聖書カルタ 「イエス様の44言」 読み札・絵札

聖書トランプ 
週一の追記予定です。

【ク】

2010年03月28日 | 聖書
 復活したイエスは、変装の名人?。
「墓に来たマグダラのマリヤも、テベリヤ湖でのシモン・ペテロも、姿を見・声を聴きながら、イエスであるとわからなかった」と聖書の記事にあります。いつも近くにいたのに、不思議な話です。
 【ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。 ~ (中略) ~  彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。】

【ト】

2010年03月22日 | 歴史
 釘の痕が手首なのは、「手の平だと、体重で肉と皮がちぎれる」というのが理由です。しかし、手の平説も、捨てがたいものがあります。
19世紀までの絵画では、手の平に釘、または傷痕があります。ただし、グーの手や、指を曲げた絵もあります。処刑される人が釘の頭を握るなら肉がちぎれることは無いでしょう。息絶え握力が無くなった後、釘を抜かずとも死体を外すには、好都合だったかもしれません。
 【弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。 ~(中略)~。
 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。  八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」】

【ザ】

2010年03月15日 | 現代社会
 どんなに優れた選手でも全競技・全種目の金メダルというのは無理です。“100m走者としての金メダリストが、マラソンでも金メダリスト“というのは、まずないでしょう。別分野(たとえば、計算スピード)ならなおさらです。ということは、一つの事柄でトップにいたとしても、ひとりの例外もなく劣等感と向き合う必要性があるということになります。
 ザアカイの物語は、短身長劣等感によるゆがんだ人生観を持った男の改心物語だと言われています。
 【それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」】

【バ】

2010年03月09日 | ことば
 ”バル"というのが子供を現わす言葉です。新約聖書の中には、ほかにも、「バルヨナ」(ヨナの子)、「バルナバ」(ナバ=慰め の子)と、何人も登場します。
 ロシア人のミドルネームは、父の名前の変形したものです。英語でもMcで始まるファミリーネームは、子供や子孫を現わす呼び方から来ているようです。
 【彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。】