山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

義和団事変と反日デモ

2005年04月14日 | 日本の外交
北京の日本大使館を取り囲む民衆。罵声を浴びせながらの投石で、窓ガラスが割られる。先週末に中国で起きた「反日デモ」と呼ばれる暴動をみていて、歴史の授業で習った「義和団事変」を思い出した。インターネットで義和団事変について調べたところ、その類似性に驚いた。

義和団は、清朝中期に山東省に生まれた宗教的秘密結社。19世紀末以降の門戸開放で外国人宣教師が入国したことに反発し、「扶清滅洋」(清国をたすけ、西洋を滅ぼせ)をスローガンに排外活動を行った。清朝の守旧派は彼らの行動を支持したため、西洋商店を襲撃するなどその行動はエスカレートしていった。

欧米諸国は清朝政府に鎮圧を要請したが、事実上の最高権力者西太后は義和団側を擁護し、逆に欧米列国に宣戦布告。政府の公認を取りつけた義和団は北京に侵入し、各国大公使館を包囲攻撃、日独の外交官を殺害した。これに対し、日・米・独・英・仏・露など8カ国は北京に兵隊を送り、包囲から55日目に各国公使館は開放された。1900年の話である。

義和団事変は、経済的に苦しい立場にあった民衆が「日ごろの不満を外国人排斥運動として爆発させ、清朝が尻馬に乗ったものという見方が一般的」(フリー百科事典『ウィキペディア』)とされる。この暴動が欧米諸国の圧倒的な武力によって鎮圧されると「特に知識を持った人々の多くは、新たな不満の対象として、侵略から国を守ることができない清朝自身に向かうようになった」(同)という。辛亥革命(1911年)の遠因になったという見方もある。

義和団事変の起きる30年ほど前から、清朝政府は「洋務運動」と呼ばれる「上からの近代化」を推進し、西洋に負けない国家をつくろうとしていた。ただし、この近代化運動の目的は、短期間で西洋の近代科学技術を取り入れ、欧米列強に対抗できる軍事力・経済力を育成することにあり、合理的な近代思想そのものの受け入れを意味しなかった。西洋風の制度を取り入れても、心は儒教思想に縛られたままだったのだ。

ちょうどそれは、現在の中国共産党政権が「社会主義市場経済」を唱えているのに似ている。現在の中国は、資本主義を形だけ取り入れながらも、その基盤となる民主政や自由競争、報道の自由などの受け入れは拒否したままだ。「コペルニクス的転換がなければ、このまま経済成長を持続するのは不可能」(小沢一郎氏)という見方は根強い。

一方で、「中国はもはや社会主義国でない。冷戦時代の発想から抜け出し、米国よりも中国との連携に舵を切るべきだ」と説く人たちもいる。もちろん、現在の中国の市場経済化が、清朝の洋務運動と同じように「外見だけの改革」であったとしても、いったん権力が改革に手を付けた以上、さらなる解放を求める民衆のエネルギーを抑えることは困難だ。

ありあまった民衆のパワーは「排外主義」として加速し、やがて自らの政権に向かうだろう。義和団事変から辛亥革命までは、わずか10年。歴史は常に何かを示唆している。(了)



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