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八上白兎神社Ⅱと全国神話伝承他

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慈雲寺由緒

2014-06-09 16:39:00 | 歴史
 六甲山系甲山の神呪寺を空海とともに創建した如意尼のご生誕地は丹後半島、与謝野町香河(かご)です。  如意尼は33歳で遷化されたのではなく、33歳で神呪寺を後にして、故郷の加悦(かや)の香河に戻られて、観音に帰依するために創建されたいくつかの寺院が今も残ります。 

 香河の慈雲寺はその一つです。 慈雲寺の由緒です。

 慈雲寺由緒

 当寺は当地で生れた小萩が、人皇第五十三代淳和天皇の妃に立たれ、其の後、弘法大師の手で剃髪された如意尼が帰村して創建したものである。
 今を遡る凡そ千百四十年前、尼が四十才前後らしく、真言宗で三町歩の御免地が官給されていた。 
 其後五百年、尊氏が足利幕府を開き、初代丹後守護として舞鶴に居城した一色範光が、交通上軍事上の要衝として此地を重要視し、自分の法号を慈雲寺殿(でん)として厚く庇護した(一三四五年頃)
 足利一色氏の衰退に伴って天寧寺の末寺として寺運も盛衰あり、一色氏滅亡後百九十年(安永元年)一七七二)復興され明治中期天寧寺を離れて妙心寺の直末となり、延々今日に至っている。
 昭和五十四年(一九七九) 春  刻献
                 喜寿 大江 玄山

如意尼 小萩観音像

2014-01-04 11:40:00 | 歴史
 平成25年年末、神呪寺を空海と共に開基した真名井御前=如意尼の御出身地へ行ってきました。
 如意尼のご幼名は小萩(こはぎ)で、誕生されたときからそのお体から芳しい香りが川を伝って遠くまで香っていたことから、そのあたりを香河(かご)と呼ぶようになり、現在もその地名は京都府与謝野町に残っています。
 元亨釈書では、如意尼は33歳で、空海入定の翌日に遷化(せんげ)された、とあるのですが、ここ如意尼の御出身地では、如意尼はその約5年後に故郷へお帰りになって、寺院を建立して、生涯、この地で仏道修行を続けられた、という伝承が残っているのです。
 如意尼の生誕地の碑や、洗濯岩、如意尼が亡き父母のために創建した慈雲寺、如意尼が修業された善法寺、慈観寺の伝承もあります。如意尼作と伝わる小萩観音も与謝野町石川の福寿寺に保存されているようです。
 慈雲寺には、如意尼を信仰する人によって、小萩観音の像が奉納されています。
 真相は定かではありませんが、いずれにせよ、真名井御前に関してもっとも色濃く伝承の残る場所は、ここ丹後の与謝野町の香河、石川あたりであることは間違いありません。
 そして、元亨釈書に登場する摩尼山とは六甲山のことであり、真名井御前も六甲山へ上り、空海と共に六甲比命大善神の御陵を参拝されたものと思われます。

