今回の伊勢参宮では、とにかく参宮客の多さに驚きました。いつもなら外宮(げくう)の駐車場は入ってすぐに空きがあるのですが、このたびはぎっしり。ワンちゃん2匹を、守衛所に預けて、手水で手を洗い、口を濯いだ後、いざ正殿へ。すると敷地内の賽銭入れのある白い垂れ幕の前も、参拝を、列を成して待つ人でいっぱいでした。
続くいつものコースの多賀宮でも順番待ち、その下手にある下御井神社も、普段はそこで手を合わせる人もあまり見かけないのですが、今回は列を成して順番待ちで、後の待ち人のために参拝も手短に済ませるというパターンとなりました。震災復興を第一に願いましたが、今回の参宮客もほとんどの方が、願いの一つに入れていたのだろうと思います。
そして、内宮へ。こちらは、参宮客は特におかげ横丁ができて以降だと思いますが、いつきても多いようです。やはり守衛所で、ワンちゃんを預けましたが、ちょっと順番待ち。5分ほど待って、無事に預けることができ、いつものとおり宇治橋を渡って正殿へ。ここもやはり普段よりは明らかに人手が多かったようです。
荒祭宮のお札を頂戴して、参宮を終えました。
筆者は単独で、宇治橋を渡る前に、以前から気になっていた饗土橋姫神社へ参拝しました。
京都府宇治市の宇治橋と橋姫神社、そして伊勢の内宮、宇治にかかる宇治橋、とかつてはそのすぐとなりに鎮座していた橋の守り神、饗土橋姫神社。
この関係が気になるところです。
京都府宇治市については以前も記しましたが、藤原氏の拠点として開発されたところで、有名な平等院もあります。宇治は元々、菟道(うじ)だったようで、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とも縁があります。菟道稚郎子は応神天皇の御子ですが、応神天皇は因幡・霊石山へ行宮され、そこで和歌を詠まれたという伝承もあり、因幡・八上ともつながってきます。
鳥取県八頭町門尾青龍寺の城光寺縁起には、応神天皇御製
因幡なる神の神子石験あらは
過行人の道しるへせよ
因幡なる神の御冠岩(みこいわ)験(しるし)あらば
過ぎ行く人の道しるべせよ
が伝わっていることが記されています。
菟道稚郎子は兎に導かれて、現在世界遺産に指定されている宇治上神社、かつての菟道宮まで案内された、という伝承があります。今も菟道と書いて「とどう」と読む地名があります。
このように伝説に登場する兎は、良き所へ案内することが多いようです。山形県の白兎もそのような話だったと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%9F%E9%81%93%E7%A8%9A%E9%83%8E%E5%AD%90
流れの速い宇治川にかかる宇治橋。かつてはその橋の中央に瀬織津姫を祭神とする橋姫神社が鎮座していたそうですが、当然、急流で洪水が起こりやすいこの川は何度も流されています。
現在は橋の上から橋の脇に遷座していますが、かつては、事実上「人身御供」のような状態で危険に晒されながら橋を守った瀬織津姫を祀る橋姫神社です。
一方、伊勢の宇治に関しては諸説ありますが、内(うち)から宇治になったもので、直接京都の宇治とは関係があるのかないのかなんともいえません。
かつては五十鈴川には橋はかかっておらず、人々は流れの緩やかな川を禊(みそぎ)しながら渡っていた、あるいは渡るための石が並べられて、そこを渡る時代もあったといわれます。しかし、それでは大雨の増水のために渡れなくなることもあり、やがて橋がかけられるようになったようです。それが文献で確認できる初出が12世紀ごろだそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%A9%8B_(%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B8%82)
この饗土橋姫神社の創建もほぼ宇治橋が架けられるようになった平安時代より後、鎌倉か室町時代と考えられます。文献にはじめて記されるのは室町時代になってからのようですが、かつては大橋橋姫御前社、と呼ばれていたようです。饗土はそのあたりの地名です。
式年遷宮のホームページに
>「饗土」とは、疫神や悪霊を防ぐ道饗の祭をおこなう場所を意味する。<とあります。
http://www.sengu.info/ycBBS/Board.cgi/005/db/ycDB_sengunews-pc-view.html?mode:view=1&view:oid=150
橋姫はおそらく瀬織津姫を示すと思われます。ただし、藤原氏の本拠、京都の宇治のように橋の上に祀られることはありませんでした。また、宇治の橋姫のように丑の刻参りやおどろおどろしい女性の怨念話、妖怪話とは全く縁がありません。
