続・弓道の極意

私が一生をかけて極めようとしている弓道について、日々の気づきを積み重ねていくブログ

朝顔の手

2009年06月08日 | 極意探求
手の内は、実は弓道だけのものではない。古くから武道と呼ばれるもののほとんどに「手の内」が技術として残っている。

道具を手に持つ剣道や薙刀(なぎなた)はもちろん、何も持たない空手や合気道においても秘伝としての「手の内」が伝えられている。

その中で、特に弓道に応用可能と思われる、本質的な手の内を紹介しよう。それは、合気道における「朝顔の手」と呼ばれる手の内である。

これはその名のとおり、指先を朝顔の花のようにつぼめ、張り伸ばすところからそう呼ばれる。つくり方は次のとおりである。

まず、手を目いっぱい広げ(パーの状態)、肘から手首に続く直線(腕の中筋と呼ぶ)を意識し、その延長線上に中指が来るように張り伸ばす。(反らないように注意。合気道では、「“気”が指先から出ているイメージで」などと教える)

次に、中指からなる中筋を動かすことなく(中心にして)、親指の付け根(膨らんだ部分)と小指の付け根(第三間接付近)を出来る限り近づける。

このとき、各指が曲がらないように、しっかりと張り伸ばそう(詰合い)。すると、手指の形が朝顔のようにすぼんだ形になるだろう。

これがあらゆる武道に共通する手の内の詰合いの形である。これまで説明してきた詰合いの要素(※)が全てここに盛り込まれていることがわかるだろう。

この形から中指、薬指、小指の3本だけを軽く握りこむようにすれば、ちょうど弓道の手の内という形になっている。(人差し指は、張り伸ばしはそのままに、第一、第二間接を少し曲げると具合がよい)

こうしてつくられた手の内は、指先ではなく、親指、小指の付け根の筋肉(伸筋)が張り伸ばされる。したがって、腕から手首を通じて伸ばされている詰合いの延長としてこれと一体化する手の内となる。


※大事な要素としては、伸筋だけが使われていること、力まずともしっかりとして形が崩れにくいこと、腕と手首と手の内とが一体となり連動していること、などが挙げられる。

手の内の詰合い

2009年06月04日 | 極意探求
手の内は、弓道において秘伝的な位置づけとして語られることが多いが、私はそれほど難しく考えてはいない。

なぜなら、確かに流派によって様々な手の内の作り方があり、それぞれ独自の効果を発揮するものであるが、その本質は全て共通しているからである。

その本質とは、「手の内による詰合いの実現が重要」ということだ。

詰合いとは、これまでいろいろな説明をしてきているが、要は「伸ばし、固める」ということであり、それはつまり「筋骨による間接のしなやかな固定」である。

そして、詰合いにより、詰め合っている部分の力を使うことなく(力まず)、他の部位によって力を伝えること(勁力)ができるようになる。

手の内においても同様である。

つまり、手の内の詰合いとは、肩根、下筋、腕を通じて実現される詰合いと伸合いの「延長」として、手首、手先を伸ばし、固める技術である。

そして、これにより初めて、手先に力を入れることなく、背中から伝わる勁力のみを弓矢に伝えることができるのである。

射法訓が示す引分け ②

2009年05月30日 | 極意探求
射法訓の一説「・・・弓手三分の二弦を推し、妻手三分の一弓を引き・・・」について、もう一つ疑問な点がある。

それは「弓手・・・弦を推し、馬手(妻手)・・・弓を引き」の部分だ。

普通に考えれば「弓手弓を推し、馬手弦を引き」となるだろう。しかし、そうなってはいないところに、この射法訓の深みを垣間見ることができる。

結論から言うと、これらの表現は、「弓手も、馬手も、押し引きしない」ということを示している。

たとえば「弓手弦を推し」ということは、弓手が弦を担当しているのであって、弦を持っている馬手はただ支えているだけ、ということになる。

同様に「馬手弓を引き」ということは、馬手が弓を担当しているのであり、弓を持っている弓手はただそれを受けているだけ、ということになるのだ。

これは、感覚的に大変重要なことを示唆している。つまり、弓(特に引分け)は、引いたり、押したりするものではなく、腕をつっかえ棒としてそれを開き下ろしていくことで、自然に広がっていくもの、ということを示しているのだ。

