goo blog サービス終了のお知らせ 

八上白兎神社Ⅱと全国神話伝承他

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

豊乗寺の四天王像初公開 最良の保存状態

2012-12-12 22:31:00 | 伊勢祭神
 四天王のうち、多聞天は、毘沙門天の別名です。筆者はこの間の研究結果より、毘沙門天は天照大神であると推定しています。
 先週末のTBS土曜の『世界ふしぎ発見」でも毘沙門天と弁財天のことが取り上げられていましたが、今週は日本海新聞で八頭郡の毘沙門天像が話題となり、驚くべきシンクロが続いています。

 豊乗寺の四天王像初公開 最良の保存状態

http://www.nnn.co.jp/news/121212/20121212005.html

>
国宝「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)・普賢菩薩(ふげんぼさつ)像」などが伝わる豊乗寺(ぶじょうじ)(鳥取県智頭町新見)に保存されていた木造の四天王像が、同町智頭の石谷家住宅で開かれている同寺の「至宝展」で初公開された。平安時代後期と室町時代の作と思われ最良の保存状態という。

 四天王像は多聞(たもん)天・広目(こうもく)天・増長(ぞうちょう)天・持国(じこく)天の4体から成る。同寺の大師堂に安置された仏像の背後に置かれていたため一般には知られていなかったが、大師堂がことし修繕されたのを機に初めて外部で展示された。

 像の高さは約1・6メートル。多聞天と増長天の表面が一部はげているほかは、ほぼ原形をとどめる。

 多聞天と増長天は平安時代後期(12世紀)、広目天と持国天は室町時代(16世紀)と推定される。

 戦国時代に同寺が兵火で焼けた際、地中に埋められて焼失を免れ、江戸初期に掘り起こされたと伝わる。

 同町誌編さん室の村尾康礼さんは「県内には四天王像はいくつか残っているが摩耗や損傷が激しく、その中で保存状態が最も良く貴重」と話している。

 同展は1月22日まで。「絹本著色・両界曼荼羅(まんだら)図」(県保護文化財)も12月24日まで展示している。<



七福神に弁財天と毘沙門天!!

2012-12-11 17:02:00 | 伊勢祭神
 ハタと気づきました。 室町時代ごろから広く庶民に親しまれている七福神。この中に、ちゃんと天照大神と瀬織津姫がいらっしゃいます。 

 恵比須、大黒天、毘沙門天、弁才天、布袋和尚、福禄寿、寿老人の中の毘沙門天と弁財天です。 
 七福神の起源はよくわかっていませんが、それは祇園祭岩戸山に男神の天照大神と鈴鹿山の瀬織津姫がいらっしゃるように、ひそかに真相を知っている誰かの手によって、本当のお姿を、ご存在を示そうとしたものに他ならない、という気がします。

http://homepage1.nifty.com/manekinekoclub/kenkyu/kaibo/7fuku/7fuku.html

 恵比寿、大黒天は事代主命と、大己貴命のことです。 福禄寿と寿老人はよくわかりませんが、布袋さんは、兵庫県宝塚市清荒神の眷属神として有名です。
 清荒神の三宝荒神とは、神呪寺と鷲林寺に関連する廣田神社祭神の眷属である麁乱(そらん)荒神と同一ですから、デカ腹でいつも笑っている布袋さんも瀬織津姫との関連あり、なのです。

 それで適当な写真がネット上にないか検索してアクセスしたところ、いい絵があり、その下を見るとニコニコ顔のどこかで見たお顔が! ちょっとビックリでした!
 同じ八上ルーツの石破さん、ご健闘を祈ります。

http://falcons.blog95.fc2.com/blog-entry-652.html 



毘沙門天・吉祥天女・善膩師童子

2012-12-01 13:59:00 | 伊勢祭神
 毘沙門天・吉祥天女・善膩師童子(ぜんにしどうじ) 実はこの御三体は仏教の中では珍しく家族の御関係を持ちます。
 六甲山及び周辺調査を通じて、筆者には、この御三体がそれぞれ天照大神・瀬織津姫・天忍穂耳命を示しているように思われてきました。

 雄々しい武神である毘沙門天は真言密教教義に基づけば、大日如来の化身であるとされます。同じく吉祥天女も大日如来の化身とされていますから、不動明王と同じ位置づけとなります。

