聖書カルタ 「イエス様の44言」 読み札・絵札

聖書トランプ 
週一の追記予定です。

【ゆ】

2008年11月30日 | Weblog
 「『覚えていろよ!』という捨て台詞で、喧嘩相手から離れていく。」アクション系の映画やテレビでよくある場面です。「忘れてください。お願いです。」は、人情ドラマでしょうか。これは、「怨む」→「覚えている」、「赦す」→「忘れる」の例でしょう。“→”であり、“=”ではありません。「覚えている」→「愛し続けている」、「忘れる」→「気にしていない」というのも、ありですから。
 「殺人事件の被害者家族に、『犯人をどう思いますか?』と、インタビューするテレビリポーターに、『決して赦しません』と答える」これは、期待されたQ&Aの気がします。でも、誤解を恐れずに敢えて言うならば「決して赦しません」と答えた被害者家族は、犯人に対する憎しみという毒々しいものから一生解放されないことになると思います。
 【だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。】

【や】

2008年11月23日 | Weblog
 連立政権の基本でしょうか。同じ政党でも、個々の問題に対してそれぞれの議員が完全一致という訳にはいきません。まして別の政党の連合では、全く反対でなければ、妥協点を見つけ出すことが重要でしょう。理想的には妥協ではなく、リーダーが各々の党派または各々の議員の意見を統一できる説得をすることだと思います。
 お堅い政治の話だけでなく、人づきあいでも適用できますね。友達の多い人は、自分に対してこころよく思っていなくても反旗をひるがえさない人には友情を持つ心の広い人なんですね、きっと。
【そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。】

【も】

2008年11月16日 | Weblog
 最近、「“聴く”というのは、耳プラス目で、しかも目を横にして、さらに心を使って聞くこと」という話を耳にしました。それに倣うと「“聞く“というのは、耳のある羊が羊飼いの声に従って、門を通ること」となります。
 イエスが、よく使ったフレーズに、「聞く耳のある者は聞きなさい」というのがあります。また、旧約聖書から引用して「聞くには聞くが、決して理解せず。見るには見るが、決して認めない」とも、言っています。
 この時ファリサイ派の人々は、“ピンと来る”知恵が足りず、単に“察しが悪い”人たちだったから、なのでしょうか?。理解しようとする気持ちが薄かったから、という気がします。聞いても理解しない場合、見ても認めることをしない場合、門の中に入らない羊と同じです。
 【「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 門から入る者が羊飼いである。 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。】

【め】

2008年11月09日 | Weblog
 パソコンで文章を入力していました。“金子“という名前を打ち込んでいたら、“化猫“と誤変換。知合いの金子さんの顔を思い出しつつ、吹き出しそうになりました。そういえば「化け猫」は、あっても、「化け犬」と言うのは聞きません。「番犬」は、あっても、「番猫」と言うのも聞きません。夜中に目を覚ましているのは、犬より猫の方のような気がしますが、いかがでしょうか。
「猫なで声」は、あっても、「犬なで声」と言うのは聞きません。「負け犬」は、あっても、「負け猫」と言うのは聞きません。米大統領選挙報道を聞いていると、当初からこの言い回しが、選挙前からの宿命のように聞こえていました。ごめんね、ミスターM。
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

【む】

2008年11月02日 | Weblog
 昔の井戸は、人が入って掘っていたので直径90cm以上が普通だったようです。現在はボーリング機で掘るので直径は20cmから40cm程度だそうです。汲み上げるのも昔はつるべ、今は電動ポンプ。これも、直径の小さくて済む理由のひとつでしょう。私の子供のころは、鋳物製の手動ポンプも結構見かけました。
 それにしても、牛が落ちる井戸だと、相当大きな井戸ですね。
 直接関係ないですが、村上春樹の小説に井戸の出てくる小説が「ねじまき鳥クロニクル」でしたっけ。
 ちなみに「安息日」についてはこのブログの8月17日の【に】の項にも書きましたので、ご参照あれ。
 【安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。】