摂津名所図会
http://bittercup.web.fc2.com/07muko/sinjuji.html


>摩尼山神呪寺(まにさんしんじゆじ) 六甲山東面の中間兜山にあり、古義真言宗。
本尊如意輪観世音 弘法火師の作、長一尺ばかり、脇士持国・増長の二天も同作なり。
護摩堂 不動明王を安置す。智證大師の作。
大師堂 弘法大師自作の像を安ず。
三十三所観音堂 中尊聖観音は聖徳太子御作。
荒神祠 三宝荒神は役行者の作。八幡宮馬上の像は弘法大師の作。
鎮守 弁財天女を安ず。役行者の作。毎月七日に開扉あり。また毎歳正月七日の夜には福富の法会あり。 箕面の富のごとし。
山頭祠 熊野・白山・蔵王・住吉・広田・諏訪・八幡の七座を祭る。
九想滝(くそうのたき) 本堂より巽二町にあり。 大井滝 本堂より北の方八町ばかりにあり。 広田神(筆者註:瀬織津姫)影向石(ひろたのしにょうごうせき) 本堂より真南三町にあり。 白竜石(はくりようせき) 本堂の西谷一町ばかりにあり。 弁財天影向石(べんざいてんようごうせき) 一名居箱石(ゐはこいし)といふ。本堂より乾の方八町ばかりにあり。 荒神石(こうじんせき) 本堂の上方一町にあり。 乾滝(からたき) 当山北裏にあり。 鳴滝(なるたき) 坤の方にあり。
 寺説に日く、
 それ当山はむかし神功皇后三韓を追討したまひて後、国家平安の守護神として金の兜六刎その外武器を蔵めたまふゆゑに、地名を武庫と号し、山を六甲山と称し、また当山は形の似たるをもって兜山といふ。文武帝の御とき初めて役優姿塞この山に来たつて苦行したまひ、弁財天(筆者註:瀬織津姫)の影向を感見してその尊影を作り、鎮守としたまふ。その後淳和帝の皇妃、つねに如意輪大悲の神呪を誦したまへは霊告ありて、つひに天長五年二月十八日、皇妃は官女二人に金吾校尉橘親守を召供し宮中を出でたまひ、遙にこの山に入りたまふ、時に紫雲摩尼峯(筆者註:=六甲山)にたなびき、嬋娟たる美人(筆者註:瀬織津姫)出でたまひて、この山の霊場なる事をしらしめ、われは広田神の化現なりとて高嶺に飛び去りたまふ。 皇妃大いに歓喜したまひ、一宇を営みたまふ。その後空海僧都を崛請して、すなはち灌頂壇に入り、金胎両部の奥旨を探り、如意輪(筆者註:瀬織津姫)の像を作らんとて御素木をたづねたまへば、山頭に大樹の桜あり、大師加持して皇妃の身量を討つて規とし、尊像を作り、皇妃に奉ず。当寺の本尊これなり。
またこの山に一鬼あり、麤乱神(そらんじん)といふ。この精舎に障碍をなさんとす。大師日く、東の谷に大岩あり、これにてこの神を祭らば守護とならんとて、ここに鎮め祀ひたまふ。それより山河静謐となりけり。今これを福石といふ。天長八年十月十八日皇后薙髪したまひ、如意尼と号し、二人の官婦も同時に髪をおろし、如一・如円と名乗りける。三尼供に如意輪の呪を怠らず唱へたまへは、寺を神呪寺といひ、また感応寺とも呼ぶ。承和二年の春淳和帝この山に行幸ましまし、寺田近里百町を寄附したまひ、七堂伽藍巍然として、僧坊子院若干あり。同年三月二十日、皇妃如意尼はたちまち南方に向つて如意輪の尊像に顕れ、掌を合はして御齢三十三歳にして遷化したまふ。 委しきほ『元亨釈書』に見えたり。当山の絵詞伝は仁和寺御門主、画は土佐土佐守とぞ聞こえし。寿永の頃荒廃せしにや、源頼朝公再興の台命ありて奉行には梶原平三景時なり。その時景時の筆、喜捨文あり。頼朝族舎の旧跡は当寺より二町南に田畝の字となる。 頼朝塚は当山の良の方二町にあり。報恩の為にここに築いて法莚を修しけるとかや。 成就坊の古蹟は梶原が宿坊なり。当寺より南二町にありて田圃の字となる。それより年累りて後、当国伊丹の兵乱に仏閣僧院みな灰燼となる。その後やうやう神呪寺の村中に一宇を結んで本尊を安置しけるが、近年また重興して甲山の半腹に建営し、講堂今のごとく厳然たり。
 『新千載』
    前大僧正道意、暦応三年秋の頃、摂津国神呪寺といふ山寺に籠り侍りけるに、読みてつかはしける
      かすかずにかたえ枯れぬる一つ松いつまでとてか朽ち残るらん    永福門院
      朽ちのこる一木の松のかげをこそかれゆくえだもなはたのみけれ   前大僧正道意
 この永福門院は 後醍醐帝の皇妃すなはち大僧正の姉君なり。
大僧正は仁和寺勝宝院の件職なり。この一軸は神呪寺の什宝とす。
 『神社考』云く、
淳和帝第四の妃は、丹後国余佐郡の人なり。 摂州武庫の山中に入って如意輪の法を修し、空海を請じて薙髪し、如意尼となづく。常に一つの篋を眷す。 その裏を見る事を得ず。時に天長元年大いに早す。守敏・空海の両師を詔して、雨を請はしむ。二人法雩を相争ひ功験見えず。空海師かの皇妃の篋を得て秘牘を修す。たちまち天下雨降ること七日七夜。妃の同閭に水江の浦島が子といふ者あり。これより先数百載久しく仙境に在り。これいはゆる蓬莱宮なり。天長二年、故郷に還る。浦島が子の日く、仙宮より得たる紫雲篋といふ物あり、すなはち皇妃に奉ず。またこの山頭に桜木ありて時々光を放つ。妃これを怪しんで空海師に命じたまひ、如意輪の像を刻まし聖その長妃の身を量つて準とす。妃かの篋を桜の尊像の中に蔵むといふ。<