 しかも毘沙門天と、吉祥天女はご夫婦で、その御子として善膩師童子がいらっしゃるという家族構成となっています。毘沙門天が男神天照大神とするならば、吉祥天は瀬織津姫、そして善膩師童子が天忍穂耳命、となります。

 膩という文字について調べてみると、膩粉(じふん)という熟語があり、これがなんと!!!
>なめらかなおしろい。べにやおしろい。化粧のこと。粉膩<
ということで、オシ という音が含まれてきます。ジ とも読むので耳にもつながります。オシホミミを示すのに、意図してこの文字が選ばれた可能性が高いのではないでしょうか。
http://www.geocities.jp/growth_dic/honbun/zoukan-6737.html


 六甲山の六甲比女神社は、神戸市北区の多聞寺の奥の院ですが、多聞寺の本尊は毘沙門天です。

http://ameblo.jp/kikyou-70/entry-10637963953.html

http://pilgrimari.exblog.jp/7224328

http://karamatsutei.web.fc2.com/h24/0508furuderayama.htm

 空海入定の地、高野山奥の院の真北大阪府高槻市に、役行者が開基した本山寺が位置しています。本尊は毘沙門天です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E5%AF%BA_(%E9%AB%98%E6%A7%BB%E5%B8%82)

 毘沙門天が神仏習合でカギを握る本尊であることを示しているようです。
つまり空海入定の奥の院の位置は、東西のご自身の生誕地と瀬織津姫とご縁(天河弁財天、日前宮)のラインと南北のラインで決定されたのでしょう。
 役行者と空海は時代的には異なりますが、その役目をバトンタッチしたかのごとく、上手に連携して、天照大神、瀬織津姫を仏教的にお姿を変えて、お守りになった、ということは間違いない事実であるといえます。
役行者は当初、天照大神のご家族をこの御三体に変えて祀って守ろうとされたのでしょう。そして、そのことが理由で、渡来人の讒言によって伊豆へ流されたのかもしれません。渡来系が天照大神を女神にして、女神のアマテラスにお后がいては矛盾するという理由で、瀬織津姫を抹消しようとしていた時代です。

 役行者の100年後、今度は空海が天照大神を主に大日如来として祀り、瀬織津姫を弁財天、不動明王、聖観音や十二后を彷彿とさせる十一面観音をはじめ、もろもろの観音に祀りなおしました。
 忍穂耳命は涙をのんで、仏教の本地仏にはされなかったのかも知れません。つまりご家族を推測させるような形式はあらわせなかったものと思います。
 しかし、六甲山とその周辺の神社と六甲比女神社の位置関係によって天忍穂耳命はしっかりと祭祀されていることがわかります。六甲山中では、六甲比女神社のすぐ上手にある仰臥岩が天忍穂耳命を祀る磐座ではないかと、筆者は推定しています。
 その天忍穂耳命が転生された方のお一人が65代花山天皇であるような気がします。
 六甲比女神社のすぐ東直線距離にして約300メートルの位置に、天穂日命がしっかりと守りを固めておられます。天穂日命の磐座の里宮が芦屋市の芦屋神社で、磐座から冬至の日の出ライン延長上にピタリと位置しています。このことも忘れてはならないことです。

 西宮神社の真東に津門(つと)神社がありますが、そこにはワカ姫(ワカ姫はヒルコ、エヒスという名でホツマに登場します。エヒスから恵比寿、戎、夷、恵比須、蛭子(ヒルコとも読める)などの漢字変換でワカ姫であることが消されてしまったのでしょう。)の夫に当たる八意思兼命(ヤゴコロオモイカネノミコト)とともに、おそらく瀬織津姫の夫神として、古くから毘沙門天が祀られ、明治以降に天照大神が祀られるようになった、という経緯からも毘沙門天が男神天照大神の本地仏ではないかと思われます。
 以下の津門神社の由緒書きがそのことを物語っているように思えるのです。http://blogs.yahoo.co.jp/dekunobou36/40363256.html
 >当時は神仏混合の時代でもあったため毘沙門天神も祀りましたが、明治の代になり天照皇大神を
御祭神とされてきております。<




