聖書カルタ 「イエス様の44言」 読み札・絵札

聖書トランプ 
週一の追記予定です。

【ね】

2008年08月31日 | Weblog
「①必要を感じる」→「②願う」→「③祈る」→「④与えられる」。これが、普通のプロセスですよね。①から直接④:願う前から与えられたら便利?かな!?。
はたしてそうでしょうか。「飲みたくなったらお酒、眠たくなったらベッド」ピンクレディーのUFOという歌の一節です。願うことと、祈るまたは頼む(つまり言葉として願いを具体的に声にする)こと、言葉は口に出して完成という面があると思います。UFO状態は、檻に飼われている動物園の動物と同じではないでしょうか。
さらに言えば③と④の間に「待つ」というのがあると、与えられた時の喜びが増し加わるとおもいます。「ワクワク」感です。
【祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。】

【ぬ】

2008年08月25日 | Weblog
 絵は、宝石泥棒になっていますが、羊泥棒のお話です。トラックや大きな運搬具がなければ、羊泥棒は、せいぜい2匹が手いっぱいでしょう。もし、羊をだまして、泥棒を羊飼いと思いこますことができれば、百匹でも盗めるでしょう。でも、だいじょうぶ、羊もそれほどおバカさんではありません。
 世の中、「こんなことでだまされるの?」という詐欺商法で被害を受けているニュースを良く聞きます。羊を見習うべし。
【「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。】

【に】

2008年08月17日 | Weblog
 旧約聖書では、労働禁止という表現方法で、「安息日」が登場します。この「禁止」の解釈に関するのがイエスとファリサイ人たちとの論点です。「癒す行為」は労働か?、ということです。元来、聖書の「禁止」という書き方は、奴隷・子息・被雇用者・家畜までちゃんと休めるようにするためでした。
「どんたく」というサディスティック・ミカ・バンドの曲があります。「♪~ 七日に一日は仕事もお休みさ ~♪」と出てきます。年に一度の福岡どんたくではなく、毎週の日曜の様子の歌です。「どんたく」というのはオランダ語の日曜日Zondag が語源だそうです。
ちなみに、このブログの4月の【え】のコメントにもミカバンドは登場しています。お暇があればさかのぼって、読んでみてください。
【イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。】

【な】

2008年08月10日 | Weblog
 うれし涙ですね。足を濡らせるほどだから、大感激の涙です。女性ならでは、の涙という気がします。喜びの涙が、一番澄んだ涙のように思えます。悲しみの涙では、しょっぱすぎ・・・・、悔し涙は苦みがあって・・・、足を洗うのにふさわしくなかったかも。
【イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」】

【と】

2008年08月04日 | Weblog
 戸を閉めて祈るメリットは、こんな面もあるのではないかと思います。
人に見られているところでは、・・・・・嫌われないように、お行儀よくしていなければならないです。上に立つ人ならば、部下や生徒のてまえ、心使いした言動が必要でしょう。競争社会の中では、足をすくわれないよう、弱みを隠さねばならないでしょう。
戸を閉めてある場所でなら・・・・。騙されたことに、悪態をついたり、鼻くそをほじったり、悔しさに涙を落としたり、などもできるでしょう。昔の失敗や、自分の歩んできた道への憤りや焦燥感もさらけだせます。自分の弱さ、汚さ、悲しみ、苦しみ、などを祈ることに、意義があるといえるのではないでしょうか。
【祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。】