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八上白兎神社Ⅱと全国神話伝承他

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瑞垣平成24年冬季号 223号表紙!

2013-01-20 12:50:00 | 伊勢祭神
 神宮司庁が年に3回発行する「瑞垣」(みずがき)の今号の表紙は、なんと荒祭宮です!








 「祭典は皇大神宮(筆者注:ここで記される皇大神宮とは正宮のことであり、そこには男神天照大神が祀られています。)に続いて行われ、奉幣の儀では勅使も御参向になられる。 また神御衣祭(かんみそさい)に与るのも皇大神宮と当宮のみである。…」

神御衣祭 
http://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/60635065.html
 大御饌について
 「三十種におよぶ品目は皇大神宮と同じで、鄭重なお祭りが行われる。」
 と、裏表紙の解説に記されているように、瀬織津姫を祀る荒祭宮は、男神天照大神と全く同等の扱いです。
 このことからも、正宮の祭神と荒祭宮の祭神が別の神、しかも対等の位置にある御関係であることを、伊勢神宮も分かったうえで祭祀を行っていることがはっきりとわかります。
 伊勢神宮の祭祀の一切を掌握して天照大神を女神としようとした秦氏も藤原氏も、伊勢神宮においては彼らの思惑が完全には果たされなかったということです。
 ですから、社殿が並列されていた元の形をとどめていないとはいえ、伊勢神宮では、男神天照大神とその妃神、瀬織津姫がともに祭祀され続けてきているのです。
 
 




金光明最勝王経

2013-01-14 12:49:00 | 伊勢祭神
金光明最勝王経についてはウィキペディアにエッセンスが記されています。 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%85%89%E6%98%8E%E7%B5%8C
>主な内容としては、空の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる。

 この内容からも、当時神仏習合が、伊勢祭神、就中、天照大神と瀬織津姫を守るためになされたものであることがはっきりとわかります。

 
そしてこちらのサイトには、金光明最勝王経のわかりやすい解説が紹介されています。

金光明最勝王経
http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/nob/konkomyokyo.htm

>四天王観察人天品第11
 ここで四天王が登場し、この経典が護国の経典であることを述べる。多聞天王・持国天王・増長天王・廣目天王の四天王が、世尊に対してこの経典を護持する国の国王や人民を守ることを誓う、という形式である。<
 

>大弁才天女品第15の1
 弁才天が「洗浴の法」を説く。まず32の香薬を混ぜ搗いて香抹をつくる。その香薬の第一が菖蒲である。菖蒲湯を連想する。壇を築き、荘厳し、「前の香抹を用いて湯に和し」呪をとなえながら「身を洗浴せよ」。
 この品も非常に具体的で、分かりやすく、親しみやすい。
 橋陳如[正しくは、“橋”でなく、りっしん偏]婆羅門による、弁才天の賛嘆。それに応えて弁才天の頌。再び婆羅門の頌。この頌のなかに「天女は最勝にして過ぐるものなし」がある。再々、婆羅門の頌。このなかには「われ、いま、最勝者を讃歎す」という語句がある<

>大吉祥天女品第16
 大吉祥天女が立って、次のように言う。「人のためにこの金光明最勝王経を解説する」ものがあれば、その法師を恭敬する。飲食、衣服などが乏しいことのないようにする、云々。そのあと頌もある。
 仏は「功徳、尽くるなからん」と、吉祥天女を讃める。

大吉祥天女増長財物品第17
 吉祥天女像を掲げ、荘厳した浄室で、仏名とこの経の名号を称える。すると、「その宅中の財穀をして増長せしめんとす」このことを、吉祥天女自身がのべる。
 この露骨な「増長」法はすごい。現世利益そのもといっていい。増長天など、「増長」という語を時に見かけるが、その意味を初めて知った。富や財宝を増長する、という意味なのだ。
 「像」を掲げる、とはっきり言っているところは、「まさに我が像を画き、種々の瓔珞もて周匝荘厳すべし」となっている。<
 
 確かに、現姓利益肯定の内容が記されています。 






天川に天照大神男神像が!

2013-01-10 12:47:00 | 伊勢祭神
 天川村発行の天川村ガイドブックにはさらに、驚くべきことが記されていました。 天川村の洞川(どろがわ)には洞川八幡宮があります。

 >この八幡宮は、天智天皇六年(667)役の小角が大峯山入峰にあたり守護と祈誓成就のため祭祀したと伝えられている。それ以来、洞川の氏神さまとして宮参りや厄年参りなど永く人々に親しまれてきている。
社殿の近くには、樹齢千年をこえる杉やケヤキの大木がみられる。10月の秋期大祭は、神輿や餅まき、奉納演芸などでたいへん賑わいとなる。―社頭の説明板より―<

