⑴ ウィキペデアに書いてあること 2/2
C:「弥生人」
「弥生人(やよいじん、Yayoi people)とは弥生時代の人々を指し、大陸から渡来し縄文人と交流して新文化を形成した人びと(大陸系弥生人)、縄文人が新文化を受け入れて弥生人となった人びと(縄文系弥生人)、そして両者の混血で生まれた人びと、およびその子孫たち(混血系弥生人)が含まれるとされている。狭義には、大陸系弥生人のみを指して弥生人という。」
「最初に弥生系が展開したと考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは弥生系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。そのことから、水田稲作の先進地帯でも縄文人が水稲耕作を行ったのであり、絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。
一方、1960年代になると金関丈夫が、山口県土井ヶ浜遺跡や佐賀県の三津永田遺跡などの福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から、弥生時代の人の身長は高く、さらに頭の長さや顔の広さなどが中国大陸の人骨に近く、縄文時代人とは大きな差があると指摘し、縄文人とは違った人間が朝鮮半島を経由してやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた。その後の調査で、前述のように中国山東省の遺跡から発掘された人骨との類似も指摘されている。また、埴原和郎は、アジア南部に由来する縄文人の住む日本列島へ中国東北部にいたツングース系の人々が流入したことにより弥生文化が形成されたとの「二重構造モデル」を1991年に提唱した。」
D:「日本人」
「縄文人と弥生人[編集] 先史時代の日本列島に住んでいた人間を縄文土器を使用していたことに因み縄文人と呼んでいる。水稲農耕が始まった弥生時代の日本列島に居住する人間を弥生人と呼んでいる。」
「日本人には特徴的なハプログループM7aというグループがある。琉球諸島・アイヌに比率が高く本州で比率が少なくなるという分布になっている。発祥地域については議論があるが、台湾付近で発生したM7aが日本を最大集積地(最も頻度の高い地域)とし、台湾・日本から朝鮮半島中国北東部へ北上し、北上の上限がシベリアとなったとの見方が主流である。M7a、M7b、M7cについてもシベリア等からの発祥は考えにくく、南方から北方に移動があったとされている。
これに対して崎谷満は2009年の著書で、M7aは極東・アムール川流域にも見られるほか、シベリア南部(ブリヤート)、東南アジアにも見られるとし、発生したのはシベリア南部 - 極東あたりと予想する一方、台湾先住民にも台湾漢民族にも存在せず、台湾から北上して日本列島に入ったものではないと記している。」
(※松永:↑同一物証の解釈の違い…可能性のある諸説)
~歴史~
「崎谷満によれば、最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのは、4万-3万年前に大陸からやってきたD1b系統である。D1bは日本に多く見られる系統であり、アイヌ88%、沖縄県約50%(4% - 56%)、本州約36%(31% - 39%)で、東アジアではほとんど存在しない。遠縁のD1aが多数のチベット人で見られるほか、少数のウイグル人、モンゴル人、アルタイ人、イ(彝)人、ミャオ(苗)人、ヤオ(瑶)人、漢人などでも確認されている。D1系統は4万年程前に二つのグループに分岐し、東進して日本列島に至り誕生したのがD1bであり、アルタイ-チベット付近にとどまったグループがD1aであると考えられる。」
(※松永:↑これが縄文人の大部分らしい。/現代日本人のうちD1bをもつ人々の割合=33.8%。)
「その後、渡来時期については諸説あるが、約1万年程前に古代地中海とネパールに遠戚を持つC1a1系統が日本列島に入ってきた。崎谷満はC1a1の祖型はイラン付近からアルタイ山脈付近を経由し朝鮮半島経由で日本に到達したとしている。渡来年代についてはD1bより早い4万年以上前という説もあり、C1a1が日本列島最古層という可能性もある。」 (※C1a1=2.3%)
「同時期にシベリアの狩猟民であるC2系統が、バイカル湖周辺からアムール川流域および朝鮮半島を経由して、最終氷期の海面低下により地続きとなっていた九州北部に達した(1.5 - 2万年前)。[要出典]また、一部はサハリン経由で北海道に達した。・・・」 (※C2=3.0%)
「O1a系統は台湾の原住民の男性に非常に多いので、新石器時代の台湾または対岸の中国本土沿岸部が起源であろうと推測されている。崎谷満はオーストロネシア語族との関連があると想定している。台湾と近いにもかかわらず、日本列島ではO1aはごく少数に過ぎない。」 (※O1a=3.4%)
「O1b2系統について、崎谷満は長江文明の担い手だと考えている。O1b2系統が移動を開始したのは約2800年前で、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、中国東北部、朝鮮半島から日本列島へ渡ったと崎谷満は主張している。
O1b2系統は中国江南から水稲栽培を持ち込んだと考えられ、日本列島への流入は弥生人と関連し、則ちO1b2系統の到来と共に縄文時代から弥生時代へ移行しはじめたと考えられる。O1b2系統は日本本州の他、朝鮮半島や中国東北部でも比較的多く見られる。」 (※O1b2=33.5%)
「O2系統について崎谷は、その一部は弥生人としてミレット農耕をもたらしたが、大部分は弥生人よりも更に後、特に4世紀から7世紀頃に中国大陸及び朝鮮半島から到来した渡来人による流入が多かったであろうとしている。O2は漢民族に最多の系統である。 (※O2=16.7%)
「N系統はウラル系民族に高頻度で、日本には0-8%見られるが、具体的な渡来経路などは明らかでない。N1(xN-M128,N-P43,N-M46/N-Tat)が青森で7.7%観察され、遼河文明の遺跡人骨からもN1(xN-M128,N-P43,N-M46/N-Tat)が高頻度で見つかっており、かつ三内丸山遺跡と遼河文明の関連性が指摘されている。」 (※N=0.8%)
~その他の分子人類学的指標による諸説~
「集団遺伝学者の根井正利は、「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993年、京都)にて、(アイヌを含む北海道から沖縄県までの)日本人の起源は約3万年前から北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはわずかな影響しか与えていないという研究結果を出している。」
「 分子人類学者の尾本恵市は埴原の原日本人(アイヌを含む縄文人)の南方起源説を批判しており、1995年に出した系統図では、日本人はチベット人と同じ枝に位置づけられ、アイヌとは異なるとしており、1997年に出した系統図では、本州日本人はアイヌや琉球諸島、チベット、一部の台湾原住民と近く、韓国人、中国人とは離れているという結果を出している。」
松本秀雄はGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱している。また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも等質性が高い民族であるとの研究結果が発表されている(台湾50、韓国70、日本80)。」
~稲作の起源とその考古学的分析~
「日本人の渡来ルートを知るために稲作の渡来ルートを考える研究があり、いくつかの説が存在しているが、稲作以前から日本列島には人が住んでいたことと、移民してきた少数の稲作耕作者から稲作が原住民に伝搬された可能性とを考えれば、稲作伝搬が必ずしも大規模な移民を裏付けるものではないことに注意が必要である。
~「日本民族」の形成~
「白村江の戦い以後、倭国は長年支配した朝鮮半島から手を引いたが、代わりに東北日本へ進出し、現在の青森県にあたる本州最北部までを統一する。」
~⑴は以上~
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