そして、これらの感覚(手は支えている、受けているだけという感覚)は、両手の内の完成によって、さらに高まることになる。

次回以降、手の内について考えていこう。

骨法で射る ~馬手の緩みの対処法~

2009年05月29日 | 極意探求
初心の方の悩みに「馬手が緩(ゆる)む」ということがある。これまで「弓手の緩み」について説明してきたので、馬手の緩みについても考えてみよう。

馬手が緩む最大の理由は「馬手が正しい会の位置まで入りきれていない」ことである。

正しい会の位置とは、肘が両肩の延長よりやや背中側(ほんの少し下がった位置)までくることをいう。(もちろん馬手の手の内は、矢筋の延長にあるわけだから、口割りと平行な位置に来ている)

これが馬手の会の位置であり、ここまで馬手がしっかり入っていれば、そうそう緩むことはない。

試しに、補助で誰かに手伝ってもらい、この状態まで弓を引き、弓手の詰合いも確認し、そこから一人で会を維持してみよう。もし、それでも緩むようであれば、弓が強すぎる可能性が高いので、弓を換えることも検討した方がよいだろう。

ほとんどの場合、この位置まで持ってきてしまえば、緩まないどころか、緩みようがないことが実感されるはずだ。

ちなみに、これこそが射法訓に出てくる「骨を射る」ということである。

つまり、筋力により引き伸ばす(弓を射る)のではなく、骨(関節)と弓力との強固な釣り合いによって引き下ろしてくる(骨を射る)ことで、容易には揺るまない引分けが可能となるのだ。

そして、この骨と弓力との釣り合いを詰合いと呼ぶのである。


では、どうすれば、馬手を正しい会の位置まで引き下ろすことができるのだろうか?

それは、大三で決めた馬手の位置から、自分の身体に近づけるように引き分けてくることで容易に実現される。

イメージとしては、馬手の手の内が、耳の後ろを通り、物見を入れている頭の真後ろまでくるくらいの感じ(※)でちょうどよいはずだ。

もちろん、実際には矢が番(つが)えてあるので、そこまでは不可能であるが、そのくらい「身体に近づけるイメージ」で下ろしてくると、馬手が背中と連動し、正しい会の位置まで引き下ろすことができる。

逆に、馬手が浅い人は、身体の前面で引き分けてくることがほとんどである。それではどうしても馬手の、腕だけの筋力で引くしかなく、それが弓力に負ければ浅くもなるし、緩みもするというわけだ。

したがって、大三から会にかけては、弓手と同様、馬手も背中を使って、身体に近づけ、下ろしてくることが肝要ということだ。


※このときの弦の通り道を「弦道(つるみち)」といい、射の成否に大きな影響を与える重要なポイントとして昔から研究の対象となっている。

さぼる弓手、りきむ馬手

2009年05月24日 | 極意探求
本来であれば、大三から左右同じように引き分けてこれればよいのだが、これがなかなか難しい。

特に、弓手が緩み、馬手が力む傾向がある。前回、射法訓の説明でこの点に触れているが、もう少し補足をしておきたい。

なぜこうなってしまうのだろうか?