橋姫が祀られているのは他に、滋賀県、瀬田の唐橋と大阪の長柄橋(神社は現存せず)があるようです。
http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/shinto-shu/files/38.html
神宮司庁発行みずがき第211号宇治橋特集号、神宮宮掌 音羽悟氏の「饗土橋姫神社について」によれば、かつての鎮座地は、よく記念撮影をするところ、つまり宇治橋のすぐ手前、鳥居の立つ地点から松の植え込みのある辺りであったようです。しかも、松ではなく二株の桜の木であったと記されています。当初は社殿ではなく、道祖神を祀るようなスタイルではなかったかと指摘しています。当然参宮客もここで、いよいよ内宮へと向かう直前にそこで無事にたどり着けた、あるいは無事に参宮できたことの感謝の祈りを捧げていたものと思われます。
今では、宇治橋から約200メートルも離れたはずれにあるので、その存在すらほとんど知られていません。かく言う筆者も、今回初めての参拝をさせていただいた次第です。
音羽氏の論文には、「現在の宇治橋の形状に似た大橋が落成したのは、『河崎氏年代記』が記す将軍足利義教が寄進のうえ参宮した永享六年(1435)とされます。一方(荒木田)守良は『神宮典略』において、山城国(京都府)宇治橋の橋姫明神に倣い寛正7年(1467)三月の将軍足利義教参宮に併せ、饗土の地に橋姫神社が創建されたと解説しており、確かに『氏経卿神事記』にも将軍参宮の関連記事が見られます。」とあります。
ここにおいて同名の京都の宇治橋にちなんで橋姫明神を祀るようになったことが明らかとなります。荒木田氏は内宮の神事を司る社家の禰宜です。即ち、持統天皇ー藤原不比等の時代に強引に社家変更、つまりそれ以前内宮・外宮両宮の神事を司っていた渡会氏を内宮から突然追放して、外宮のみの社家にして以来、内宮の祭祀権を独占した藤原氏の意向に沿った荒木田氏です。
同じ祭神を祀ってはいますが、一方は妖怪・怨霊の一面を持つ守り神、一方は、疫神や悪霊を防ぎ、聖なる地内宮に通じる橋の守り神、伊勢の本拠では京都の宇治のような、荒唐無稽な祭神への中傷は当然許されざるものです。
これが同一の神を祀りながらも、そのイメージが全く異なってしまう理由でしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB%E7%A5%9E%E7%A4%BE
続くいつものコースの多賀宮でも順番待ち、その下手にある下御井神社も、普段はそこで手を合わせる人もあまり見かけないのですが、今回は列を成して順番待ちで、後の待ち人のために参拝も手短に済ませるというパターンとなりました。震災復興を第一に願いましたが、今回の参宮客もほとんどの方が、願いの一つに入れていたのだろうと思います。
そして、内宮へ。こちらは、参宮客は特におかげ横丁ができて以降だと思いますが、いつきても多いようです。やはり守衛所で、ワンちゃんを預けましたが、ちょっと順番待ち。5分ほど待って、無事に預けることができ、いつものとおり宇治橋を渡って正殿へ。ここもやはり普段よりは明らかに人手が多かったようです。
荒祭宮のお札を頂戴して、参宮を終えました。
筆者は単独で、宇治橋を渡る前に、以前から気になっていた饗土橋姫神社へ参拝しました。
京都府宇治市の宇治橋と橋姫神社、そして伊勢の内宮、宇治にかかる宇治橋、とかつてはそのすぐとなりに鎮座していた橋の守り神、饗土橋姫神社。
この関係が気になるところです。
京都府宇治市については以前も記しましたが、藤原氏の拠点として開発されたところで、有名な平等院もあります。宇治は元々、菟道(うじ)だったようで、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とも縁があります。菟道稚郎子は応神天皇の御子ですが、応神天皇は因幡・霊石山へ行宮され、そこで和歌を詠まれたという伝承もあり、因幡・八上ともつながってきます。
鳥取県八頭町門尾青龍寺の城光寺縁起には、応神天皇御製
因幡なる神の神子石験あらは
過行人の道しるへせよ
因幡なる神の御冠岩(みこいわ)験(しるし)あらば
過ぎ行く人の道しるべせよ
が伝わっていることが記されています。
菟道稚郎子は兎に導かれて、現在世界遺産に指定されている宇治上神社、かつての菟道宮まで案内された、という伝承があります。今も菟道と書いて「とどう」と読む地名があります。
このように伝説に登場する兎は、良き所へ案内することが多いようです。山形県の白兎もそのような話だったと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%9F%E9%81%93%E7%A8%9A%E9%83%8E%E5%AD%90