 小萩観音(慈雲寺)与謝野町香河

神を冒涜する漢字表記から気付いたこと

2013-05-12 23:53:00 | 歴史
 伊弉諾 伊弉冉 が 漢字表記で 伊邪那岐・伊邪那美 とされると、そこには邪(よこしま)というネガティブな意味が付与されます。記紀執筆者の悪意がはっきりと示される典型例です。
 大禍津神(おおまがつかみ) 八十禍津神(やそまがつかみ)、それに、日が加えられて 大禍津日神(おおまがつひかみ) 八十禍津日神(やそまがつひかみ)となろうとも、国学者の本居宣長をして「悪神」と定義させたその神名には、実に命名者の悪意が込められています。http://jyashin.net/evilshrine/teigi.html#s1 
 瀬織津姫と天照大神の御子神である、天忍穂耳命に対しても記紀においては一切無視され、、そのご活躍は、ホツマのように記述されることはありません。
 そして、ある一定の地域では、天忍穂耳命を「忍骨命」と漢字表記しているのです。
 この表記を用いた集団は、天忍穂耳命へのネガティブな感情を持っているといわざるを得ません。
 この漢字表記を用いているのは地域的には限定されるようです。

 福岡県田川郡香春町大字香春  香春(かはら)神社

http://kamnavi.jp/toyo/kawara.htm

http://www.geocities.jp/mb1527/osihomimi.html

 そして、かつては日子山と表記された天忍穂耳命を祀る英彦(ひこ)山神宮です。
http://www.genbu.net/data/buzen/hikosan_title.htm?print=on

 書紀の一(ある)文にも表記があるようです。
http://j-myth.info/database/kami07_1ma.html

 そして、この辺りの地域は、以下のサイト主催者の研究によれば、ヤマタノオロチとの関係が深い地域であるそうです。

>ヤマタオロチとは<
http://www.geocities.jp/ojyaru_24/orochi.html


 さらに、おどろくべきことに 大禍津日神の神名で祀られる神社も、物部氏と関わるこの九州北部に多く分布しています。全国41社中、18社がここに集中しているのです。

神奈備へようこそ のサイトより
 大綾津日神、大禍津日神、大屋毘古神

http://kamnavi.jp/it/ooayatuhi.htm


>筑前 遠賀 伊豆神社「彦火火出見尊 ほか 合 神直日命、大禍津日命、大直日命 ほか」福岡県遠賀郡水巻町大字頃末2601
筑前 遠賀 埴生神社「應神天皇 ほか 合 禍津日神 ほか」福岡県中間市大字垣生字八広426
筑前 遠賀 疫神社「禍津日神」福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1070
筑前 遠賀 萬千代神社「禍津日命 ほか」福岡県遠賀郡芦屋町山鹿1904
筑前 遠賀 勝山勝田神社「大山津見神 ほか 配 大禍津日神 ほか」福岡県北九州市八幡東区勝山1-16-17
筑前 遠賀 岡田神社摂社疫神社「大禍津日神」福岡県北九州市八幡西区岡田町1-15
筑前 遠賀 仲宿八幡宮「品陀和氣尊 ほか 合 大禍津日神 ほか」福岡県北九州市八幡東区祇園2-5-1
豊前 京都 清地神社摂社今宮神社「禍津日神」福岡県行橋市大字福丸字宮ノ下268
豊前 京都 若宮八幡神社「譽田別命 ほか 合 大枉津日神、八十枉津日神」福岡県京都郡勝山町大字岩熊字岡720
豊前 仲津 三諸神社「大綾津日神、大山咋神、天御中主神」福岡県京都郡犀川町大字大村字若一王子849-1
壱岐 石田 山浦神社「伊弉册尊 ほか 配 疱瘡神、八十枉津日命、大綾津日命、神直日神大直日神 ほか」長崎県壱岐郡郷ノ浦町庄触833
肥後 宇土 十五柱神社「神直日神、底土神、八十枉津日神、底津主神、大綾津日神 ほか」熊本県宇土郡不知火町高良1692
豊後 国東 高良社「武内宿禰命 合 大直日命、大綾津日神 ほか」大分県豊後高田市大字嶺崎1835番地
豊後 直入 六柱神社「磐土命、大直日命、底土命、大綾津日命、赤土命、大地海原之諸神」大分県竹田市大字植木3157番地
豊後 直入 六柱社「磐土命、大直日命、大綾津日命、赤土命、大地海原之諸命、底土命」大分県竹田市大字植木6253番地
豊後 直入 早吸社「磐土命、大直日命、底土命、赤土命、大地海原之諸神、大綾津日命」大分県竹田市大字入田367番地
豊前 宇佐 六社神社「大禍津日命、大直日命 ほか」大分県宇佐郡安心院町大字上内河野
豊前 宇佐 廣谷神社「大禍津日神、伊豆能賣神、大直日神、速佐須良比女神」大分県宇佐郡安心院町大字廣谷88番


