八上白兎神社Ⅱと全国神話伝承他

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饗土橋姫神社

2011-04-30 08:31:00 | 伊勢祭神
  今回の伊勢参宮では、とにかく参宮客の多さに驚きました。いつもなら外宮(げくう)の駐車場は入ってすぐに空きがあるのですが、このたびはぎっしり。ワンちゃん2匹を、守衛所に預けて、手水で手を洗い、口を濯いだ後、いざ正殿へ。すると敷地内の賽銭入れのある白い垂れ幕の前も、参拝を、列を成して待つ人でいっぱいでした。
 続くいつものコースの多賀宮でも順番待ち、その下手にある下御井神社も、普段はそこで手を合わせる人もあまり見かけないのですが、今回は列を成して順番待ちで、後の待ち人のために参拝も手短に済ませるというパターンとなりました。震災復興を第一に願いましたが、今回の参宮客もほとんどの方が、願いの一つに入れていたのだろうと思います。
 そして、内宮へ。こちらは、参宮客は特におかげ横丁ができて以降だと思いますが、いつきても多いようです。やはり守衛所で、ワンちゃんを預けましたが、ちょっと順番待ち。5分ほど待って、無事に預けることができ、いつものとおり宇治橋を渡って正殿へ。ここもやはり普段よりは明らかに人手が多かったようです。
 荒祭宮のお札を頂戴して、参宮を終えました。
 筆者は単独で、宇治橋を渡る前に、以前から気になっていた饗土橋姫神社へ参拝しました。
 京都府宇治市の宇治橋と橋姫神社、そして伊勢の内宮、宇治にかかる宇治橋、とかつてはそのすぐとなりに鎮座していた橋の守り神、饗土橋姫神社。
 この関係が気になるところです。
 京都府宇治市については以前も記しましたが、藤原氏の拠点として開発されたところで、有名な平等院もあります。宇治は元々、菟道(うじ)だったようで、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とも縁があります。菟道稚郎子は応神天皇の御子ですが、応神天皇は因幡・霊石山へ行宮され、そこで和歌を詠まれたという伝承もあり、因幡・八上ともつながってきます。
 鳥取県八頭町門尾青龍寺の城光寺縁起には、応神天皇御製
  
  因幡なる神の神子石験あらは
   過行人の道しるへせよ
   
  因幡なる神の御冠岩(みこいわ)験(しるし)あらば
   過ぎ行く人の道しるべせよ
  が伝わっていることが記されています。
 
 菟道稚郎子は兎に導かれて、現在世界遺産に指定されている宇治上神社、かつての菟道宮まで案内された、という伝承があります。今も菟道と書いて「とどう」と読む地名があります。
このように伝説に登場する兎は、良き所へ案内することが多いようです。山形県の白兎もそのような話だったと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%9F%E9%81%93%E7%A8%9A%E9%83%8E%E5%AD%90