それは当然のことながら、弓手と馬手の下ろし方の違いからくるものである。つまり、弓手は伸ばし、馬手は折りたたむ、この違いである。

弓手は伸ばしたまま下ろしてくる必要があるので、使われる筋肉は伸筋(しんきん)のみである。

以前説明したように、腕の筋力のイメージは屈筋(くっきん)によるものであるから、伸筋を使うことは慣れていない。したがって、緩みがちになる。

また馬手は形としては肘から折り曲げて下ろしてくる必要があるから、屈筋が使われるように見えてしまう。したがって、屈筋を使って、つまり力んで引き分けてくる傾向が現れる。

しかし、実際には弓手、馬手とも、同等に伸筋だけが働き、同じように胸の筋から左右に分かれるのが正しい。

そうなるために、弓手三分の二、馬手三分の一の感覚で引き分ける必要があるのだ。


具体的には、打起しから大三に移行する間に、弓手の伸筋を全開に働かせ(特に肩根をしっかりと落とすこと)、伸ばしていくと同時に、馬手の力(特に肘から先)を抜いていき、肘だけで支える状態に持っていく(※)。

ここから先、離れに至るまでは、ほとんど弓手の詰合いだけを意識して、両腕を下ろしてくるくらいでちょうどよいはずである。

会が深まれば深まるほどに、弓手の詰合いの安定感が増し(圧が高まり)、それに負けないような伸合いを続ける土台となるだろう。

また、馬手は手先の力が抜けてさえいれば、会が深まるにつれ、キチキチと音を立てて弦が抜けていくのが分かるはずだ。

それに動じず、ただただ伸合い続けると、いつの間にか、鋭い離れが出現し、残心でピタッと静止し、我に返る時が訪れるのである。


※この過程を、馬手から弓手に力を移していくということで「受渡し(うけわたし)」と呼ぶ。

射法訓が示す引分け ①

2009年05月20日 | 極意探求
射法訓の一説にこうある。

「・・・弓手三分の二弦を推し、妻手三分の一弓を引き・・・」

何度読んでも、このあまりの簡潔さと内容の深さに背筋に電気が走るほどの衝撃を受ける。この極めて短い一節の文章から、あまりに豊かな引分けの理想の姿とその感覚とがイメージされるからである。

引分けのまとめとして、この射法訓が示す理想の引き分けについて考えてみたい。

まず第一に考えるべきは、「弓手三分の二、馬手(妻手)三分の一」とはどういうことか?である。

下ろす引分けを行う限り、両腕を均等に下ろしてくればよいのではないか?

これは、引分けで詰合いを保ちながら下ろしてくるときの「内部の感覚」を表している。

つまり、大三で縦線、両肩根、肘などの詰合いを確認した後、ゆっくりと下ろしてくる際、馬手よりもずっと多くの労力を、弓手の詰合いに割かなければ、均等な引分けにはならない、ということだ(※)。

実際、自分の射をビデオなどにとって見てみるとよくわかる。弓手、馬手ともに同じくらいの詰合い方(特に肩根)で下ろしてくると、どうしても馬手が強く、会で肘が下がる傾向がある。

かといって、馬手の詰合い(伸合い)を抑えようとすると、それ以上に弓手が緩み、会が浅くなってしまうのである。

これは上段者にも多く見られる。上段者の場合、緩みは多くはないが、逆に深く詰め合うことで、馬手が下がり、それに合わせるように弓手が上がるという状態である。

このまま離れを出しても鋭い離れは出るのであるが、どうにも見た目が良くない。また、馬手の肘が下がるため、口割りで矢を保つためにはどうしても馬手の手首で引分けを保つようになる。これでは、背中から発動する勁力での離れは到底望めない。

これを是正するためには、まさに弓手三分の二、馬手三分の一の「感覚」で、下ろしてくることが肝要である。

この馬手と弓手の感覚の差はことのほか大きい(ことが多い:個人差あり)。私の場合、馬手は「折りたたんでくる」だけで、弓手の詰合いに「全力を尽くす」、くらいでちょうど十文字の引分けができる。

おそらくこの差は、伸ばし切っている弓手と、曲げている馬手との感覚の差であると思うのだが、いずれにしろ、会で深く詰合い、かつ、十文字になっているバランスを見つけるように稽古を積む必要があるだろう。


