山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

冷戦に翻弄される「日本の謝罪」

2005年05月16日 | 日本の外交
終戦の年に生まれた赤ん坊が還暦を迎えた今年。日本国内はヨン様ブームに沸き、日韓関係が未来志向で動き始めたと思った矢先に、日本の加害責任を追及する声がにわかに盛り上がった。日本は一体いつまで謝り続けなければならないのか?―多くの日本国民が戸惑ったはずだ。進歩派のニュースキャスター氏にいわせれば、その答えは「いつまでも」ということになるらしい。

戦後60年。同じ敗戦国であるドイツが隣国の許しを得たのに対し、日本はいまだアジアの信認を得られずにいるのは何故か。アジア外交の失敗? 繰り返される失言? 小泉首相の靖国参拝? いや、答えは案外、簡単なところにあるように思う。

ドイツと日本の最大の違いは、要するに、「戦勝国が団結しているか、分裂しているか」という点ではなかろうか。ナチスドイツを負かしたのは英米軍とソ連軍の挟み撃ち。このため戦後のドイツは東西に分断され、西ドイツは英米仏の西側陣営と和解を進め、東ドイツはソ連の支配下にあった。双方にとって「和解すべき相手」はまとまっていたのだ。

(もちろん戦争とは別次元のホロコーストについて「謝罪すべき相手」はユダヤ民族、イスラエルなのであってこちらも一体)

日本はどうか。軍国日本を打ち破ったのは紛れもなく米軍である。しかし日本が戦った相手は中国であり、イギリスであり、フランスであり、オーストラリアであり、そして最後はソ連とも交戦した。アジアの新興国からヨーロッパの帝国主義国、その帝国主義を憎む社会主義国まで、わが敵国のなんと多種多様なことか。

当然、日本が和解すべき相手も多種多様とならざるを得ないのだが、不幸なことに戦後の東西冷戦で、和解すべき相手が分裂してしまった。分断されたドイツと異なり、事実上米国1国の占領下に入った日本は東西いずれかとの和解を余儀なくされた。全面講和か、単独(多数)講和か、国論を二分する論争が起きたことはよく知られている。

結論から言えば、日本政府が最初に許しを請うたのは、米国を中心とする西側陣営であった。いわゆる単独講和である。その後、東南アジア諸国や中国、韓国とも個別に和解を進めたが、これには長い時間がかかった。ソ連(ロシア)とはいまだ平和条約締結に至っていない。

謝罪すべき相手が分裂していることは、絶えず日本の謝罪を「不完全」にしてきた。交戦相手だった中国は大陸(共産党)と台湾(国民党)に、旧植民地の朝鮮半島も南北に分かれて互いに反目していたからだ。どちらか一方との和解を優先すれば、もう一方との和解がなおざりにされる宿命を負ったのだ。

1970年代、日本と中国共産党との間で和解が成立したのは、もちろん田中角栄政権の功績もあるが、国際的背景として、「中ソ対立」が中国を米国に引き寄せたことが大きい。中国が西側陣営に接近すれば、日本と中国との「歴史問題」は消滅する。別の言い方をするなら、日本にとっての「アジアとの和解」は、常に米国の許容した枠内でしか実現できなかったのである。

ソ連が消滅した現在、日本のかつての敵国で、米国と覇権を争う大国は中国だけになってしまった。米中の潜在的競争関係は、いまだ冷戦構造が残るアジア地域において、「中国・北朝鮮」VS「米国・台湾」の対立構図をつくり出している。ノ・ムヒョン政権の韓国が中国グループ入りを明確にした今、注目されるのは「日本の選択」である。

日本は戦後、①米国基軸②国連中心③アジアの一員―を外交の基本方針に掲げてきた。これは言いかえれば①占領軍としての米国②ソ連を含む戦勝国全般③中国を含むアジア被害国―のどことの和解を優先するか、という葛藤の歩みでもあった。

日本が最優先したのは①だったわけだが、その選択は、日本を軍事的に打ち負かしたのが、ソ連でも、中国でもなく、米国であったことを考えれば当然の帰結だったろう。米国から与えられた憲法を忠実に守り、米国の極東戦略から逸脱することなく、日米安保体制に国家の安全を託してきたことは、戦前の単独行動主義に対する「反省とお詫び」を行動で示すことにほかならなかった。

