神は我らの避け所、また力

2014-04-04 23:55:06 | Weblog
 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。詩篇46・1。

 昨晩がピークだったとしたら、始まりは3月頭からか。日記を読み返してみるとざっと1ヶ月、徐々に激しさを増す波の間を、ずっと漂っていたのかもしれない。
 8時前に会社を出て、のんびりと桜を尋ねながら歩き続ける。さすがに飲んだりさわいだりするより、一人でいたかったかな(笑)。
 でも何本桜の木を見上げても、一万歩歩いても、一向に気持ちの落ち着くところは見当たらず、いうなれば退避所に乗り上げるようなかたちで一旦思索を止めた。するとまもなく逃げ場となる人の存在を思い出し(この人の事、今の今までまったく思い出さなかった)、だいぶ気持ちが楽になった。そして電車に乗って、あったかい車内で瞬時に眠り、運良く地元の駅で目が覚めて下りて家に着く。今週一週間は仕事もなかなかハードであった。やっとのことで辿り着いた金曜の夜。だいぶ気持ちもリラックスしてきたようだし、今日はよく眠れるかな。。。

桜散っちゃうかなあ

2014-04-04 00:17:29 | Weblog
 思ったより長時間(それもやや土砂降りに)降り続いた今日の雨。
 桜の花びらが地面に張り付いて、そんな水たまりに好んで突っ込んでいきたい願望を満たしてくれるレインブーツには心底感謝している。
 それなのに、つま先に張り付いた花びらを見て、それはもう切ない気持ちになるのだけど。

 自分の中に笑っちゃうほどお人好しな部分があるのと同時に、そんな自分をせせら笑うブラックな汀さんがいることに気づいたのはいつごろだろう。そしていつのまにか人様のきよい(宗教用語で使いますが)部分が息苦しくなるようになったのは何がきっかけだったのだろうか。
 そうやって、親の知らない自分になっていくんだなとぼんやりと思った事は覚えている。(だからというわけではないが、親に秘密をもたない人というのが、否定はしないんだけど、信用できないの。笑) 別に変な意味じゃないからね。
 そんなことを経てから、今度は自分の秘密を明かしてくれる(あるいは明かしたい)という人たちに多く出会うようになった気がする。


 まあ、しょうがないものはしょうがないよね。


 一方でこうした思考の迷走とは別に、この事態を神の視点で眺める信仰者としての自分もいる。これはどういう意味を持っているのか? と。



 なーんてことを考えるべく、明日は歩いて帰れるといいなあ。桜の木の下を。