続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

弛まない離れ

2009年07月22日 | 極意探求
弛(ゆる)まない離れは、やはり見ていて気持ちがいいものである。会に入ってからもなお、もたれることなくじりじりと伸合い続け、糸がふっつりと切れたように離れる。

こうした離れには、離そうという意志が全く感じられず、まさに自然のまま、伸びあっていたら切れた、という感じに見えるものだ。

緩まず離れを出す最大のポイントは、会に入ってからなお伸び続けることである。

弓手を的に向かって伸ばし、馬手を引っ張るのには限界があるが、詰めあったまま肩根を中心に背中で開いていくのは無限にできる。(離れに至るまでは)

これが弛まない原理である。

前回述べた「近づける引分け」は、まさにこれを実現する引分けのイメージである。

つまり、打起しから徐々に弓を身体に近づけていき、肩に抱えるようにして背中で入った最深の会から、さらにゆっくりと肩を開いていくのである。

この動きは当然、外から見えるほど大きなものにはならない。なぜなら、顔があるため、会から先へは両こぶしのラインを背中に近づけることができないからだ。

ただし、肩根はまだ余裕を持って開いていくことができる。したがって、会に入ったら自然の離れがでるまで、じわじわと肩根を広げていけばよいのだ。

私の感覚では、会ではほとんど弓の力と和合しているだけで、それ以上開く意識はあまりない。しかし、もたれているのではなく、あくまで「開き続ける」ことが重要であることは言うまでもないことである。

このようにすることで、いわゆる「無限の引分け」という極意も、それほど難しくなく経験できるのではないかと思う。

「下ろす」から「近づける」へ

2009年07月19日 | 極意探求
「上下」を意識する下ろす引分けが自然にできるようになったら、今度は「前後」を意識して引分けをすることで、もう一段高みに上がることができる。

つまり、打起しから、大三、引分け、会に至るにしたがって、弓を身体に近づけていく、ということだ。

下ろす引分けは、高く上げた打起しから、「上下」だけを意識して、ただ下ろしてくる、というものだった。これにより、引いたり、押したりではなく、詰合いによって弓を押し広げる感覚を身につけることを意図していた。

これと同様に、近づける引分けは、「前後」だけを意識し、詰合いながら胸を開き、弓を肩に背負い込み、背中で会に入る、という感覚を養うものである。

下ろす引分けが自然にできるようになっていれば、近づける引分けはそう難しくない。意識を「上下」から「前後」にかえ、打起しから大三、会へと至るまで、弓を身体に近づけてくることだけを意識するのである。

具体的に見ていこう。

まず、打起しをできるだけ身体から離してとるようにする(高さも十分にとること)。こうすることで、大三に向けて、弓を近づける感覚がわかりやすい。

もちろん、肩根を落とし、腕をしっかりと伸ばし、やや円相を保つようにすることは以前と変わりはない。

次に、打起しから大三にかけて、弓手は肩根を中心に回し開き、馬手は引かれるまま肘で保ち、やや身体に近づける。

このとき、馬手を引かれるままに身体に近づけるためには、肘をやや張り上げることが必要なことに注意をしよう。やってみればわかると思うが、これは馬手を身体に近づけるためには必要な動作である。

これで、打起しのときの両こぶしを結んだラインは、大三でやや身体に近づくことになる。(イメージとしては、打起しでは両こぶしのラインを、大三では弓手のこぶしと馬手の肘とのラインを考えるとよい)

そこからさらに、そのラインを背中のちょうど両肩根を結ぶラインに向けて、近づけるように引き分けてくる。

このとき、的に向かって弓手を伸ばしたり、馬手を引いたりする意識を一切捨て、身体に弓を近づける「前後」の意識だけを持つようにすることが肝要である。(上下の引分けができていれば容易にできるはずである)

このように引き分けると、深く詰合いながら、弓に深く分け入る感覚が体感できる。

シンプルに捉えること

2009年07月16日 | 極意探求
物事は、単純に、シンプルに捉えることがとても大切である。自然は一見すると多種多様であるが、その本質はゆっくりと変化し続ける川の流れに等しい。

本質を捉えることで、物事をシンプルに捉えることができる。

弓もそうである。多くの場合、枝葉ばかりを気にして、複雑怪奇な世界に入り込むのを好む傾向があるが(私自身の自戒も含め)、これは正しい研究の姿勢とはいえない。

むしろ、枝葉の裏側にある、一本の軸(本質)は何か?それを捉えたい、という一心で研究し、稽古することが大事だと思う。

そういう意味で、弓道の本質は、限りなく深い詰合いであり、そこから生まれる最深の会であり、身体での伸合い(発勁)である。

それが実現したとき、弓と矢と射手が一体となり、まるで木の葉から滑り落ちる一滴の雨水の如く、自然のままに離れが生じる。

ただそれだけのことだ。


自然の離れはなぜ出るか?

