弛(ゆる)まない離れは、やはり見ていて気持ちがいいものである。会に入ってからもなお、もたれることなくじりじりと伸合い続け、糸がふっつりと切れたように離れる。
こうした離れには、離そうという意志が全く感じられず、まさに自然のまま、伸びあっていたら切れた、という感じに見えるものだ。
緩まず離れを出す最大のポイントは、会に入ってからなお伸び続けることである。
弓手を的に向かって伸ばし、馬手を引っ張るのには限界があるが、詰めあったまま肩根を中心に背中で開いていくのは無限にできる。(離れに至るまでは)
これが弛まない原理である。
前回述べた「近づける引分け」は、まさにこれを実現する引分けのイメージである。
つまり、打起しから徐々に弓を身体に近づけていき、肩に抱えるようにして背中で入った最深の会から、さらにゆっくりと肩を開いていくのである。
この動きは当然、外から見えるほど大きなものにはならない。なぜなら、顔があるため、会から先へは両こぶしのラインを背中に近づけることができないからだ。
ただし、肩根はまだ余裕を持って開いていくことができる。したがって、会に入ったら自然の離れがでるまで、じわじわと肩根を広げていけばよいのだ。
私の感覚では、会ではほとんど弓の力と和合しているだけで、それ以上開く意識はあまりない。しかし、もたれているのではなく、あくまで「開き続ける」ことが重要であることは言うまでもないことである。
このようにすることで、いわゆる「無限の引分け」という極意も、それほど難しくなく経験できるのではないかと思う。
こうした離れには、離そうという意志が全く感じられず、まさに自然のまま、伸びあっていたら切れた、という感じに見えるものだ。
緩まず離れを出す最大のポイントは、会に入ってからなお伸び続けることである。
弓手を的に向かって伸ばし、馬手を引っ張るのには限界があるが、詰めあったまま肩根を中心に背中で開いていくのは無限にできる。(離れに至るまでは)
これが弛まない原理である。
前回述べた「近づける引分け」は、まさにこれを実現する引分けのイメージである。
つまり、打起しから徐々に弓を身体に近づけていき、肩に抱えるようにして背中で入った最深の会から、さらにゆっくりと肩を開いていくのである。
この動きは当然、外から見えるほど大きなものにはならない。なぜなら、顔があるため、会から先へは両こぶしのラインを背中に近づけることができないからだ。
ただし、肩根はまだ余裕を持って開いていくことができる。したがって、会に入ったら自然の離れがでるまで、じわじわと肩根を広げていけばよいのだ。
私の感覚では、会ではほとんど弓の力と和合しているだけで、それ以上開く意識はあまりない。しかし、もたれているのではなく、あくまで「開き続ける」ことが重要であることは言うまでもないことである。
このようにすることで、いわゆる「無限の引分け」という極意も、それほど難しくなく経験できるのではないかと思う。