赤田大仏と神明社

2012-11-08 19:29:00 | 伊勢祭神
 知人から紹介していただいた、秋田県由利本荘市赤田にある長谷寺(ちょうこくじ)は神仏習合の祭りが有名です。日本三大長谷観音の一つといわれており、奈良の長谷寺(はせでら)とのご縁があります。
 歴史は古くないのですが、創建した是山泰覚(ぜざんたいがく)和尚は、天照大神と瀬織津姫の御関係を、御存じだったと思われます。
 それが、この神仏習合の祭りに明確に表わされているようです。
 >赤田の大仏(長谷寺)概要: 長谷寺は是山和尚が創立した曹洞宗の寺院で秋田三十三観音霊場第九番札所です。 創建当初は安永4年(1774年)に滝沢山不動庵と称したのが始まりとされ、 その後、天明4年(1784年)に時の亀田藩主から奈良長谷寺の本尊と同木で彫刻した小仏を遺贈され、それを胎蔵佛として、長谷十一面観音の造立しました。
 現在の十一面観音立像(由利本荘市指定有形文化財)は、明治21年(1888年)に火災で焼失後改めて造像されたものですが、日本三大観音の1つに数えられ、高さは約9mあります。 又、「赤田大仏祭り」は神仏習合の行事で全国的にも珍しいお祭りで、200年以上も続いているそうです。祭りの内容としては、前日に大仏殿正面1キロ先の神明社に大仏の分身の観音様が、一夜を過ごし再び大仏殿に戻ってくるといものですが、民俗学的には「山ノ神」が「田ノ神」になって再び「山ノ神」となるということらしいです。長谷寺と神明社の位置関係は赤田川をは挟んで対峙しています。しかし、大仏殿は神明社の方向を見ていますが、本殿同士は向き合ておらず建物の関係性は低いのかもしれません。観光客の為だとは思うのですが、長谷寺の参道正面に電話ボックスと自動販売機が設置されていました。建物や大仏だけでなく、そこに至る参道やアプローチにももう少し配慮してほしい気がしました。又、全国的に珍しいお祭りがあるということなので、もう一対の神明社の方もクローズアップしても良いと思います。<

 ということですので、こちらの産地直送ブログもリンクしておきました。
http://common.pref.akita.lg.jp/genkimura/blog/?p=8338

 ウィキペディアです。
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%AF%BA_(%E7%94%B1%E5%88%A9%E6%9C%AC%E8%8D%98%E5%B8%82)#section_4

 是山泰覚和尚についての詳細なサイトです。
http://yurihonjohistory.blog11.fc2.com/blog-date-200910.html

役行者と空海は天照大神のご転生か?

2012-10-23 11:25:00 | 伊勢祭神
 遍照金剛とは大日如来を示し、空海が入唐(にっとう)してすぐに、>この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。< とあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7

 また四国のお遍路さんでも白衣に「南無大師遍照金剛」と記されているそうです。
 筆者も空海のことを知れば知るほど、並みの方ではなかったことを強く感じるようになりました。
役行者も大日如来の実際のお働きをされる不動明王の化身といわれています。http://urano.org/kankou/topics/gyouja/index.html
 
 神仏習合の時代に、伊勢神宮の奥の院といわれた朝熊山の金剛証寺は伊勢神宮内宮の真東に位置しており、これまた役行者のご生誕地とほぼ同一緯度に並んでいます。 そしてそこには空海作と伝わる、天照大神の少年時代のお姿である雨宝童子の像が安置されているのです。金剛証寺=金剛とは、どなたか?いかなるお姿であるか?を証明するお寺、という意味ではないでしょうか。
 渡来勢力によって神道を乗っ取られ、渡来勢力によって女神にされてしまった天照大神が、本当は男神であるということを明かし、またその存在を否定された瀬織津姫は弁財天、不動明王、観音として役行者と空海は守られたのでしょう。
 役行者も、空海もそのご生誕からご入滅の時期、場所、ご活躍の内容から、伊勢祭神を守ろうとされたことは明らかで、しかもその超人的な奇跡の数々からは、常人の枠をはるかに超えた、神の力によるものといわねばなりません。
 仏教的に日本の神道を守られた役行者と空海は、もしかすると天照大神のご転生であるのかもしれません。