私には実現したい理想がある。それが「中(あた)るべくして中る」ということだ。
直感的にはまぐれ中りではないということだが、厳密にいうと射において一切の無明(むみょう※)をなくす、ということだ。
特に自分の身体と弓矢の挙動において、全てを把握しつくして引き、そして中てるということになる。
これは不可能とも思えるほど難しい。なぜなら、身体の感覚というものは常に変化し、とらえどころがないからである。
さらにやっかいなのは、自分でわかっていると思っていることが実はよくわかっていないということがあるということである。
たとえば、稽古で「ここをこうすればうまくいく」というルールを発見したとしよう。しかし、次に引くときにはその感覚が違っていて、あるいは他の箇所に問題が生じていて、せっかく発見したルールが役に立たないということも多々ある。
また、どうも調子が悪いのだが、どこが悪いかは特定できないということもよくあることだ。
しかし、だからといって正解を探すことを諦めるのではなく、そういうことを一つ一つ積み重ね、本当にいつでも通用するルールを発見していくことこそ、私が求める理想に近づく唯一の道であると考えている。
一つ一つ無明を光で照らし、智慧(ちえ)を身につけていく。そして、最後には、全て自分の理解のもとで引き、そして当然のように中るという境地を目指しているのである。
「稽古とは、一より習い十を知り、十よりかえるもとのその一」
これは茶道の千利休の言葉とされているものだが、私はこれを大真面目に追及して稽古に取り組みたいのだ。
※無明とは仏教用語で、真実に対して暗いこと(闇)をいう。たとえば禅で重要なことは、自分の暗闇に意識(光)を向け、照らし尽くすこととされる。ここでは「無知」くらいの意味で使っている。
直感的にはまぐれ中りではないということだが、厳密にいうと射において一切の無明(むみょう※)をなくす、ということだ。
特に自分の身体と弓矢の挙動において、全てを把握しつくして引き、そして中てるということになる。
これは不可能とも思えるほど難しい。なぜなら、身体の感覚というものは常に変化し、とらえどころがないからである。
さらにやっかいなのは、自分でわかっていると思っていることが実はよくわかっていないということがあるということである。
たとえば、稽古で「ここをこうすればうまくいく」というルールを発見したとしよう。しかし、次に引くときにはその感覚が違っていて、あるいは他の箇所に問題が生じていて、せっかく発見したルールが役に立たないということも多々ある。
また、どうも調子が悪いのだが、どこが悪いかは特定できないということもよくあることだ。
しかし、だからといって正解を探すことを諦めるのではなく、そういうことを一つ一つ積み重ね、本当にいつでも通用するルールを発見していくことこそ、私が求める理想に近づく唯一の道であると考えている。
一つ一つ無明を光で照らし、智慧(ちえ)を身につけていく。そして、最後には、全て自分の理解のもとで引き、そして当然のように中るという境地を目指しているのである。
「稽古とは、一より習い十を知り、十よりかえるもとのその一」
これは茶道の千利休の言葉とされているものだが、私はこれを大真面目に追及して稽古に取り組みたいのだ。
※無明とは仏教用語で、真実に対して暗いこと(闇)をいう。たとえば禅で重要なことは、自分の暗闇に意識(光)を向け、照らし尽くすこととされる。ここでは「無知」くらいの意味で使っている。