北朝鮮や台湾をめぐり、米国と中国との摩擦が緊迫の度を増す昨今、憲法改正・日米同盟再構築(台湾防衛を含む)・国連安保理常任理入り―を目指す日本の姿勢は、中国でなく米国を選択する決意の表明と受け取られ、そうした姿勢に対して、中世以来の「華夷秩序」を取り戻しつつあるアジア諸国が反発を強めつつある。中韓両国で「歴史問題」が再燃した背景には、戦勝国が分裂したままのアジアの現状が影響している気がしてならない。

「日米同盟の強化」と「中国を中心とする東アジア共同体」の2つは両立し得ない。日本がいずれかの戦勝国に恭順の意を示すことは、もう一方の戦勝国のプライドを傷付けることになるからだ。結局、中韓両国との究極の和解は、日本が米国から離反することを意味する。

しかし(米中対立下での)日本のアジア回帰は、それ自体が「最大の戦勝国」に背を向ける行為であり、ある意味では戦後の「反省」を無に帰する行為とも言えるのだ。冷戦構造に翻弄され続ける戦後日本のジレンマが、そこにはある。
(了)





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5 コメント

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同世代 (山川草一郎)
2005-06-06 14:55:32
tomotch77さん、コメントをありがとうございます。まったくの同世代ですから、先生と呼ばれるのには恐縮します。かなり過大評価されている気もしますが、私の意見に共感して頂ける人がいることは素直に嬉しいです。



「保守系無党派」とはいうものの、どちらかといえば右派ですし、本当のウヨクの方が読めば偽善っぽさが鼻に付くことでしょう。普段、テレビや新聞の話題を周囲と話していても共感を得るのは4人に1人くらいですね。



今31歳でいらっしゃるということは、団塊を親に持ち、少し上の世代の校内暴力やバブル狂乱を仰ぎ見ながら育った「特徴のない世代」ですね。高校時代に日米貿易摩擦、湾岸戦争、冷戦構造の崩壊、細川政権樹立を見聞きし、実は意外と内外の情勢に敏感な世代でもあるはずです。



私も貿易摩擦の時代に、欧米の人種偏見丸だしのニッポン報道を目にして衝撃を受けた一人です。「なぜ私たちの国はこのような扱われ方をするのか」という問題意識を常に持ってきました。一時は若気の至りで反米、反中、嫌韓感情に陥った時期もありましたが、政治学を専攻し過去の戦争への歩みを学ぶうちに、善悪で割りきれない多角的なモノの見方を覚えた気がします。
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前の投稿のお詫び (tomotch77)
2005-06-06 02:45:00
文章を十分推敲せず、『素晴らしい』ばかりの稚拙な文章を投稿し、すみませんでした。

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素晴らしい! (tomotch77)
2005-06-06 02:33:47
 はじめまして、山川先生

 私は栃木県在住の31歳の会社員(技術系)です。

 ネットサーフィン中に山川草一郎ジャーナルを見つけました。まだ幾つかしか読んでいませんが、どれも素晴らしい分析で感激しました。

この『冷戦に翻弄される「日本の謝罪」』のまとめも素晴らしい切れ味だと思います。

 文章も明瞭で素晴らしいと思います。山川先生はきっと素晴らしい論客になられると思います。



 自分は若い頃から各国の文化論に興味があり、最近では中韓との外交摩擦から自分なりに考えるところが多く、同世代で洞察力のある方に出会えないだろうかと思っていました。そんな折、山川先生の洞察に富んだ記事を読み、非常に嬉しくなりました。今後もジャーナルの記事を楽しみにしています。

 

 
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米国の視点 (山川草一郎)
2005-05-29 12:48:37
28日付産経新聞に、日中対立に関するウォールストリート・ジャーナルの社説が紹介されている。それによると、同紙は中国副首相の会談キャンセルなどについて「北京からの間断ない長広舌にもかかわらず、小泉首相が拡張する中華帝国への土下座を拒否していることに対する中国政府部内の不満の高まりの証拠」との見方を提示。



さらに「中国は自国の存在をアジア諸国に認めさせようとしており、台湾と日本がその圧力をまず最初に受けたのだ。もし中国がその方針に固執すれば、他のアジア諸国民もまた横柄な扱いを受けることになる」とも警告しているという。



また29日付産経新聞は、民主党カーター政権で東アジア・太平洋担当の国務次官補を務めたリチャード・ホルブルック氏によるワシントン・ポストへの寄稿文を紹介している。



ホ氏はこの中で、中国の反日デモの背景について「表面的には日本の教科書の第二次世界大戦での日本の残虐行為の誤った提示などに対する抗議とされているが、実際には中国政府は日本の国連安保理常任理事国入りに関して公式言明のいかんにかかわらず、絶対に日本の常任理事国入りは望まないという信号を日本側に送るための手段だったのだ」と論評しているという。