 そしてここには三体の御神像が保存されているそうです。
 
 ガイドブック一四ページには>神像は三躯あり各々曲物容器に収められていますが、各々像容及び造形手法が相違しているから、もとより当初から三躰一具であったものではなく、尊名も確定できません。 ◎男神像  藤原中期県指定重文その一「天照皇大神」桧材一木彫り(像高25,7cm)◎男神像。藤原中期その二「八幡大神」桧材彫り(像高19,4cm) ◎男神像 室町中期その三「熊野大神」曲げ物に墨書(像高25,1cm)<
 とあります。

 ネットで検索したのですが、これらの像は公開されていないようです。けれども、皇室と非常に御縁のある天川村に男神の天照大神の像が保存されていることには、大きな意義があります。 

 奈良の寺社
http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2010/07/post-7936.html


 大和文化研究 に掲載されているようです。
第9巻 10号   通巻 第78号   1964年10月5日
  図版 男神像 吉野洞川八幡宮
http://homepage3.nifty.com/shunju-bunko/yamato/yamato.html

天武天皇と瀬織津姫

2013-01-04 10:03:00 | 伊勢祭神
  平成25年は伊勢神宮式年遷宮の年にあたります。 
 筆者は、この式年遷宮については相反する気持ちを持っています。
 現在では20年に一度、伊勢神宮に全国の注目が集まる、ということで、好ましい、喜ばしいと思います。 
 けれども、これは菊池展明氏が著作の中で指摘していましたが、本来天照大神と瀬織津姫が並祭されていたのを、遷宮制度によって、片方の社殿を廃して祭神を抹消しようとする意図のもとに7世紀前後にその形式が決められて、現在もその形が引き継がれている、そのことは受け入れることができません。これは何とか元の形に戻していただきたく思います。
 
伊勢神宮内宮においては、正宮(しょうぐう)と荒祭宮(あらまつりみや)という形で男神天照大神(筆者註:八代天神ワカヒト様、ウヒルキ様であって、その御子孫である、天火明命やニギハヤヒノ命とは全然異なる神です。男神だからという理由のみで、安易に同一視する方が多いので、要注意です。)と瀬織津姫の並祭は辛うじて保たれています。
 けれども、天照大神と瀬織津姫が長年居住されて、政(まつりごと)をされていた伊雑宮では男神天照大神と瀬織津姫並祭は平安時代に廃止され、一つに減らされた本殿には男神天照大神のみ祀られ、そして瀬織津姫の御神体は、近くの佐美長神社の小さな小さな摂社として祀られ、現在に至っている、と推測されます。 
 
 以前にも記したとおり、神社において、この2つの同等な規模の社殿での2祭神を並祭する形式が現在も保たれているのは、和歌山市の日前・国懸宮と三重県大紀町の滝原宮・滝原竝宮くらいのものです。
 伊勢神宮のホームページでは、滝原宮について、
>両宮とも皇大御神の御魂を奉斎しているのは、皇大神宮に皇大御神を奉祀し、同別宮荒祭宮に皇大神宮の荒御魂を奉斎する姿の古い形と考えられます。<
http://www.isejingu.or.jp/naigu/naigu2.htm

 という表現を通じて、天武天皇以前の伊勢神宮並祭の真実がさりげなく公けにされているのです。

 筆者はこの間、見落としていた神仏習合の意味を探っているところですが、次第に分かってきました。
 神道が神社が、渡来系によって、そのもとの姿をとどめることが困難と判断された時代、つまり渡来系によってもたらされた仏教によってすべてを覆い尽くされようとしたまさにその一大危機の時に、役行者とその偉業を引き継いだ空海によって、まさにその仏教の中に、日本の神々がお姿を変えて祀られることになっていったのです。
 つまり、伊勢神宮の祭神は天照大神が毘沙門天、大日如来として、瀬織津姫が吉祥天、弁財天、また大日如来と不離一体である不動明王、如意輪観音や聖観音十一面観音・荒神(清荒神や麁乱荒神)などの形をとって祀られることによって多くの寺院で、天照大神と瀬織津姫の並祭が守られてきたのです。
 役行者はおそらく、毘沙門天と吉祥天、善膩師童子(ぜんにしどうじ)(筆者推定:天忍穂耳命と考えられる)の3本尊によって、ホツマに記される通りの天照大神と瀬織津姫、その御子神である天忍穂耳命の御関係が、渡来系によって消されることに対して守ろうとされたものと思われます。
 伊勢祭神は世の守護、人々の守護のために、このようなお姿、お名前の変遷を余儀なくされながらも、その方法を御自ら選択されたのではないかと思えてきます。
 というのは、役行者も空海も、通常の人の能力をはるかに超える超能力を持っておられた、としかとらえようがなく、その御生誕とご逝去の場所の意味合いからも(役行者の御生誕地とご逝去地の延長に天照大神・豊受大神の奥都城が位置する。また、空海の御生誕地とご入定地は東西のラインで、そのライン上に天河弁財天と日前宮が位置する。)このお二人は、神そのもの、または神の御使いとしてそのお役目を果たした、と思えるのです、もちろん、神呪寺を開基した丹後の小萩様=後の真名井御前(如意尼)も、ともにそのお役目でご活躍された方であることは疑いようもありません。
 神道の神・伊勢の神はその後も神社だけでなく、仏教寺院によってお姿を変えて守られ、神々は、仏教の本尊のお姿をまといながら、この世の中をずっと守ってこられたわけです。
 仏教と神道が切り離せないくらい一体化していったその理由がここにあったのです。