流れの速い宇治川にかかる宇治橋。かつてはその橋の中央に瀬織津姫を祭神とする橋姫神社が鎮座していたそうですが、当然、急流で洪水が起こりやすいこの川は何度も流されています。
現在は橋の上から橋の脇に遷座していますが、かつては、事実上「人身御供」のような状態で危険に晒されながら橋を守った瀬織津姫を祀る橋姫神社です。
一方、伊勢の宇治に関しては諸説ありますが、内(うち)から宇治になったもので、直接京都の宇治とは関係があるのかないのかなんともいえません。
かつては五十鈴川には橋はかかっておらず、人々は流れの緩やかな川を禊(みそぎ)しながら渡っていた、あるいは渡るための石が並べられて、そこを渡る時代もあったといわれます。しかし、それでは大雨の増水のために渡れなくなることもあり、やがて橋がかけられるようになったようです。それが文献で確認できる初出が12世紀ごろだそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%A9%8B_(%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B8%82)
この饗土橋姫神社の創建もほぼ宇治橋が架けられるようになった平安時代より後、鎌倉か室町時代と考えられます。文献にはじめて記されるのは室町時代になってからのようですが、かつては大橋橋姫御前社、と呼ばれていたようです。饗土はそのあたりの地名です。
式年遷宮のホームページに
>「饗土」とは、疫神や悪霊を防ぐ道饗の祭をおこなう場所を意味する。<とあります。
http://www.sengu.info/ycBBS/Board.cgi/005/db/ycDB_sengunews-pc-view.html?mode:view=1&view:oid=150
橋姫はおそらく瀬織津姫を示すと思われます。ただし、藤原氏の本拠、京都の宇治のように橋の上に祀られることはありませんでした。また、宇治の橋姫のように丑の刻参りやおどろおどろしい女性の怨念話、妖怪話とは全く縁がありません。
橋姫が祀られているのは他に、滋賀県、瀬田の唐橋と大阪の長柄橋(神社は現存せず)があるようです。
http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/shinto-shu/files/38.html
神宮司庁発行みずがき第211号宇治橋特集号、神宮宮掌 音羽悟氏の「饗土橋姫神社について」によれば、かつての鎮座地は、よく記念撮影をするところ、つまり宇治橋のすぐ手前、鳥居の立つ地点から松の植え込みのある辺りであったようです。しかも、松ではなく二株の桜の木であったと記されています。当初は社殿ではなく、道祖神を祀るようなスタイルではなかったかと指摘しています。当然参宮客もここで、いよいよ内宮へと向かう直前にそこで無事にたどり着けた、あるいは無事に参宮できたことの感謝の祈りを捧げていたものと思われます。
今では、宇治橋から約200メートルも離れたはずれにあるので、その存在すらほとんど知られていません。かく言う筆者も、今回初めての参拝をさせていただいた次第です。
音羽氏の論文には、「現在の宇治橋の形状に似た大橋が落成したのは、『河崎氏年代記』が記す将軍足利義教が寄進のうえ参宮した永享六年(1435)とされます。一方(荒木田)守良は『神宮典略』において、山城国(京都府)宇治橋の橋姫明神に倣い寛正7年(1467)三月の将軍足利義教参宮に併せ、饗土の地に橋姫神社が創建されたと解説しており、確かに『氏経卿神事記』にも将軍参宮の関連記事が見られます。」とあります。
ここにおいて同名の京都の宇治橋にちなんで橋姫明神を祀るようになったことが明らかとなります。荒木田氏は内宮の神事を司る社家の禰宜です。即ち、持統天皇ー藤原不比等の時代に強引に社家変更、つまりそれ以前内宮・外宮両宮の神事を司っていた渡会氏を内宮から突然追放して、外宮のみの社家にして以来、内宮の祭祀権を独占した藤原氏の意向に沿った荒木田氏です。
同じ祭神を祀ってはいますが、一方は妖怪・怨霊の一面を持つ守り神、一方は、疫神や悪霊を防ぎ、聖なる地内宮に通じる橋の守り神、伊勢の本拠では京都の宇治のような、荒唐無稽な祭神への中傷は当然許されざるものです。
これが同一の神を祀りながらも、そのイメージが全く異なってしまう理由でしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB%E7%A5%9E%E7%A4%BE