お金はあまりかけないが家族の努力と協力は必要な「賢い子育て」 :小学生編の方針=主な読者は家族と教職員を想定/社会性・感性・知性を伸ばし、世界で生き抜く賢い日本人を育てたい/現実(主に佐賀県の公立小学校の状況)に即して書く。
■筆者自身のこと その3
読者の皆様が、《60歳の筆者の認識や意見がどのような経験と時代状況から生じた》のか、ある程度は推測できるようにお知らせします。
【子供時代】
中学生 (今から45年ほど昔)
・○○中学校
全校生徒数:1200人ほど(「団塊の世代」の卒業と相次いだ炭鉱閉山で、7年後の昭和45:1970年には673人まで急減)。自分の学年は10学級約450人で、1学級45人ほど。学校の環境や授業の様子は小学校とほぼ同じ。
宿題はあったが自宅ではほとんどせず、学校で朝のうちにしていた。同級生の中にはよく勉強して鹿児島のラサール高校に行って医者になった者もいたが、自分はのんびりしたもので、授業と部活動(ブラスバンドでコルネット吹き)と、読書と遊びに明け暮れていた。
受験勉強はしなかったが、高校に合格できた。受験科目は、国語・数学・社会・理科・英語・音楽・体育・美術(・技術?)の8(9?)科目だった。
高校生
・○○高等学校
全校生徒:1300人ほど。進学校だったので男子が約3分の2を占めていた。自分の学年は8学級440人で、1学級55人。(現在は全校生徒約720人)
先輩の強引な勧誘で演劇部に入り、3年生の2学期まで部長を務めた。そして、親不幸にも大学に進学せず、佐賀県の田舎から花の東京へ・・・
【青年時代】
俳優専門学校生 (東京/今から40年ほど前)
・俳優修業・・・入学試験は朗読や身体表現だったような…。科目は(うろ覚えだが)、実技=演技、パントマイム、朗読、声楽、体操、日本舞踊、クラシック・モダンダンス、人形劇など。座学=日本語音韻論、演劇・戯曲論など。
これらは小学校教員の仕事上とても有益だった。日本語の発音や標準アクセントについても理論だけでなく実践的に習得したが、大学の教員養成課程ではできない充実した学習だった。
・労働(アルバイト)・・・都内のあちこちの劇場での演劇公演を観るため、親の仕送りだけでは足りず、週に4日ほどは夜を中心にアルバイトをしていた。
銀座のおでん屋、東京八重洲地下の日本料理店、新宿のバー、目白の高級レストランなど夜がほとんど。けっこう報酬が高くて楽しかったのは、テレビ番組の裏方(「歌番組」や「8時だよ全員集合」の舞台装置係。目の前でリハーサルを観れた)。 体力のある学生はもっと報酬の高い「夜間の地下鉄工事」をしていた。
※最後(退学後)のアルバイトは、赤羽にあった「ママレモン(台所用液体洗剤)のプラスティック容器を作る工場」・・・ここは「とても機械的」だった。「容器にラベル部分をかぶせるだけ」の行為を8時間続けた。あまりに単調な労働のためだろうか、終わり近くになると猛烈に人との触れ合いがほしくなり、性的妄想もよくわいてきたことを覚えている。この工場で《体を動かして働く人》はみんなアルバイトだった。
・騒乱とデモ・・・ このころは「70年安保」の時代。まったくの「ノンポリ田舎出身青年」だったが、演劇界はほとんど「左翼」だったので、学校にもいろんな情報が入ってきて、よく野次馬根性で出かけて行った。「新宿騒乱」「神田解放区」「東大安田講堂陥落」…。
自発的に賛同して参加したのは、「べ平連のアメリカ大使館デモ」…車線のたくさんある大きな道路(車道)でみんなと手をつないで歩いた「フランスデモ」はとても楽しかった。大使館前の道路に座り込みをしていたときは「機動隊の鉄のつま先でいつ蹴られるか」、と少し怖かったが無事だった。 新宿地下街の「歌声集会」にもよく出かけてみんなで(だれも知り合いはいないけど)仲良く反戦フォークソングなどを歌っていた。 ~要するに、(私は)けっこうお祭り的な遊び気分だった~
・中退・・・たっぱ(身長)、才能・体力・度胸、コネ、カネがたりない》と思い、中途退学。
(先輩に、卒業して劇団四季に入団した市村正親さんがいた。学生時代、近くのアパート(階段の途中から出入りするような3畳ほどの部屋)にしばらく住んでおられた。ものすごい努力家で、入学歓迎会の舞台で日本舞踊を踊る凛々しい姿が今でも鮮やかによみがえる。)
~次回、大学~
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近所の花:橘(たちばな) なぜか惹かれる鮮やかな色… 2010.9.29撮影