 ところで天武天皇と伊勢祭神については以前記したことがあります。
以下の記事です。

 http://blogs.dion.ne.jp/yakamihakuto/archives/6129060.html


 天川村・天川を学ぶ会発行の『天川村ガイドブック』天河大弁財天社の項を読むと、天武天皇のことが記されていました。

 >皇位継承事件で窮地に立たされて大海人皇子は、大和朝廷を守護する神々のふるさと吉野を訪れ、天神地祇に勝利を祈願して琴を奏しました。 するとその音に乗って、唐玉緒を纏った天女が現れ、戦勝の祝福を示しました。  
この天女は、役行者が弥山山山頂に祀ったとされる弥山大神(筆者註:役行者と六甲山とのかかわりから瀬織津姫と推定)でした。 この喜瑞に力を得た皇子は、壬申の乱に勝利を収め、即位して天武天皇となりました。 
 その後、天皇はこの天女の加護に報いるため、麓に神殿を造営し、「天の安川の宮」とされました。これが天河大弁財天社の始まりだと伝えられております。この名称「天の安川」が天河の地名の由来となったともいわれております。<

>わが国に仏教が伝わったその揺籃期に、都に一番近い聖なる場所として大峰の信仰が開花し、天河大弁財天社が草創されました。仏教は、天武の昔、政治経済の根幹をなすものでありました。そしてこの天河の地は仏教教理の確立を目指して、優れた僧侶たちが厳しい修練を繰り返す聖地となりました。 
 以来、天武天皇に始まり、南朝の皇族方など、また、多くの修行者や参拝者を受け入れてきた天河の地は、人を引き付ける独特の霊気があるのではないかと思います。<
 
 天武天皇が実権を掌握していた時は、藤原不比等は身動きができなかったようですが、天武天皇が崩御して後は、男性の天皇の即位が妨げられ、持統天皇を即位させて、不比等の思惑通りに、祭政の一切を掌握していったものと思われます。 伊勢神宮の20年ごとの遷宮も不比等によって創始されたものと筆者は推定します。
 記紀の編纂もそうです。
 政治と一切を藤原氏に掌握され、祭政は藤原氏と秦氏(秦氏は乙巳の変=大化の改新を契機に政治権力中枢から遠ざけられたものと思われます。蘇我氏は秦氏と推定します。)によって掌握されていた時代が始まったものと思われます。
 そのような歴史的背景を踏まえることで、役行者と空海のご活躍の意味がはっきりしてくるのです。

 
 

三十番神像

2012-12-20 08:16:00 | 伊勢祭神
 三十番神
 ウィキペディアより。

>三十番神(さんじゅうばんしん)は、神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことである。太陰太陽暦では月の日数は29日か30日である。

 最澄(伝教大師)が比叡山に祀ったのが最初とされ、鎌倉時代には盛んに信仰されるようになった。中世以降は特に日蓮宗・法華宗(法華神道)で重視され、法華経守護の神(諸天善神)とされた。これは、京都に日蓮宗を布教しようとした日像が、布教のために比叡山の三十番神を取り入れたためである。また、吉田神道も天台宗・日蓮宗とは別の三十番神として「天地擁護の三十番神」「王城守護の三十番神」「吾国守護の三十番神」などを唱えた。吉田兼倶は三十番神信仰が吉田神道から発すると主張した。1868年、神仏分離のため、明治政府によって配祠を禁じられた。<

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E7%95%AA%E7%A5%9E

 そして埼玉県蕨市(わらびし)ホームページには春日神社木造三十番神立像がすべて紹介されています。 

 そこでは、廣田大明神が男神として、天照大神が女神としてお姿が刻まれています。
 http://www.city.warabi.saitama.jp/hp/page000001400/hpg000001381.htm

広田大明神が男性として描かれるのは、これに限りません。http://tobifudo.jp/butuzo/30bansin/03.html

http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/HIROTA.html

http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/image/30banshin/03.jpg

 こちらでは廣田大明神は弁天さんのお姿です。
http://gyokurenzan.shinjoji.nichiren-shu.jp/introduction/sanjuban.htm#id03