八上白兎神社Ⅱと全国神話伝承他

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天河弁財天の位置の必然性

2012-11-30 01:16:00 | 瀬織津姫
 


 役行者は、甲山の南に位置する目神山で、瀬織津姫の御影向=御神霊と出会います。それが下の写真の場所と推定されます。
こちらが弁財天影向岩(べんざいてんようごういわ)で、ここで役行者が瀬織津姫=弁財天を感得したことから、その岩の上にその目印として、役行者とその従者である前鬼、後鬼の像が鎮座しているのです。



 以下は筆者の推測を交えて記します。
 おそらくここで瀬織津姫の御神霊に導かれて、山深い向津峰=六甲山へと導かれていったことでしょう。瀬織津姫の磐座まで役行者は案内されますが、すでにその時点で、向津峰は法道仙人の主導のもとで、渡来系秦氏によって、占拠されていたものと思われます
 役行者は、瀬織津姫を守ろうと、向津峰を渡来系から奪還しようとします。また、伊勢神宮も祭神変更、祭祀形式の改変が実施されて、元の形をとどめなくなっている状況を知った役行者は、伊勢祭神を守るために、天照大神を八大龍王として、瀬織津姫を弁財天、不動明王として祀り変えたものと思われます。http://homepage2.nifty.com/imamiya/gosaishin_s.html#hachidairyuo
 そして、伊勢神宮荒祭宮の女神を弁財天として、六甲比女神社との2点を結ぶと二等辺三角形になり、和歌山市の日前宮と東西ラインで並ぶ位置、玉置山と南北ラインでつながる場所を設定して、そこに天河弁財天を開基し、自分の子をそのすぐ近くに住まわせました。
 いよいよ晩年には、役行者は自分の子に、唐櫃(からと=現神戸市北区)に移り住んで、向津峰=六甲山を守るように命じます。これが役行者の末裔といわれる四鬼家です。四鬼家は創建当初は法道仙人開基の多聞寺から、秦氏の影響を退けて、多聞寺とともに六甲山の、主に西側を守り、何人も、四鬼家の許可なくしては六甲山へ入山することを禁じました。多聞寺の奥ノ院が、熊野権現、八大龍王を祀る仰臥(ぎょうが)岩、雲ヶ岩、向津姫神社=六甲比女神社、そして心経岩の一帯であることからわかるように、役行者の系統である四鬼家が六甲山の中でも最も守らねばならなかったところが、この地帯であることがよくわかります。
 後の世にそのことがはっきりとわかるように、この上空でしかわからない位置関係を踏まえて天河弁財天の場所を決定したと思われます。
 役行者の未完の偉業を受け継いだ空海と真名井御前は、六甲山から渡来勢力を一掃して、瀬織津姫の祭祀を保障するために、元は秦氏の寺であった鷲林寺を真言宗に改宗し、さらに、甲山山麓(おそらく廣田神社の一番元のままの場所の付近)に神呪寺を創建します。空海は、天照大神を大日如来とし、瀬織津姫を大日如来と不離一体の不動明王や弁財天にしました。このような経緯があるから、日本では、神仏は一体であり、神社だけでなくお寺も大切にしていく必要があるのです。

荒御崎神社摂社祭神が瀬織津姫か?

2012-11-30 01:15:00 | 八上の遺跡
 現在は鳥取市河原町布袋に鎮座する荒御崎神社の祭神名は以下のサイトにあるようにスサノオノミコトとなっています。
 http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-698.html
 しかし、先の記事で述べたように、神社の名前が非常に特殊で、その名前、およびそれに類する神社は全国的に見ても5社程度しかなく、他はすべて、荒御前神という神を祀っているため、この八上の布袋に鎮座する荒御崎神社にも荒御前神が祀られているものと考えられます。 本殿向かって左隣に鎮座するこの摂社が本来、荒御崎神=荒御前神=瀬織津姫を祀っているものと思われます。

 瀬織津姫が、鈴鹿御前として、橋姫として、そして荒御前神として祀られているのですが、そのどれにも共通するものが、善神として評価されていることと、無理やり悪神として描かれていることの両面があることです。

