技術や心の状態を目指してきたのが武道であるからだ。

最高の射であっても、たまにしか出ないということでは武道としての価値は少ないといわざるを得ない。中るべくして中て、出すべくして出す。そうして初めてその段階の実力が備わったといえよう。

「久」を身につけるためには、矢数(やかず)を掛ける以外に方法はない。私の師匠は昔「毎日二百射引いて稽古。それ以外は弓放し」とよく言われていたらしい。

そこまでは難しいにしても、本当の意味で「久」を求めるのであれば、少なくとも毎日何らかのトレーニングは必要であろう。

今回は、久を実現する二つの段階をお伝えしよう。それは「研究」と「反復」である。

研究により、上達のコツを見つける。これがまず第一である。特に初心のうちはただ弓を引いていても正しい射になっていない場合が多い。なぜそうなるのか?どうするべきか?と疑問を持ちながら稽古をすることが肝要である。

そして、そうして発見したコツは一度体現できたとしても、すぐに消えてなくなってしまうものである。そこで「反復」が必要になる。正しい射を何度も何度も反復することで、その動きを身体にしみこませるのだ。

さらにそれが当たり前になってきたならば(久の実現)、またより高いレベルの研究に取り組むことが可能となる。

この「研究」と「反復」という二つの段階は、人が成長する上での原理原則である。余談ではあるが、教える側も今生徒がどちらの段階にいるのかを見極めながら教えることが肝要と言えよう。

また、この原理からすれば、ただ反復して稽古しても、逆に研究ばかりして全然反復しようとしないことも、上達には至らないということになる。

研究と反復。これなくして、久の実現はないのである。

どの方向に伸び合えばよいか?③

2009年05月15日 | 極意探求
伸合いシリーズの最後として、勁力による伸合いの重要性について説明したい。

前回、以下のようなことを書いた。

「会では、・・・(中略)・・・背中に一直線のラインが出現するまで、張り伸ばしていくことが肝要である」

もう既にお分かりのことと思うが、「張り伸ばしていく」のは腕ではない。ではどこか?

それは、背中と両腕の下筋(二の腕)である。

まず背中については、肩を後方下に向けて落とし広げていくことで張り伸ばすことができる。まだ背中の感覚がうまくつかめない人であれば、肩根が縮まらないように胸を開いていくイメージで同様のことができるはずである。

また両腕下筋は、弓手と馬手の下筋のラインが背中で直線にちかづいていくイメージで張り伸ばすことができる。これも同様に肩根を縮めることなく胸を開いていくことで同様の感覚がつかめるはずだ。

このようにして行う伸合いは、外見からはほとんど動きが見られないものである。しかし、身体の内側では確かに動きが存在している。

したがって、この伸合いの時間が、会から離れまでの時間となって現れるのである。(熟練するまでは、各部位の張り伸ばしを完成するまでに少なくとも5秒はかかるだろう)

慣れるまでは「肩根を落とし、背筋を伸ばし、胸を開いていく」という稽古を何度も行い、背中や下筋を使う感覚がつかめるようになったら、直接そこを意識して伸合いができるように稽古をするとよいだろう。

これができるようになると、弓は「引き離し」ではなく、「勁の発動(発勁:はっけい)」というレベルにまで昇華することになる。

どの方向に伸び合えばよいか?②

2009年05月13日 | Q&A
前回「背中との連動」の重要性について書いた。今回は、それに引き続き、「胸を開くこと」という伸合いの基本動作について説明したい。

ここでの論点は、

①大三から会に至る上下の動き(下ろしてくる動き)から、離れに至る伸合いの横の動きに、どのように移行していけばよいか?

②伸合いではどの方向に伸びあえばよいか?

という2点である。

まず①について。結論から言うと「縦から横の動きに移行するのではなく、大三から残身に向かって最短距離で引き分ける」となる。

つまり、縦の動きと横の動きを分離するのではなく、下ろしてくる動きと同時に腕(胸)を開いていく動きを行うということだ。

もう少し詳しく言うと、大三で肩根、肘、手首(特に弓手)の詰合い(張り)を確認し、そこから肩根を中心に、(弓手は手の内が、馬手は肘が)円周を描くように残身まで下ろし、かつ開いていくのである。

したがって、②の結論も明らかである。つまり「的に向けてまっすぐ伸ばすでもなければ、下ろすでもない。真横に開くのでもなく、ただただ残身(すなわち離れ)に向けて、下ろし、開き続ける」ということになる。

ここで大事なことは、大三から以降はどこかの縮まっていた関節を伸ばすようなことは全くなく、ただただ最大の詰合いを保ちつつ、特に肩根を最大限深く詰めあったまま、これを円周の中心とし、残身に至るまで、下ろし、開いていくだけ、ということだ。

そしてもう一つ。前回説明したように、残身は、両肩根、両腕の上腕下筋(二の腕)、そして弓手手の内、馬手の肘、これら(いわゆる五部の詰め)が、背中を通じて一直線につながった状態である。

会では、矢と顔がぶつかるため(頬づけ)、上記の状態に至ることは物理的にできないわけだから、そこで止めるのではなく、背中に一直線のラインが出現するまで、張り伸ばしていくことが肝要である。

このようにして離れを出すと、中心となっている縦の線は微動だにせず、弓手の拳(こぶし)だけが一拳か二拳だけ動き、ピタッととまる。また、馬手も肘がやや後ろ斜め下に開き、拳が両肩の延長線上に飛んでピタッと止まる。

その姿はまさに縦横十文字の規矩(きく:形の意)そのものである。