※「三分の二、三分の一」という割合は、弓の強さ、筋力、詰合いの成熟度などによって大きく異なる。特に、初心のうち、筋力(弓力:ゆみぢから)が弱く、詰合いが完成されていないうちは、これとは逆に馬手が緩んでしまうことの方が多い。しかし、筋力・詰合いが充分に身につき、ちょうどよい弓の力で引いていくほどに、この射法訓の割合が理想になっていくようである。

成長の原理

2009年05月17日 | 極意探求
弓道の技術的な頂き(いただき)である「中・貫・久(ちゅう・かん・きゅう)」。この中でも特に重視したいのが「久」である。

「久」とは、高いレベルでの「中」=中り(あたり)と「貫」=貫通力とが安定して発現するということである。

つまり、どんなによい射が出たとしても、それが続かなければ本当にその段階に到達したとは言えないということだ。

これは武道としてみた場合、至極当然のことである。なぜなら、元をたどれば生死を分けるような場面に合って、いつでもそれを回避できるような技術や心の状態を目指してきたのが武道であるからだ。

最高の射であっても、たまにしか出ないということでは武道としての価値は少ないといわざるを得ない。中るべくして中て、出すべくして出す。そうして初めてその段階の実力が備わったといえよう。

「久」を身につけるためには、矢数(やかず)を掛ける以外に方法はない。私の師匠は昔「毎日二百射引いて稽古。それ以外は弓放し」とよく言われていたらしい。

そこまでは難しいにしても、本当の意味で「久」を求めるのであれば、少なくとも毎日何らかのトレーニングは必要であろう。

今回は、久を実現する二つの段階をお伝えしよう。それは「研究」と「反復」である。

研究により、上達のコツを見つける。これがまず第一である。特に初心のうちはただ弓を引いていても正しい射になっていない場合が多い。なぜそうなるのか?どうするべきか?と疑問を持ちながら稽古をすることが肝要である。

そして、そうして発見したコツは一度体現できたとしても、すぐに消えてなくなってしまうものである。そこで「反復」が必要になる。正しい射を何度も何度も反復することで、その動きを身体にしみこませるのだ。

さらにそれが当たり前になってきたならば(久の実現)、またより高いレベルの研究に取り組むことが可能となる。

この「研究」と「反復」という二つの段階は、人が成長する上での原理原則である。余談ではあるが、教える側も今生徒がどちらの段階にいるのかを見極めながら教えることが肝要と言えよう。

また、この原理からすれば、ただ反復して稽古しても、逆に研究ばかりして全然反復しようとしないことも、上達には至らないということになる。

研究と反復。これなくして、久の実現はないのである。

どの方向に伸び合えばよいか?③

2009年05月15日 | 極意探求
伸合いシリーズの最後として、勁力による伸合いの重要性について説明したい。

前回、以下のようなことを書いた。

「会では、・・・(中略)・・・背中に一直線のラインが出現するまで、張り伸ばしていくことが肝要である」

もう既にお分かりのことと思うが、「張り伸ばしていく」のは腕ではない。ではどこか?

それは、背中と両腕の下筋(二の腕)である。

まず背中については、肩を後方下に向けて落とし広げていくことで張り伸ばすことができる。まだ背中の感覚がうまくつかめない人であれば、肩根が縮まらないように胸を開いていくイメージで同様のことができるはずである。

また両腕下筋は、弓手と馬手の下筋のラインが背中で直線にちかづいていくイメージで張り伸ばすことができる。これも同様に肩根を縮めることなく胸を開いていくことで同様の感覚がつかめるはずだ。

このようにして行う伸合いは、外見からはほとんど動きが見られないものである。しかし、身体の内側では確かに動きが存在している。

したがって、この伸合いの時間が、会から離れまでの時間となって現れるのである。(熟練するまでは、各部位の張り伸ばしを完成するまでに少なくとも5秒はかかるだろう)

