八上白兎神社Ⅱと全国神話伝承他

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八上姫が駅長の道の駅イヴェント!

2014-05-28 14:43:00 | 八上姫
http://www.nnn.co.jp/news/140526/20140526008.html

八上姫の強さ見習おう 道の駅で結婚ヘアショー


 >八上姫(やかみひめ)の“肉食系女子”ぶりを見習おう-。鳥取市河原町高福の道の駅清流茶屋かわはらで25日、地元の女性をモデルにブライダルヘアショーが開かれた。花嫁姿の女性3人が、美容師らの手によって舞台上でヘアセットをチェンジ。観光客らの前で幸せになる決意を高らかに宣言した。
ショーでは美容師らの手によって花嫁姿のモデルのヘアセットが整えられた=25日、鳥取市河原町高福の道の駅清流茶屋かわはら
 八上姫の里にちなんで同施設が取り組む縁結びプロジェクトの一環。神話では八上姫が求婚された八十神(やそがみ)ではなく、自ら大国主命(おおくにぬしのみこと)を結婚相手に選んだと伝わることから「八上姫の肉食系女子的なパワーに倣い、女子から幸せになりたい気持ちを発信しよう」と企画した。

 八頭町や鳥取市在住の女性3人が白無垢(むく)、色打ち掛け、白ドレスに身を包んだ。八上姫を祭る近くの売沼(めぬま)神社で縁結びを祈願した後、道の駅の舞台で美容師らがヘアセットや衣装を整え、3人が赤いカーペット上で「誰よりも幸せになります!」と叫ぶと、会場から拍手が起こった。

 プロデューサーの鳥谷一弘さん(46)は「八上姫のように強くあってほしい。花嫁衣装を着て、結婚や式を挙げることへの気持ちを高めてくれたら」と話していた。<


御香宮神社 瀧祭神

2014-05-18 14:43:00 | 瀬織津姫
 全国に神功皇后所縁の神社は数多くあります。神功皇后は、内憂を治めたヤマトタケの時代の直後、ヤマトタケの御子、仲哀天皇の后で、外患迫る国難の時代とともに、武内宿禰と共に外交交渉を進める大役を担った方です。 
 瀬織津姫の御神霊も神功皇后を導かれ、お力添えをされ、神功皇后もそのご加護を得るために瀬織津姫と関連のあるところへ御足跡を残されていることが、阪神間・近畿地方の伝承などで判明します。
 御香宮神社は神功皇后を主祭神としていますが、相殿に河上大明神、瀧祭神を祀っています。境内には弁財天を祀る摂社も鎮座しています。瀬織津姫の名では祀られていないものの、ともに祀られているのです。

 玄松子氏のサイトに詳しく紹介されています。

http://www.genbu.net/data/yamasiro/gokounomiya_title.htm

 ウィキペディアには、瀧祭神は伊勢神宮内宮に鎮座する神で、>社殿を持たない神社であり、所管社でありながら別宮と同等の祭祀が捧げられる特別な神社である<

 >内宮の所管社30社のうち第1位である。内宮鎮座地を象徴する河川である五十鈴川の水神が祭神であるため、別宮と同様の祭祀が執行される[1]。『宇治山田市史』では

“ 瀧祭神は古来別宮に準じて神饌を供進し奉れる神なれば、特に別宮の次、摂社の上に列せらるゝのである。 ”
と記している[2]。
地域住民からは「おとりつぎさん」として親しまれる[1]。内宮(正宮)に詣でる前に滝祭神を参拝すると、天照大神に願い事を取り次いでくれると言われている[1][3]。
社殿はなく、板垣の内側には神体の石が祀られている[1][3]。社殿がない理由は神宮関係者にも分からず、更に物忌の奉仕まで捧げられることは謎であり、安永4年(1775年)の『大神宮儀式解』でも「深き所以有る故」としか触れられていない[4]。伊勢神宮の摂社・末社・所管社には通例、賽銭箱は置かれていない[5]が、滝祭神には賽銭箱が置かれている。

 と、あります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E7%A5%AD%E7%A5%9E

 社殿を持たない小さな祭祀場でありながらも、荒祭宮に準じる扱いを受けているのは、おそらく、内宮で瀬織津姫の名前を隠さざるを得なくなり、天照大神と瀬織津姫、即ち内宮の2柱の主祭神の一方の祭神を、別の形で厚く祀るようにするためではなかったのでしょうか。

御香宮と向日市の向日神社、島根県日御碕の日御碕神社は一直線で並びます。

ユーチューブ動画もありました。同じような名前の方がアップされています。ムムム?!


小萩観音 ダヴィンチコード?

