あっきーにとって初めてのストレートプレイ「エレンディラ」
世界の蜷川幸雄演出の舞台でどんな晃教くんが出てくるのだろう、という期待と、でも、彼は彼のまま、そのままなんじゃないか、という思いと両方ありました。
初日、16日と2回観ての感想です。
雑誌「婦人公論」での蜷川さんとあっきーの対談で、蜷川さんは私達(と言っても私の周りのファン中心ですが)がいつも思ってること、「その王子キャラにノイズを注ぎ込む。才能をついえさせないために。」ということをおしゃっていた。
うーん、ノイズがどう注入されたのか、ちょっと判らなかった(苦笑)
やっぱり、晃教くんはまんまかな、と思いました(笑)
彼は体全体で表現してる。
体全体に力がこめられて、声すらも体の中からすんなり出てこない感じがする。
喉のあたりにとどまって喉から外に出られない感じ。
力だけがこもって声が解放されてない。だから思いの他声が前に出ていない気がした。
役者は台詞で伝える。声が命。
今までの舞台は音楽中心でマイクが入ってたからそんなことは感じなかったけれども、今回は台詞中心、マイクは歌のときしか入ってないからね。
他の舞台役者の人との違いがはっきり出てました。
声は体全体から、気持ちから出てくるものだと思う。
まだ、開放されてないのか。自由にはなってないのかな。
婦人公論の対談では、蜷川さんは
「中川くんがもっともっと自由になれたらいいね。自分の身体や感情が繰れて自己主張できるようになる」
と言っています。
でも、それができたらあっきーはホントの役者になっちゃうなあ、と思ってた(爆)
やっぱりなあ…
というのが正直なところです。
あっきーの繊細さ、ピュアさは演技というより、彼自身そのままだと思う。
自分自身の心の中の一番内側にはしっかりバリアを張って、その外で「演技」をしているような気がする。
自分をさらけ出して、そこから「役」としてのウリセスを再構築する、ということはしていない気がする。
でも、それができたなら、彼はとっくに役者になっていただろうと思う。
役者ではないところがあっきーらしさ、なのかなと。
って、変わらないんだよね、結局。
自分自身を解き放つ、ということは彼の場合、「演技」でするのではなく、やはり「歌」ですることなのだ。
ウリセスとして台詞をいうよりも歌でこそウリセスを表現することが彼の場合自然なことのように思える。
3回、歌うところがあります。
やっぱりあっきーじゃないと、歌えない歌だと思う。
神経を張り詰めて、感情を集中させて凄い密度になってる。
あっきーの声はやっぱり歌の方が生きている、そう思いました。
でも、なんだかんだ言って、あっきーウリセス、好きなんです(笑)
特に3幕目。
最後の方、おばあちゃん(エレンディラ)の寝ているベッドから、若いウリセスとエレンディラが現れてくるところから後の場面かな。
原作にはない部分ですね。
なんだかロミオとジュリエットみたいにこの世では幸せに結ばれないけど、でも、永遠の愛はある、みたいな。
なんだか、涙が出そうになりました。
美波ちゃんが泣かせる。
私の大切な白孔雀さん…とか、胸が熱くなっちゃいました。
ウリセスとエレンディラの若い二人の純粋な愛、というのが感じられて。
その純粋な愛は凄い自己犠牲の上に成り立ってるんですよね。
それが胸を打つ。
ウリセスの白い鳥の姿が目に焼きついて離れません。
4時間という物理的な長さよりも、舞台上の濃密な時の流れは「時間」というものを忘れさせる。
そんな舞台でした。
あと、舞台全体のこととかはまた後日。
世界の蜷川幸雄演出の舞台でどんな晃教くんが出てくるのだろう、という期待と、でも、彼は彼のまま、そのままなんじゃないか、という思いと両方ありました。
初日、16日と2回観ての感想です。
雑誌「婦人公論」での蜷川さんとあっきーの対談で、蜷川さんは私達(と言っても私の周りのファン中心ですが)がいつも思ってること、「その王子キャラにノイズを注ぎ込む。才能をついえさせないために。」ということをおしゃっていた。
うーん、ノイズがどう注入されたのか、ちょっと判らなかった(苦笑)
やっぱり、晃教くんはまんまかな、と思いました(笑)
彼は体全体で表現してる。
体全体に力がこめられて、声すらも体の中からすんなり出てこない感じがする。
喉のあたりにとどまって喉から外に出られない感じ。
力だけがこもって声が解放されてない。だから思いの他声が前に出ていない気がした。
役者は台詞で伝える。声が命。
今までの舞台は音楽中心でマイクが入ってたからそんなことは感じなかったけれども、今回は台詞中心、マイクは歌のときしか入ってないからね。
他の舞台役者の人との違いがはっきり出てました。
声は体全体から、気持ちから出てくるものだと思う。
まだ、開放されてないのか。自由にはなってないのかな。
婦人公論の対談では、蜷川さんは
「中川くんがもっともっと自由になれたらいいね。自分の身体や感情が繰れて自己主張できるようになる」
と言っています。
でも、それができたらあっきーはホントの役者になっちゃうなあ、と思ってた(爆)
やっぱりなあ…
というのが正直なところです。
あっきーの繊細さ、ピュアさは演技というより、彼自身そのままだと思う。
自分自身の心の中の一番内側にはしっかりバリアを張って、その外で「演技」をしているような気がする。
自分をさらけ出して、そこから「役」としてのウリセスを再構築する、ということはしていない気がする。
でも、それができたなら、彼はとっくに役者になっていただろうと思う。
役者ではないところがあっきーらしさ、なのかなと。
って、変わらないんだよね、結局。
自分自身を解き放つ、ということは彼の場合、「演技」でするのではなく、やはり「歌」ですることなのだ。
ウリセスとして台詞をいうよりも歌でこそウリセスを表現することが彼の場合自然なことのように思える。
3回、歌うところがあります。
やっぱりあっきーじゃないと、歌えない歌だと思う。
神経を張り詰めて、感情を集中させて凄い密度になってる。
あっきーの声はやっぱり歌の方が生きている、そう思いました。
でも、なんだかんだ言って、あっきーウリセス、好きなんです(笑)
特に3幕目。
最後の方、おばあちゃん(エレンディラ)の寝ているベッドから、若いウリセスとエレンディラが現れてくるところから後の場面かな。
原作にはない部分ですね。
なんだかロミオとジュリエットみたいにこの世では幸せに結ばれないけど、でも、永遠の愛はある、みたいな。
なんだか、涙が出そうになりました。
美波ちゃんが泣かせる。
私の大切な白孔雀さん…とか、胸が熱くなっちゃいました。
ウリセスとエレンディラの若い二人の純粋な愛、というのが感じられて。
その純粋な愛は凄い自己犠牲の上に成り立ってるんですよね。
それが胸を打つ。
ウリセスの白い鳥の姿が目に焼きついて離れません。
4時間という物理的な長さよりも、舞台上の濃密な時の流れは「時間」というものを忘れさせる。
そんな舞台でした。
あと、舞台全体のこととかはまた後日。