聖書カルタ 「イエス様の44言」 読み札・絵札

聖書トランプ 
週一の追記予定です。

ハート 10

2012年01月15日 | 政治
ヘロデヤ Herodias ヘロディア Herodias
サロメの母です。こんなご褒美を、母のところまでお盆の上に載せて運ばねばならなかったサロメはいい迷惑?。

 マタイ14:3-12【実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕らえて縛り、牢に入れたのであった。それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です」と言い張ったからである。ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」
王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。
それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。】

ハート 7

2011年12月11日 | 政治
 妻と書いてありますから、未亡人ではないと思います。現代でも、女性大統領、女性大臣など、夫が妻の能力を理解して、援助している。ヨハンナもそんな女性だったかもしれません。
 ルカ8:1-3【その後、イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。十二弟子もお供をした。また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、自分の財産をもって彼らに仕えているヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか大ぜいの女たちもいっしょであった。】

スペード10

2011年09月02日 | 政治

 「つまみ食い」「スーパーマーケットの試食」、やっぱり王さまにはふさわしいとは言い難いですね。

マタイの福音書12:1-6
 【そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。】

スペード9

2011年08月16日 | 政治


  「スカウトに、声をかけられ、ほいほいとついていく。」いまどきの、女子高生の話ではありません。いい大人です。いやそ
れ以上。ローマ人の支配しているイスラエルの国にあっては、同邦に「裏切り者」と呼ばれても、支配国のローマのため税金を集め、財産を蓄える生き方をしていたと考えられます。そんなマタイがイエスに従いました。   
マタイの福音書9:9-13
 【イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」】

ピリピ

2010年11月14日 | 政治
 ノーベル平和賞を調べてみると、ここ20年あまりに、受賞した人の、約3割が投獄・追放・軟禁などの経験のある人です。ノーベル賞を受けた後も、投獄・軟禁などの状態になっている人もいます。
 平和を作る人自身は、平和もしくは平安な境遇で無い方が多いのかもしれません。
 ピリピは、エーゲ海の北側に位置し現在のギリシャ共和国の敷地内です。パウロの時代はマケドニアの地域となっていました。
 ピリピ4:11-18【乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。私は、すべての物を受けて満ちあふれています。】