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【補足】90年代の日米中関係 (山川草一郎)
2005-05-27 20:05:23


上記エントリで「中ソ対立による米中接近」という国際政治構造の変化が日中間の歴史問題を一時的に氷解し、1972年の日中共同声明につながったのではないか-という仮説を提示した。これに関連して90年代の米中・日中・日米関係に関する考察を補足しておきたい。



90年代初頭の国際社会は、ソ連解体による冷戦構造の終焉で幕を開けた。当時の中国は89年の天安門事件によって国際社会から孤立しており、当然、米中関係も冷え込んでいた。一方、日米は貿易摩擦をめぐる対立が最高潮にあった。



このような中で93年にクリントン政権が発足する。中国は小平体制(表向きは江沢民体制)、日本は宮沢内閣(91年発足)だった。社会主義市場経済を提唱する小平の下で、中国は米国に関係修復の秋波を送った。



発足当初のクリントン政権は(民主党政権が伝統的にそうであったように)中国国内の人権問題を重視する傾向があったが、開放された中国市場の魅力は米国内の主力企業を引き寄せ、経済最優先のクリントン政権は97‐98年に「米中戦略的パートナーシップ」へ舵を切る。



一方、日本では自民党・宏池会政権が天皇訪中(92年)や経済制裁解除で着々と対中接近を図っていた。細川、村山政権でもこの流れは変わらず、村山談話(95年)、首相訪中(同)で日中友好ムードはピークに達した。この頃の日中関係は、米中の歩みよりが日中友好の基礎であることのもう一つの証左となり得るだろう。



雰囲気が微妙に変化するのは97年に小平が死去し、江沢民が名実ともに実権を握ったあたりからだ。先立つ96年に日本の政権は、村山内閣から橋本内閣に変わっていた。橋本は通産相時代にタフな対米交渉をこなし、首相就任後は「空洞化」が指摘されていた日米安保体制の再定義に意欲を示した。



これに呼応するかのように98年に来日した江沢民は日中共同宣言に、過去の侵略行為に対する日本の謝罪を盛り込むよう求め、両国間に険悪なムードが流れ始めた。99年、ボスニアで米軍機が中国大使館ビルを「誤爆」した事件は、それまでの米中和解ムードを一変させた。中国国内で反米デモが繰り返され、米中のパートナーシップに冷や水を浴びせた。



日米が貿易摩擦という「同盟漂流」時代から、日本経済の「第二の敗戦」を経て、日米安保再構築という新しい時代に入ったタイミングは、米中関係が再び冷却化した時期と重なるのだ。



その後、米国では2001年に共和党のブッシュ氏が大統領に就任。それまでの民主党政権の対中宥和策を一掃するかのように、中国に対して強硬的姿勢を打ち出した。偵察機ニアミス事件は両国の対立の深刻さを浮き彫りにした。



とは言え、2001年の9・11テロ事件後は、国連安保理常任理事国である中国との関係修復がブッシュ政権の課題となった。中国では江沢民が2002年に党総書記、03年に国家主席から退任し、米中は再び協調の時代を迎えたかに見える。



しかし、ブッシュ政権の本音は共産党独裁の中国は打倒されるべき「専制」の一つにカウントされているはずだし、中国側も急速な経済成長によりアジア太平洋での支配権を意識するにつれて、日米両国の妨害を疎ましく思い始めているに違いない。



急速に経済力を付けつつある中国は現在、冷戦時代に西側と東側に分裂していたアジアを「大中華圏」の下に再結集しようと試みている。この要請に答え、韓国は西側から徐々に離れ中華への接近を始めた。台湾でも国民党が共産党との和解に動き出したが、独立志向の強い民進党が政権を握っているため韓国ほどスムーズには進んでいない。



中国が「反国家統一法」を制定したことに対し、米国は中国を牽制するとともに台湾にも自制を求めている。日米同盟の再定義で、日本が台湾防衛の原則を確認したことは、この問題で米国側につくことの意思表明であるから、中国が「日本は戦勝国である我が国に歯向かうつもりか」と怒ったのは当然の結果だろう。



冷戦後の韓国は、米国でなく中国を選択した。中国はアジアの覇者として、同じ選択を日本に要求している。しかし、中国が言論の自由を認めず、人民を弾圧する国家である限りは、日本はこの要求に屈するべきではない。

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