伊弉諾 伊弉冉 が 漢字表記で 伊邪那岐・伊邪那美 とされると、そこには邪(よこしま)というネガティブな意味が付与されます。記紀執筆者の悪意がはっきりと示される典型例です。
大禍津神(おおまがつかみ) 八十禍津神(やそまがつかみ)、それに、日が加えられて 大禍津日神(おおまがつひかみ) 八十禍津日神(やそまがつひかみ)となろうとも、国学者の本居宣長をして「悪神」と定義させたその神名には、実に命名者の悪意が込められています。
http://jyashin.net/evilshrine/teigi.html#s1
瀬織津姫と天照大神の御子神である、天忍穂耳命に対しても記紀においては一切無視され、、そのご活躍は、ホツマのように記述されることはありません。
そして、ある一定の地域では、天忍穂耳命を「忍骨命」と漢字表記しているのです。
この表記を用いた集団は、天忍穂耳命へのネガティブな感情を持っているといわざるを得ません。
この漢字表記を用いているのは地域的には限定されるようです。
福岡県田川郡香春町大字香春 香春(かはら)神社
http://kamnavi.jp/toyo/kawara.htm
http://www.geocities.jp/mb1527/osihomimi.html
そして、かつては日子山と表記された天忍穂耳命を祀る英彦(ひこ)山神宮です。
http://www.genbu.net/data/buzen/hikosan_title.htm?print=on
書紀の一(ある)文にも表記があるようです。
http://j-myth.info/database/kami07_1ma.html
そして、この辺りの地域は、以下のサイト主催者の研究によれば、ヤマタノオロチとの関係が深い地域であるそうです。
>ヤマタオロチとは<
http://www.geocities.jp/ojyaru_24/orochi.html
さらに、おどろくべきことに 大禍津日神の神名で祀られる神社も、物部氏と関わるこの九州北部に多く分布しています。全国41社中、18社がここに集中しているのです。
神奈備へようこそ のサイトより
大綾津日神、大禍津日神、大屋毘古神
http://kamnavi.jp/it/ooayatuhi.htm
>筑前 遠賀 伊豆神社「彦火火出見尊 ほか 合 神直日命、大禍津日命、大直日命 ほか」福岡県遠賀郡水巻町大字頃末2601
筑前 遠賀 埴生神社「應神天皇 ほか 合 禍津日神 ほか」福岡県中間市大字垣生字八広426
筑前 遠賀 疫神社「禍津日神」福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1070
筑前 遠賀 萬千代神社「禍津日命 ほか」福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1904
筑前 遠賀 勝山勝田神社「大山津見神 ほか 配 大禍津日神 ほか」福岡県北九州市八幡東区勝山1-16-17
筑前 遠賀 岡田神社摂社疫神社「大禍津日神」福岡県北九州市八幡西区岡田町1-15
筑前 遠賀 仲宿八幡宮「品陀和氣尊 ほか 合 大禍津日神 ほか」福岡県北九州市八幡東区祇園2-5-1
豊前 京都 清地神社摂社今宮神社「禍津日神」福岡県行橋市大字福丸字宮ノ下268
豊前 京都 若宮八幡神社「譽田別命 ほか 合 大枉津日神、八十枉津日神」福岡県京都郡勝山町大字岩熊字岡720
豊前 仲津 三諸神社「大綾津日神、大山咋神、天御中主神」福岡県京都郡犀川町大字大村字若一王子849-1
壱岐 石田 山浦神社「伊弉册尊 ほか 配 疱瘡神、八十枉津日命、大綾津日命、神直日神大直日神 ほか」長崎県壱岐郡郷ノ浦町庄触833
肥後 宇土 十五柱神社「神直日神、底土神、八十枉津日神、底津主神、大綾津日神 ほか」熊本県宇土郡不知火町高良1692
豊後 国東 高良社「武内宿禰命 合 大直日命、大綾津日神 ほか」大分県豊後高田市大字嶺崎1835番地
豊後 直入 六柱神社「磐土命、大直日命、底土命、大綾津日命、赤土命、大地海原之諸神」大分県竹田市大字植木3157番地
豊後 直入 六柱社「磐土命、大直日命、大綾津日命、赤土命、大地海原之諸命、底土命」大分県竹田市大字植木6253番地
豊後 直入 早吸社「磐土命、大直日命、底土命、赤土命、大地海原之諸神、大綾津日命」大分県竹田市大字入田367番地
豊前 宇佐 六社神社「大禍津日命、大直日命 ほか」大分県宇佐郡安心院町大字上内河野
豊前 宇佐 廣谷神社「大禍津日神、伊豆能賣神、大直日神、速佐須良比女神」大分県宇佐郡安心院町大字廣谷88番
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播磨国、現在の兵庫県加東市の木梨(こなし)神社は物部八十手(もののべのやそて)が
神社を創建したと伝わっているのですが、ここも、祭神名が八十枉津日神(やそまかつひのかみ)となっています。
九州の遠賀(おんが)川周辺は物部氏の拠点ともいわれています。
またヤマタノオロチとの関連も強く感じるのです。
物部氏は、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮とも深く関連しているのですが、こちらは、スサノオがヤマタノオロチを切った剣が祭神として祀られています。
剣や刀は、斬られた者の念がこもりやすいので、その扱いは十分に気を遣わなくてはならないものです。
物部氏は秦氏とも重なるところがありますが、明らかに異なるところもあります。それは、どちらも血縁とは関係のない擬制氏族であるからでしょう。
やがて物部氏は、神道を尊重して仏教・儒教の教えもその枝葉として扱った聖徳太子と対立します。
聖徳太子が17条の五憲法(合計105条)に示されるように神道を根本とする神仏習合の提唱者であることも、この間の調査で判明しています。神道を基盤としながら仏教、儒教の教えも取り入れることの意義を唱えた聖徳太子が、あえて日本の神々を仏教の本尊として守ろうとされたその背景には、神道が歪められ、日本の神々が消されていきつつあった状況があったのではないかと、筆者は推定しています。
今まで一般に思われてきた、崇仏派の蘇我氏と、排仏派=神道派の物部氏というステレオタイプ化された対立構図は、実は虚構だったのではないのでしょうか。