慣れるまでは「肩根を落とし、背筋を伸ばし、胸を開いていく」という稽古を何度も行い、背中や下筋を使う感覚がつかめるようになったら、直接そこを意識して伸合いができるように稽古をするとよいだろう。

これができるようになると、弓は「引き離し」ではなく、「勁の発動(発勁:はっけい)」というレベルにまで昇華することになる。

自灯明、法灯明

2009年04月20日 | 極意探求
会に入り伸び合っていると、いろいろと雑念が沸いてくる。

「もう離した方がいいだろうか?」「もっと押した方がいいだろうか?」「本当に当るだろうか?」と。

初級者の方であれば、先生に習ったことが頭でめぐり、不安と後悔の中で伸びあうことが多いのではないだろうか?

どうすれば、こうした雑念を取り払い、一意専心、伸合いだけに集中できるだろうか?

それにはまず「自分」に意識を向けることが重要である。これは、以前から説明している、「意識を向け、ただただ観る」ということである。

前記の「なんとかしなければ」というのと何が違うかといえば、頭の中にある「考え」に意識を向けるのではなく、実際の「身体」に意識を向けるというところが全く違う点である。

身体をただただ観察するのであって、それに対し批評したり(頭)、良し悪しの評価をしたり(頭)する必要は全くない。

そうではなく、自分の身体をまるで他人の身体であるかのように、ただただ観るのである。

初めのうちは、身体全体に意識を向けるのは難しいだろう。なので、例えば物見を入れて定まった胴造りなど、ポイントを決めて観るようにするとよい。

胴造りなどは、物見を入れてから打起して離れるまで、三重十文字の規矩(きく:形)が不動かどうかを観察するとよい。(悪くても後悔はせず、観察し続ける)

これに慣れてくると、段々自分の身体が、まるでオートメーションで動いているような感覚にすらなってくる。

さらに慣れてきたら意識の範囲を広げていこう。

例えば、前後の立ちの射や審査員、あるいは観衆や射場に飛んでくる鳥など、段々と「自分」から外の世界(これを「法」(ほう)と呼ぶ)へとその意識の範囲を広げていく。

このような稽古を実践することで、弓道がただの武術から立禅へと昇華されるのである。

伸合いの感覚

2009年04月16日 | 極意探求
それでは具体的な伸合いの方法について考えてみよう。

これまでの話で、伸合いは手先を伸ばすことではなく、引き分ける(下ろしてくる)力を背中に連動させ、縦線を効かせつつ胸を開いていくことだということを説明した。

これは動作として、とても重要な流れであるので、ぜひ何度も稽古を繰り返してほしい。

実は、もう一つ重要な点がある。それは「圧」を逃がさないということだ。これは動作というよりは、完全に内側の世界、感覚の世界の話である。

逃がさないというより、むしろ「圧」を高めていくといった方がよいかもしれない。いずれにしろ、大三から会、会から離れにかけて、一寸たりとも「圧」を逃がしてはならない。

「圧」を逃がさないようにするにはどうすればよいだろうか。

まず、常に「圧」に意識を向け、それを感じている(モニターしている)ことが重要である。これは当然のことで、「圧」が感じられなければ、それが抜けてもわからないからだ。

そして、もう一つ。動作をとめない、ということである。つまり、背中と縦線の効かせによる胸の開き、肩の落とし、これを残身に永遠と向けて続けていく、ということだ。

これは以外にできていない人が多い。初心者であれば手先の伸びが限界に来ることにより、伸びが止まってしまうこともあるだろうが、中上段者であっても、会に入るとぴたりと伸びが止まってしまう人を多く見る。

動作にばかり意識が向けられると、こうなることが多い。なぜなら、動作としては会で完全に止まったように見えるからだ。

しかし、実際には伸び続けている。それが手の内に蓄えられる「圧」の高まりとして表現されるのである。

会に入ったら、この「圧」にこそ意識を向け、離れが発動するまで「圧」を高めていくことが重要である。