 播磨国、現在の兵庫県加東市の木梨(こなし)神社は物部八十手(もののべのやそて)が
神社を創建したと伝わっているのですが、ここも、祭神名が八十枉津日神(やそまかつひのかみ)となっています。

 九州の遠賀(おんが)川周辺は物部氏の拠点ともいわれています。
 またヤマタノオロチとの関連も強く感じるのです。
 物部氏は、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神宮とも深く関連しているのですが、こちらは、スサノオがヤマタノオロチを切った剣が祭神として祀られています。
 剣や刀は、斬られた者の念がこもりやすいので、その扱いは十分に気を遣わなくてはならないものです。
 物部氏は秦氏とも重なるところがありますが、明らかに異なるところもあります。それは、どちらも血縁とは関係のない擬制氏族であるからでしょう。
 やがて物部氏は、神道を尊重して仏教・儒教の教えもその枝葉として扱った聖徳太子と対立します。
 聖徳太子が17条の五憲法(合計105条)に示されるように神道を根本とする神仏習合の提唱者であることも、この間の調査で判明しています。神道を基盤としながら仏教、儒教の教えも取り入れることの意義を唱えた聖徳太子が、あえて日本の神々を仏教の本尊として守ろうとされたその背景には、神道が歪められ、日本の神々が消されていきつつあった状況があったのではないかと、筆者は推定しています。
 今まで一般に思われてきた、崇仏派の蘇我氏と、排仏派=神道派の物部氏というステレオタイプ化された対立構図は、実は虚構だったのではないのでしょうか。


相輪(九輪)は天地をつなぐ御柱!

2013-04-19 12:02:00 | 歴史
 九輪は日本の仏教寺院の三重塔、五重塔、多宝塔などの屋根の頂上に設置されるものです。
 先の記事で紹介したホツマに登場する九輪(ここのわ)=九重(ここのえ)とは
>天地届く御柱(中串)の中にある9本の管の断面の様子を表現したもの。<
を仏教的に表現したものに他ならないでしょう。
 九輪の歴史は古く、日本に古代寺院が創建されたころからあったものと思います。寺院の建築の中で、もっとも重要な建造物が、塔です。
 塔の中心には「心の御柱(しんのみはしら)」ともいうべき心柱があり、これが塔を支えています。http://pagoda.sakuraweb.com/pago11.htm

その頂上、天に向かうところに、九輪があり、

 >天と地をつなぐ透明な御柱(中串)があり、その柱の中の管 (九の輪) を通してアメノミヲヤ(=宇宙根源神)の生気が地に送られる。その生気は管から出ると精霧(サキリ)となって地上に広がる。<
 というホツマの内容から、この九輪の本当の意味が判明するのです。http://tobifudo.jp/newmon/tatemono/sorin.html

 また、九輪の上にある水煙(すいえん)は、その名と反対に、炎 を示しているのであり、九輪の上に神(火水)がいらっしゃることを示しているとも言えるでしょう。
 
 このようにホツマを礎として検証していくと、聖徳太子をはじめ、高僧が成し遂げていった業績の意味や、仏教寺院の本尊や建築物、建築様式などの様々な意味がわかってくるのです。