 流れの速い宇治川にかかる宇治橋。かつてはその橋の中央に瀬織津姫を祭神とする橋姫神社が鎮座していたそうですが、当然、急流で洪水が起こりやすいこの川は何度も流されています。
 現在は橋の上から橋の脇に遷座していますが、かつては、事実上「人身御供」のような状態で危険に晒されながら橋を守った瀬織津姫を祀る橋姫神社です。 
 一方、伊勢の宇治に関しては諸説ありますが、内(うち)から宇治になったもので、直接京都の宇治とは関係があるのかないのかなんともいえません。
 かつては五十鈴川には橋はかかっておらず、人々は流れの緩やかな川を禊(みそぎ)しながら渡っていた、あるいは渡るための石が並べられて、そこを渡る時代もあったといわれます。しかし、それでは大雨の増水のために渡れなくなることもあり、やがて橋がかけられるようになったようです。それが文献で確認できる初出が12世紀ごろだそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%A9%8B_(%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B8%82)
 この饗土橋姫神社の創建もほぼ宇治橋が架けられるようになった平安時代より後、鎌倉か室町時代と考えられます。文献にはじめて記されるのは室町時代になってからのようですが、かつては大橋橋姫御前社、と呼ばれていたようです。饗土はそのあたりの地名です。
 式年遷宮のホームページに
>「饗土」とは、疫神や悪霊を防ぐ道饗の祭をおこなう場所を意味する。<とあります。
http://www.sengu.info/ycBBS/Board.cgi/005/db/ycDB_sengunews-pc-view.html?mode:view=1&view:oid=150
 橋姫はおそらく瀬織津姫を示すと思われます。ただし、藤原氏の本拠、京都の宇治のように橋の上に祀られることはありませんでした。また、宇治の橋姫のように丑の刻参りやおどろおどろしい女性の怨念話、妖怪話とは全く縁がありません。
 橋姫が祀られているのは他に、滋賀県、瀬田の唐橋と大阪の長柄橋(神社は現存せず)があるようです。
http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/shinto-shu/files/38.html
 神宮司庁発行みずがき第211号宇治橋特集号、神宮宮掌 音羽悟氏の「饗土橋姫神社について」によれば、かつての鎮座地は、よく記念撮影をするところ、つまり宇治橋のすぐ手前、鳥居の立つ地点から松の植え込みのある辺りであったようです。しかも、松ではなく二株の桜の木であったと記されています。当初は社殿ではなく、道祖神を祀るようなスタイルではなかったかと指摘しています。当然参宮客もここで、いよいよ内宮へと向かう直前にそこで無事にたどり着けた、あるいは無事に参宮できたことの感謝の祈りを捧げていたものと思われます。 
 今では、宇治橋から約200メートルも離れたはずれにあるので、その存在すらほとんど知られていません。かく言う筆者も、今回初めての参拝をさせていただいた次第です。
 音羽氏の論文には、「現在の宇治橋の形状に似た大橋が落成したのは、『河崎氏年代記』が記す将軍足利義教が寄進のうえ参宮した永享六年(1435)とされます。一方(荒木田)守良は『神宮典略』において、山城国(京都府)宇治橋の橋姫明神に倣い寛正7年(1467)三月の将軍足利義教参宮に併せ、饗土の地に橋姫神社が創建されたと解説しており、確かに『氏経卿神事記』にも将軍参宮の関連記事が見られます。」とあります。
 ここにおいて同名の京都の宇治橋にちなんで橋姫明神を祀るようになったことが明らかとなります。荒木田氏は内宮の神事を司る社家の禰宜です。即ち、持統天皇ー藤原不比等の時代に強引に社家変更、つまりそれ以前内宮・外宮両宮の神事を司っていた渡会氏を内宮から突然追放して、外宮のみの社家にして以来、内宮の祭祀権を独占した藤原氏の意向に沿った荒木田氏です。
 同じ祭神を祀ってはいますが、一方は妖怪・怨霊の一面を持つ守り神、一方は、疫神や悪霊を防ぎ、聖なる地内宮に通じる橋の守り神、伊勢の本拠では京都の宇治のような、荒唐無稽な祭神への中傷は当然許されざるものです。
 これが同一の神を祀りながらも、そのイメージが全く異なってしまう理由でしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB%E7%A5%9E%E7%A4%BE


伊勢と西宮

2011-04-29 22:50:00 | 伊勢祭神
 伊勢神宮へ参宮してきました。
 西宮から伊勢は、名阪国道を使って行くことが多かったのですが、新名神道路が開通したおかげで、草津から亀山までの走行距離が大幅に縮まり、かなり時間短縮して行けるようになりました。
 とはいえ、GWにつきものの渋滞の影響やちょっとした事故の影響で多少時間はかかりましたが、日帰りで参宮することができました。特に渋滞による追突事故が多いようで、ハザードランプを早めに点灯することはかなり大事です。
 西宮と伊勢は瀬織津姫で縁がありますが、実は神宮に奉納される神酒でも縁があります。西宮の宮水で醸造される辰馬(たつんま)グループ(ここは地元進学校甲陽学院を経営する母体でもあります。辰馬氏は地元の名家で、神功皇后時代よりの歴史を持つ家系です。ちなみに灘校は白鶴酒造が経営母体です。)、白鷹株式会社の『白鷹』(はくたか)は神宮の唯一の御料酒として指定されています。宮水とは西宮の水、即ち祭神天照大神荒御魂を祀る廣田神社=西宮の水、という訳です。宮水発祥の地の碑が建っているところは、偶然にも筆者が元々の廣田神社の鎮座地と推定する高隈原、現在の上ヶ原浄水場の真南に当たります。
http://www.hakutaka.jp/ise/
 宮水は夙川と六甲山系の伏流水だそうですが、甲山も関連があるといえます。