2009年07月12日 | 極意探求
これまでいろいろと説明をしてきたが、要は、最深の会を生み出すための3つの条件を説明してきたに過ぎない。それは、以下のとおりである。

 ①縦線の安定
 ②肩根から手の内までの最深の詰合い
 ③的に向かってまっすぐに伸びる伸合い(背中に向かう開く勁力と手の内の作用)

これらは①から③までちょうど因果の関係になっている。つまり、縦線が完成して初めて深く詰めあうことができ、完全な詰合いがあって初めて伸合うことが出来るようになる。

そして、これらの先にあるものこそ、最深の会であり、自然の離れである。

ここでいう自然の離れとは、自分で離そうとすることなしに、弓力と身体の力(勁力)とが自然にはじけて離れを出すことを言う。

実は、上記3つの条件こそ、自然の離れを生み出す基本的なシステムなのである。

今回はこのことについて簡単に説明したい。

なぜ、上記3つの条件を満たすと、自然の離れが生まれるのか?

それは、これら3つの条件が、伸筋(勁力)のみを使わざるを得なくなる状態に持っていくからである。そういう意味では、詰合いの完成こそ本質といえるだろう。

勁力を矢印でイメージしてもらうと(写真参照)、縦横十文字に詰合い切った会では、両足(2本)、頭(1本)、両腕(2本)という5つの矢印が全て身体の中心から外側に向かって放たれていることがわかるだろう。(もし完全な詰合いでなかった場合、矢印はどうかわってしまうだろうか?)

これは、実際の会での感覚とイコールである。つまり、完全な詰合いによって最深の会に入ったならば、会では「身体で押し広げる」という感覚になるのだ。

これは例えば、四方を狭い、強固な壁で覆われていることをイメージしてほしい。体育座りでようやく入れるような狭い箱である。

そこに例えば閉じ込められているとして、そこから抜け出るために、全力でその箱を押し壊そうとしてみよう。

このとき、手足の力ではなく、身体全体で圧をかけていることが感じられるだろうか?

それでも、もちろん強固な壁はびくともしないのであるが、背中、首、足などは全力で壁を押していて、すごい圧力を感じることができるはずである。(腕はほとんど使わないことに注目。支えにはすれど、腕の力で押そうとすることはしないはずである)

この身体全体で弾けさせようとする感覚こそ、勁力による離れの発動のイメージである。

もし上記で突然箱が壊れたら、どうなるだろうか?自分も箱が壊れるとともに、転げ出てしまうだろうか?

否、そうはならない。四方八方に身体全体を使って圧をかけているならば、箱が壊れた瞬間に、身体全体から四方八方への力が抜け、伸びきった感覚になるだけで、微動だにしないだろう。

もちろん箱は、限界の圧を受けて、激しく四方に飛び散ることになる。

これこそ、自然の離れのイメージである。

手の内により生まれる真の伸合い

2009年07月02日 | 極意探求
これまで、詰合い、伸合いが本質であり、手の内はその延長という説明をしてきた。当然、このことは正しいと信じているわけだが、だからといって手の内が重要でないとは考えていない。

むしろ、手の内の完成によって初めて、詰合い、伸合いは完成する。詰合いについては、手の内が弓手の延長であるから当然のこととして、伸合いについても実は手の内が大きく関連しているのである。

このことについて少し詳しく見ていこう。

手の内の役割は、前回の「受ける手の内」で説明したように、弓力の圧(弓からまっすぐ押される圧)とねじれの圧を全てもらさず蓄えることにある。

特にねじれの圧を蓄えることが本質的な役割なのだが、もしこれが働かなかったとしたら、伸合いはどうなるだろうか?

もし手の内でねじれの圧を受け切ることなしに伸びあったとしたら、これは開いていく伸合いになる。ちょうど、徒手で伸び合っているのと同じ状態である。

実際に徒手で伸び合うとわかるのだが、最深の会に入ってからさらに伸びあうためには、胸を開き、背の下方に向かって開いていかざるを得ない。

これは伸合いとしては正しい伸合いである。(「どの方向に伸び合えばよいか?②」参照)

しかし、手の内が完成すると、これと全く同じ動作をしても、全く違う作用が働く。それは「的に向かってまっすぐに伸び合う」という作用だ。

正しい手の内によってねじれの圧を逃すことなく蓄えるようになると、ただ胸を開いていったのでは弓が手の内の圧に引っかかり、完全に会に入ることができないということが起きる。

ところが、逆に、まるでこれを解消するかのように、ねじれの圧に大して反対の作用が手の内で働く。つまり、角見を通して的に向けてまっすぐに押す作用だ。(これをぜひ体感してもらいたい)

これは前回も書いたように、意識的に押すのとは全く違う。あくまで手の内は弓力を受けているだけなのだが、そこに働くねじれの圧への反作用として、角見を通して的に向けてまっすぐの力が働くのだ。

いわば、手の内は、背中と弓手による開く力を、的に向けてまっすぐに伸ばしていく力に変換する機能を担っているのである。

このようにして会に入ると、自分の力だけでは到底及ばないくらい深いところまで伸び合うことができる。しかも、弓手はまっすぐに伸びているから、離れでほとんど弓手が動くことがない。

不動の弓手から生まれる離れは限りなく鋭く、矢飛びは限りなく軽い。