 鈴鹿御前 ウィキペディア

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E9%B9%BF%E5%BE%A1%E5%89%8D
 橋姫  ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E5%A7%AB

 荒御前神

http://ariadneito.web.fc2.com/top/gojyuuonjyun/a/a/aramisakinokami.htm

 瀬織津姫を貶めようとする勢力が、あとからとってつけたような、恐怖のイメージを植え付けようとした結果、このような相反する神の評価が形成されたもの、と思われます。



 八上 河原町布袋(ほてい)荒御崎神社境内摂社

八上 河原布袋の荒御崎神社

2012-11-30 01:14:00 | 瀬織津姫
 荒御崎神社という珍しい名前の神社が、かつての八上、現在の鳥取市河原町布袋に鎮座しています。
荒御前神社という名前の神社が全国に数社あり、荒御前神についても若干のことは判明しています。
 
荒御前神
http://ariadneito.web.fc2.com/top/gojyuuonjyun/a/a/aramisakinokami.htm
>●荒御前神(あらみさきのかみ)●
出自:日本神話
別名:荒御前姫(あらみさきひめ)
同一:─
前神:─
字義:─
容姿:─

神功皇后の新羅への遠征時、天照大御神(あまてらすおおみかみ)に遣わされた。
航海の安全を担う神で、この時は軍船の先方に立ち先導をしたとされる。
元来、嫉妬深い神であるため、仲の良い男女の仲を引ひ裂く神としても祭られる。
その場合は荒御前姫と呼ばれている。
住吉大神の荒神が正体であると言われる。<
 大辞林
http://www.weblio.jp/content/%E8%8D%92%E5%BE%A1%E5%89%8D

>あらみさき 【荒▽御▼鋒/荒▽御▽前/荒▽御裂】
(1)武徳の高い先駆けの神。神功皇后の征韓の時に御座船に現れて守護したという住吉の大神の荒御魂(あらみたま)をいう。

(2)〔「みさき」を「御裂き」の意にとって〕愛人・夫婦などの仲をさくと考えられていた嫉妬(しつと)深い神。
「―といふもの放たぬ者はかくぞある/狭衣 1」<


http://www.shirayama.or.jp/shrine/shrine18.html
石川県白山市三宮町ニ105-1加賀一の宮 白山比メ
>荒御前大神、日吉大神、高日大神、五味島大神の4柱が祀られています。荒御前大神は、『日本書記』の中に、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島に出兵した際、守護した神として登場します。<

 八上の布袋の荒御崎神社に祀られている神も、祭神変更はあるのかもしれませんが、神社名から、この荒御前神を祀っている、とらえるのが妥当でしょう。
 神功皇后を守護する神、といえば、日本書紀に登場する撞賢木厳魂天疎向津姫に他ならないと思います。

北嶋荒御前神社(きたしまあらみさきじんじゃ)は珠洲市長橋町37-42に鎮座していますが、こちらは祭神 天照皇大御神 素盞嗚命です。天照大神荒御魂―即ち瀬織津姫、の可能性がここにも表れています。
http://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/search/detail.php?e7a59ee7a4be4944=1799

>由緒
 安永5年の「荒御前北嶋神明宮御座敷代りてより千歳記略縁起」によれば、四代懿徳天皇(いとくてんのう)の御宇の創立と伝え、桓武天皇の御宇延暦元年神託により天津山に移転したとある。明治6年現社名に改称。同7年村社に列格。同40年同字地内の無格社四社を合併。大正8年4月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。<

 こちらのサイトでも興味深いことが記されています。かなり重要ですので、すべて引用させていただきます。

http://blogs.yahoo.co.jp/shrinemaiden1111/6878653.html
>もう一つ、白山比メ神社に関連する社のことについても触れておこうと思います。

前の記事で、「比メ神社ではなく荒御前神社だけが白山の方向を向いている」というようなことを言ったと思いますが、それが妙に気になりまして。

 まず、「荒御前」という神について。
この神様は、事典には「住吉大神の荒魂」と書いてあることが多いのですが、それの根拠がイマイチよく分からないんです。
 比メ神社HPには「荒御前大神は、『日本書記』の中に、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島に出兵した際、守護した神として登場します」と書かれていますが、自分が見る限りでは日本書紀には「荒御前」という神は見つかりません。これは「日本書紀内で神功皇后を守護した神」が荒御前大神と呼ばれているという意味でしょう。
その「神功皇后を守護した神」が何者なのか。これが完全にはハッキリしない。読み方によっては主語が変わってしまうような、そんな書き方がなされています。