http://kobe-mari.maxs.jp/nishinomiya/miyamizu.htm

 甲山は筆者がすでに紹介したように瀬織津姫を祀る神の山と考えられます。そこを水源とし、かつての海辺付近であった場所に湧き出る宮水が、灘の酒の中でも最も良質の水とされているのです。
 水の神とも言われる瀬織津姫は、神酒となって、甲山、西宮の土地の成分を含んだ神酒となって伊勢神宮に供される、なんと不思議なご縁、御円(サイクル)ではないでしょうか。

 
 さらに酒造の技術者は丹波杜氏であり、八上とも縁のある篠山出身の丹波杜氏が灘の酒を支えたそうです。
http://gogolesson.jugem.jp/?eid=26
 

意味深長な二つ巴

2011-04-28 10:19:00 | 伊勢祭神
 先日参拝した川崎市幸区の天照皇大神の社殿の鰹木です。鰹木の両端には二つ巴の装飾が施されています。
 巴紋はよく神社に用いられます。太鼓にも三つ巴の紋が描かれることもあります。勾玉からきた形とも言われます。水の動きを示すといわれ、防火の意味もあるとも言われます。

 天照皇大神というお社の神紋がこの2つの巴紋からなるということは、筆者には男神天照大神と瀬織津姫神を示しているように思えます。

 鳥取市徳尾に鎮座する大野見宿禰命神社は野見宿禰1神を祀る神社ですが、ここの神紋は珍しい一つ巴紋です。祀られている1祭神を示している、と思われます。
では三つ巴なら3柱の祭神を?という疑問もあるかもしれませんが、そこは不明です。なんとなくこの2つの巴から、1つの巴を想起して、想像したに過ぎません。
 後醍醐天皇の御世においても男神天照大神とその后神瀬織津姫神のご関係は伝わっていたと見るのが妥当でしょう。
 以前紹介したように、鳥取市桜谷の瀬織津姫を主祭神として祀る桜谷神社の本殿に隣接して長慶天皇陵墓といわれる墓所があることも、長慶天皇にもご自身の祖先神としてその関係が伝わっていた一つの証ではないかと思われます。
 

川崎市の天照皇大神

2011-04-21 10:07:00 | 伊勢祭神








http://kaguraden.blog11.fc2.com/blog-entry-6.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7%E7%9A%87%E5%A4%A7%E7%A5%9E_(%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%B8%82)

 川崎市には神社名「天照皇大神あまてらすすめおおみかみ)」という珍しい神社が鎮座しています。(神奈川県川崎市幸区南加瀬1)
 創建、勧請はちょうど後醍醐天皇の隠岐配流、八上へのお立ち寄り、八頭町西御門の大イチョウが植えられた頃です。
 ここはずっと前から参拝したい神社でしたが、やっとその願いを果たすことができました。
 天照大神と瀬織津姫が揃って祀られている由緒ある神社です。
ただし、祭神の撞榊厳魂天疎向津姫命(つきさかきいずのみたまあまさかるむかつひめのみこと)は天照大神の別名、として世間一般にはとらえられているため、社務所の方もそのことにお気づきでなかったようでした。
 時代的な背景としては藤原氏の勢力が弱まった鎌倉時代、伊勢神道が勃興、ある意味では甦った時代に、本来の伊勢の祭神を祀ろうとしたものと思われます。
 
 震災復興、原発問題早期解決などをお祈りしてきました。
 地中のナマズもそろそろおさまってください。