2014-05-15 14:43:00 | 不思議なお話
真名井御前はマグダラのマリアとシンクロする!?

 加悦町(かやちょう)といえば筆者にとって、思い出の場所です。今は加悦町は町村合併によって与謝野町の一部となっています。そこに、香河(かご)という集落があり、香河川という川も流れています。この集落に、後に如意尼と呼ばれ、甲山に空海とともに神呪寺を開基した真名井御前、幼名小萩が誕生したと伝わります。
 筆者は偶然にも19歳になったばかりのころの3か月間に3回、このすぐ近くのところまで足を運んでいました。今から思えば、見えない力によって、導かれていたものだったのでしょう。
 真名井御前の直系の家系も今もなお続いており、御子孫の方もご健在ですが、なんと大江さんという苗字なのです。もっともこの集落には大江という苗字の方が多くいらっしゃって、加悦の平野から見える山が大江山、その先が元伊勢内宮のある大江町ですから、別段驚くほどの事もないのかもしれません。
 この香河の小萩さんについては、こちらのサイトに詳しく紹介されています。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn55.html

>石川郷香河村。
 むかし京師の沙門倉橋川の辺を徘徊せるに川水えならず匂ひければ怪しみ流を伝ひ一村に至るに香気ますます盛んなれば里民に問さとの者曰く此村の貧家に子なきものあり天に祈りて一人の女子を得る此子生れ落ると此辺薫し渡る事三里四方なり誠に世にも類なき美小児なりことし七歳に及ぶといふ。沙門則其家に尋入り見るに小児のかんばせ白玉の如く香気は少女が身より出る事桜花の匂へるに異ならず父母に乞受けて都に誘ひて朝廷に奉りければ御寵愛浅からず終に天長のころ淳和天皇の皇妃に召上られ與佐の宇屋居子と申せしとかや元享釈書に如意尼は天長の帝の次妃丹後国與佐の郷の人なりとあり薙染の後旧里へ帰り一宇の精舎を建立して養法寺と名付られける。今其寺跡田地の字と成て世に伝ふ手づから彫刻の本尊観世音菩薩は養法寺破壊の後小萩の草堂に安置らしも今は名のみ残りて石川村西禅寺と云に有この尼は浦島の同じ血脈なり浦島が玉手箱を得て空海大士に奉り玉ひこの箱を以て空海雨をふらせ玉ふことは釈書に委し。<

 一般に、真名井御前は、空海入寂の 承和2年3月21日(新暦835年4月22日)の前日の3月20日に33歳で遷化(逝去)された、と言われていますが、こちらの方では、その後丹後に帰郷し、故郷に、いくつかの寺院を創建して、観音に帰依されたと伝わっています。
 どちらが正しいのかは、今のところ不明ですが、直系の御子孫もいらっしゃることから何となく、ダビンチコードに描かれているようなストーリーを思い出さずにはいられません。

 イエスキリストにはマグダラのマリアという弟子がいて、マリアは最愛の弟子であり、同時に妻であった。そしてお二人の間には、お子様もいらっしゃって、キリストがなくなった後、その子を連れてマリアは南フランスへ移動、後に、ヨーロッパのある著名な王侯貴族のルーツとなる家系へとその血筋がつながっている、というストーリーです。
 作家ダンブラウンのサスペンスフィクションをストーリー展開の軸としながらも、描かれる史実や登場する団体は事実に基づく、と作者本人によってふれこみがなされました。もちろん、従来の聖書に基づく話ではありえないことです。額面通り受け入れられない、という反論も多く出てはいます。
 とにかくこの話の真偽はともかく、あってもおかしくない話といえそうです。 それと同様のことが、日本でも起こっていたわけですから。 記紀神話によって、女神と思われていた天照大神は、単独で天忍穂耳命をはじめとする御子神を誕生させたかのように描かれていますが、実は男神で、十二人の后を持ち、その皇后が瀬織津姫であったわけです。
 真名井御前も、もしかすると33歳で遷化(逝去)されたのではなく、御子を産み育てるために丹後へ戻られたのかもしれません。父君は、世間で言われるように弘法大師である可能性も無きにしも非ずですが、これも真偽のほどはわかりません。
 京丹後という、豊受大神・天照大神とご縁の深い場所、そして浦島太郎、真名井御前、(小姉君、)間人皇后、麻呂子親王と、聖徳太子とのつながりもあるこの場所と、六甲山系甲山ともご縁をいただいている筆者としては、もう少し究明していきたい気持ちでいっぱいです。
 

 真名井御前=如意尼をモデルとした聖観音=小萩観音と呼ばれる観音です。