山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

JR脱線事故とマスコミ批判

2005年05月22日 | メディア論
JR福知山線の列車脱線事故から25日で1カ月が経過する。亡くなった方々のご冥福を改めてお祈りしたい。事故直後から連休明けまで続いた洪水のような関連ニュースも、ようやく落ち着きをみせつつある。記者会見でJR西日本幹部を怒鳴りつけた記者に批判が集まった頃から、一連の過剰とも言える報道にもようやくブレーキがかかった気がする。JR西日本の陥った過ちと、大きな事件で飛ばしすぎる日本マスコミの体質は、どこか重なって見えた。

これまでの報道で分かったことは、JR西日本が競合私鉄の多い地域でかなり無理なダイアを編成していたこと。そして少しでも遅れが出た時は乗務員に「日勤教育」と呼ばれる厳しい制裁を科していたらしい、ということだ。

JRが乗務員に厳格な指導をしていたこと自体は責められるべきことではないと思う。乗客の命を預かる鉄道事業者には、厳しすぎるぐらいの業務管理はむしろ当然だろう。問題はその厳しい指導の「目的」だ。

国鉄時代は「安全性確保のため」だった指導教育が、民営化後に「営業利益のため」へと次第にズレていったのではないか。「1秒も遅れない」「1ミリも停車位置を間違えない」といわれた国鉄マンの緻密な動作管理は、すべて「安全性」に対する緊張感によるものだった。

それに比べて今回の事故で明らかになった実態は、「列車の遅れ」に対する過剰なまでの懲罰主義だった。「少しでも安全に客を運ぶため」という教育目的が、いつの間にか「一人でも多く客を運ぶため」にすりかわっていたのだ。それは「間違ったお客様第一主義」といわざるを得ない。

目的を見失ったのはJR西日本だけではなかった。事実を追及するための記者会見の場で社長ら幹部を口汚く罵った記者や、ボーリング大会など事故報道の本筋からはずれた「不適切な事例」(JR西日本)に泳がされたマスコミ各社も、結局はJR西日本と同じ轍を踏んだのではないか。

読売新聞社は、会見で怒鳴っていた大阪本社所属の遊軍記者を「記者モラルから逸脱した」として担当からはずした上で、紙面に同本社社会部長名の「お詫び」を掲載した。会見の様子は、テレビ朝日系「報道ステーション」で垣間見ただけだが、この記者の態度には強い不快感を覚えた。

会見での質問が「詰問調」になってはいけないとは思わないが、その「目的」はあくまで記事に反映されるべき「材料集め」でなくてはならない。返答しようもない非難の言葉を取材対象者に浴びせ、糾弾する行為は「取材」とは呼べないだろう。

この記者の行為について、「テレビで全国放映されるという意識が足りなすぎた」といった指摘が同業者の一部にあったように思うが、私はそうは思わない。「テレビへの無自覚」が原因なら罪は軽い。実際には「テレビカメラに向かって謝れ」といった台詞すらあったようなので、テレビを意識しすぎた結果だったのではないか、と私はみている。

テレビは「感情のメディア」だ。その日の夜の「報道ステーション」では早速、「JR側の態度に記者会見が荒れる場面もありました」との紹介で、ニュース価値があるとは思えない暴言シーンがことさら強調されて報じられた。

かつてこのブログで、年金未納問題に揺れる民主党の菅直人代表に辞任表明を迫ったテレビキャスターたちを「ハイエナ・ジャーナリズム」と表現したことがあったが、今回の罵倒記者も含めて最近のマスコミの報道姿勢に、何かテレビ時代特有の「間違った視聴者第一主義」を感じずにいられない。

確かに、不祥事の記者会見では当事者はなるだけ事実を隠したがるものだ。記者が会見中に厳しく追及するのは必要悪の面もあるだろう。場合によっては「責任ある地位の者を呼ばないと話が進まない」ということもあるのかも知れない。

ただ、そうした取材テクニックや交渉風景を視聴者にアピールする必要はまったくない。会見を中断して詰め寄ればいいだけの話だ。カメラの前で相手の人格を否定するような発言を繰り返す行為は、ただの「リンチ」でしかない。劇場化した記者会見を、本来の「取材」目的の場に戻すにはどうすればいいのか。難しい問題だ。

今回の事故では、「列車の遅れに関する乗客の苦情に行き過ぎはなかったか?」という重要な問題提起もなされた。過剰な競争主義、過剰な顧客サービスが事故の背景にあったとするならば、安全第一の鉄道業者に「競争原理」や「サービス向上」を求める昨今の風潮も考え直すべきかも知れない。

報道についても同じことが言える。メディア企業に「裏付けに基づいた慎重な報道」を求めるならば、電気やガス事業者と同様にある程度の「寡占」を認めるのは致し方ない。新規参入を拒む既存メディアの排他性を批判し、メディア間の競争をよしとする風潮は、この考え方と矛盾するだろう。

いささか誇張された「記者クラブ批判」によって、今のマスコミには競争がないといったイメージが流布されているが、実際は正反対だ。このブログでも何度か書いてきたが、通信社が十分に機能していない日本のメディア業界は、明らかに過当競争状態にある。

戸別配達と再販制度によって新聞社の経営が安定していた頃は、問題視されるのはもっぱら視聴率競争に明け暮れるテレビ局だけだったが、今は違う。新聞社もインターネットの速報合戦で読者を奪い合う時代だからだ。

今回は事故直後から、「事故調査委員会が正式発表する前に、予断を含んだ原因報道を流すのは控えるべきだ」といった声がネット上を中心によく聞かれた。成熟した意見だと思う。ただし、事故原因につながるファクトの発見が、事故直後の読者にとって非常に関心の高い「ニュース」であることもまた否定のしようのない事実だ。

読者がそれを無意識に求めている以上、「抜いた」「抜かれた」の報道合戦になるのは避けられない。これもまた、過剰な競争主義、過剰な顧客サービスの一例と言えるかも知れない。(と言って記者クラブで正式発表を待つのもいかがかとは思うから、この問題も簡単ではない)

JR福知山線の脱線事件は、大きな宿題を我々に突き付けたと思う。JR西日本には利益優先の企業体質の改善が求められている。イジメにも似た陰湿な日勤教育や減給による制裁などはなくすべきだし、ATS設置の基準も大幅に見直すべきだろう。一方、大事故を報じるマスコミ各社には、大事故だからこそ抑制を効かせた「冷静な報道」を心がけてもらいたい。

市民から厳しい批判を浴びている既存メディアは現在、最大のピンチに直面している。戦後の日本社会に自衛権さえ否定する「軍事アレルギー」が長く蔓延したように、しばらくは必要不可欠な取材でさえも批判する「報道アレルギー」にさらされることだろう。しかし、既存メディア各社は、そしてそこに属する一人ひとりの記者には、このピンチを変革に向けたチャンスと捉えて、前向きに立ち向かってほしい。

10年前に永田町を襲った深刻な「政治不信」は、少しずつ政治家の意識を変え、利益誘導と猟官運動しか頭になかった政治屋たちはやがて淘汰された。同じように「何を、どう報じるべきか」を見失った現代の既存マスメディアには今、「意識改革」が求められている。事の本質を見失わない「冷静な報道」が当たり前になるまで、市民からのこの逆風がやむことはないだろう。(了)




最新の画像もっと見る