天武天皇の御代に創建されたとされる奈良県天川村の天川弁財天社は、役行者が開いたといわれます。
ウィキペディアには
>室町期の僧英俊による多聞院日記に、「天川開山ハ役行者」と記述がある。天河大辨財天社の草創は飛鳥時代、役行者の大峯開山の際に蔵王権現に先立って勧請され最高峰である弥山(みせん)の鎮守として祀られたのに始まる。弘法大師が高野山の開山に先立って大峯山で修行し、最大の行場が天河神社であった。弘法大師にまつわる遺品が奉納されている。<
とあります。
中世より長らく琵琶山白飯寺という寺院としての歴史を持っていましたが、明治の神仏分離政策によってふたたび神社となりました。
その明治の神仏分離の際に、弁財天の垂迹神として一般的に知られている「市杵嶋姫命」の名前が当てられたようです。
しかしここ天河弁財天も、菊池展明氏の調査によって明らかにされたように、天照大神と不離一体である瀬織津姫が弁財天とされていたと考えるのが妥当、と思われます。
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/15478729.html
>吉野の土地の伝承では、役小角が蔵王権現を念出するにあたって、最初に出てきたのは弁財天、次に地蔵菩薩で、しかし、これらでは降魔・衆生済度はとてもかなわぬとして、最後に念出して蔵王権現が出現したとされます。いずれにしても、金峰山・大峯の地主神が蔵王権現には習合していました。同地の地主神は天武時代から天女神とみられていましたが、この天女神は「日輪天女」とも呼ばれ、天河弁財天と習合する神でした。天河神社(天河大弁財天社)所蔵の文書には、天河弁財天は「天照大神別体不二之御神」とも記され、これは、天照大神荒魂神、つまりは瀬織津姫神のことです(『円空と瀬織津姫』下巻)。
瀬織津姫神が弁財天と習合する事例は、静岡・瀬織戸神社、富山・元雄神神社、京都・井上社(通称:御手洗社、下鴨神社境内社)などに確認されますが、この神は、役小角ゆかりの蔵王権現とも習合していた可能性があります。<
廣田神社社領 甲山とその付近において役行者が修業をし、この地で弁財天を感得して、役行者が弁財天を大切な神として信仰するようになったことを紹介しました。さらに甲山・六甲山周辺で、平清盛福原遷都以前より、弁財天として祀られている神が実は瀬織津姫であるだろうことを突き止めたこともすでにお知らせしました。
すると、役行者が弁財天信仰として開いた他の寺院、箕面市の瀧安寺、そして、奈良県天川村の天川弁財天も、弁財天と称するその具体的な、仏教でいうところの垂迹神のお名前は「瀬織津姫」ととらえるのが妥当、といえます。
役行者が廣田神社の社領で瀬織津姫として感得した弁財天を、別の場所だからといって、そこでは市杵嶋姫だ、ととらえる、と考えられません。
菊池氏の調査・研究によって既に明かされたといえる天河弁財天の本尊の本来のお名前が瀬織津姫であるという説を、甲山での役行者修行の事実から、さらに補強するものとなりました。