 既にして神のおしふること有りて曰はく、「和魂は王身に服ひて寿命を守らむ。荒魂は先鋒として師船を導かむ。」


この一文の「神」が天照大神にあたるのか、それとも住吉大神にあたるのか。もしかして、その前に神功皇后に憑依した神々を総称して「神」と言っているのかもしれません。

ここで視点を変えてみます。
同じ石川県に、「北嶋荒御前神社」があります。祭神は天照皇大御神・素盞嗚命。
これを鑑みると、荒御前神の場合で説明される「神功皇后を助けた神」は天照大神だったと思われます。
天照大神荒魂を祀る官幣大社廣田神社も、HPに「神功皇后摂政元年(西暦201年)、国難打破の道を示し、皇子(第15代應神天皇)のご懐妊を告げ、安産を守り、軍船の先鋒となり導き、建国初の海外遠征に大勝利を授けられた天照大御神」と記載しています。
とすると荒御前神は、神功皇后に憑依した神の中では「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」、すなわち天照大神荒魂・瀬織津姫と言えます。
また、白山比メ神社の奥宮がある白山最高峰の名前は「御前峰(おまえみね)」と言います。
これの方向に荒御前(みさき)神社が向いているということは、荒御前神社とは御前峰(白山)の神を真に遥拝する所ということになりましょうか。


 現在は菊理姫が白山姫大神に習合していますが、それは中世に突然提唱されたもので、元々は違いました。それ以前には別な姫神が習合していたことも否定できません。その座にあったのがかつての瀬織津姫だったのではないかと思います。
秦氏の泰澄が十一面観音を念じ白山を開基したというのも、それを思わせます。<
 筆者もこの方のご意見に賛同します。

 因幡・八上には武内宿禰をはじめ、神功皇后、応神天皇の伝承も多く残っており、八上の荒御崎神社にその守護神である天疎向津姫=瀬織津姫が祀られているのはごく自然のことです。


八上 鳥取市河原町布袋鎮座 荒御崎神社
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-698.html
祭神  素盞鳴命
由緒 創立年代明かならず、往古より産土神荒御崎大明神と称せしが、明治元年荒御崎神社と改称し、同四年村社に列格せらる。

例祭日 10月 9日
建造物 本殿、幣殿、拝殿、参籠所、輿蔵









 同じく鳥取市河原町の布袋に隣接する袋河原の袋河原神社も、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后、瀬織津姫と思しきミズハノメノミコト、スサノオノミコトが祀られていることからすると、これらの神々のこの地域でご活躍されたことがうかがえます。

http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-697.html
 >祭神  帯中津日子命(仲哀天皇)、品田和気命(応神天皇)、息長帯比売命(神功皇后)、素盞鳴命、罔象女命(向津姫=瀬織津姫)

 由緒 創立年代明かならず、古くより素盞鳴命(一に大国主命と称す) を祀りて氏神となし荒神宮と称せしが、当村の対岸に片山村あり、曾つて洪水の際河身東に移動したるより片山村民の当地に移住せる者ハナハナシイ夥しく終に其の片山時代に氏神なりし片山字宮原鎮座八幡宮を当村の氏神として崇敬し古来より当村鎮座荒神宮を摂社となせり、因幡誌に「氏神分八幡宮在片山村」と記せり之なり、文化四年十二月十五日終に八幡宮を勧請して荒神宮と相殿に奉祀し世々産土神八幡宮と称せり、明治元年十月二十九日当村字下平鎮座(祭神 罔象女命)を合祀す、此の時荒神宮は再び社殿を新築して境内に別に奉祀せり、次いで袋河原神社と改称し明治五年三月村社に列格せらる、降りて明治四十三年十一月二十三日再び境内鎮座荒神宮を合祀す。


例祭日 9月 29日<