平成25年は伊勢神宮式年遷宮の年にあたります。
筆者は、この式年遷宮については相反する気持ちを持っています。
現在では20年に一度、伊勢神宮に全国の注目が集まる、ということで、好ましい、喜ばしいと思います。
けれども、これは菊池展明氏が著作の中で指摘していましたが、本来天照大神と瀬織津姫が並祭されていたのを、遷宮制度によって、片方の社殿を廃して祭神を抹消しようとする意図のもとに7世紀前後にその形式が決められて、現在もその形が引き継がれている、そのことは受け入れることができません。これは何とか元の形に戻していただきたく思います。
伊勢神宮内宮においては、正宮(しょうぐう)と荒祭宮(あらまつりみや)という形で男神天照大神(筆者註:八代天神ワカヒト様、ウヒルキ様であって、その御子孫である、天火明命やニギハヤヒノ命とは全然異なる神です。男神だからという理由のみで、安易に同一視する方が多いので、要注意です。)と瀬織津姫の並祭は辛うじて保たれています。
けれども、天照大神と瀬織津姫が長年居住されて、政(まつりごと)をされていた伊雑宮では男神天照大神と瀬織津姫並祭は平安時代に廃止され、一つに減らされた本殿には男神天照大神のみ祀られ、そして瀬織津姫の御神体は、近くの佐美長神社の小さな小さな摂社として祀られ、現在に至っている、と推測されます。
以前にも記したとおり、神社において、この2つの同等な規模の社殿での2祭神を並祭する形式が現在も保たれているのは、和歌山市の日前・国懸宮と三重県大紀町の滝原宮・滝原竝宮くらいのものです。
伊勢神宮のホームページでは、滝原宮について、
>両宮とも皇大御神の御魂を奉斎しているのは、
皇大神宮に皇大御神を奉祀し、同別宮荒祭宮に皇大神宮の荒御魂を奉斎する姿の古い形と考えられます。<
http://www.isejingu.or.jp/naigu/naigu2.htm
という表現を通じて、天武天皇以前の伊勢神宮並祭の真実がさりげなく公けにされているのです。
筆者はこの間、見落としていた神仏習合の意味を探っているところですが、次第に分かってきました。
神道が神社が、渡来系によって、そのもとの姿をとどめることが困難と判断された時代、つまり渡来系によってもたらされた仏教によってすべてを覆い尽くされようとしたまさにその一大危機の時に、役行者とその偉業を引き継いだ空海によって、まさにその仏教の中に、日本の神々がお姿を変えて祀られることになっていったのです。
つまり、伊勢神宮の祭神は天照大神が毘沙門天、大日如来として、瀬織津姫が吉祥天、弁財天、また大日如来と不離一体である不動明王、如意輪観音や聖観音十一面観音・荒神(清荒神や麁乱荒神)などの形をとって祀られることによって多くの寺院で、天照大神と瀬織津姫の並祭が守られてきたのです。
役行者はおそらく、毘沙門天と吉祥天、善膩師童子(ぜんにしどうじ)(筆者推定:天忍穂耳命と考えられる)の3本尊によって、ホツマに記される通りの天照大神と瀬織津姫、その御子神である天忍穂耳命の御関係が、渡来系によって消されることに対して守ろうとされたものと思われます。
伊勢祭神は世の守護、人々の守護のために、このようなお姿、お名前の変遷を余儀なくされながらも、その方法を御自ら選択されたのではないかと思えてきます。
というのは、役行者も空海も、通常の人の能力をはるかに超える超能力を持っておられた、としかとらえようがなく、その御生誕とご逝去の場所の意味合いからも(役行者の御生誕地とご逝去地の延長に天照大神・豊受大神の奥都城が位置する。また、空海の御生誕地とご入定地は東西のラインで、そのライン上に天河弁財天と日前宮が位置する。)このお二人は、神そのもの、または神の御使いとしてそのお役目を果たした、と思えるのです、もちろん、神呪寺を開基した丹後の小萩様=後の真名井御前(如意尼)も、ともにそのお役目でご活躍された方であることは疑いようもありません。
神道の神・伊勢の神はその後も神社だけでなく、仏教寺院によってお姿を変えて守られ、神々は、仏教の本尊のお姿をまといながら、この世の中をずっと守ってこられたわけです。
仏教と神道が切り離せないくらい一体化していったその理由がここにあったのです。
ところで天武天皇と伊勢祭神については以前記したことがあります。
以下の記事です。
http://blogs.dion.ne.jp/yakamihakuto/archives/6129060.html
天川村・天川を学ぶ会発行の『天川村ガイドブック』天河大弁財天社の項を読むと、天武天皇のことが記されていました。
>皇位継承事件で窮地に立たされて大海人皇子は、大和朝廷を守護する神々のふるさと吉野を訪れ、天神地祇に勝利を祈願して琴を奏しました。 するとその音に乗って、唐玉緒を纏った天女が現れ、戦勝の祝福を示しました。
この天女は、役行者が弥山山山頂に祀ったとされる弥山大神(筆者註:役行者と六甲山とのかかわりから瀬織津姫と推定)でした。 この喜瑞に力を得た皇子は、壬申の乱に勝利を収め、即位して天武天皇となりました。
その後、天皇はこの天女の加護に報いるため、麓に神殿を造営し、「天の安川の宮」とされました。これが天河大弁財天社の始まりだと伝えられております。この名称「天の安川」が天河の地名の由来となったともいわれております。<
>わが国に仏教が伝わったその揺籃期に、都に一番近い聖なる場所として大峰の信仰が開花し、天河大弁財天社が草創されました。仏教は、天武の昔、政治経済の根幹をなすものでありました。そしてこの天河の地は仏教教理の確立を目指して、優れた僧侶たちが厳しい修練を繰り返す聖地となりました。
以来、天武天皇に始まり、南朝の皇族方など、また、多くの修行者や参拝者を受け入れてきた天河の地は、人を引き付ける独特の霊気があるのではないかと思います。<
天武天皇が実権を掌握していた時は、藤原不比等は身動きができなかったようですが、天武天皇が崩御して後は、男性の天皇の即位が妨げられ、持統天皇を即位させて、不比等の思惑通りに、祭政の一切を掌握していったものと思われます。 伊勢神宮の20年ごとの遷宮も不比等によって創始されたものと筆者は推定します。
記紀の編纂もそうです。
政治と一切を藤原氏に掌握され、祭政は藤原氏と秦氏(秦氏は乙巳の変=大化の改新を契機に政治権力中枢から遠ざけられたものと思われます。蘇我氏は秦氏と推定します。)によって掌握されていた時代が始まったものと思われます。
そのような歴史的背景を踏まえることで、役行者と空海のご活躍の意味がはっきりしてくるのです。