八上白兎神社Ⅱと全国神話伝承他

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宝積寺の広田大明神と南宮御前板絵

2013-03-31 07:06:00 | 瀬織津姫

 広田大明神

 南宮御前


 西宮神社発行の『西宮神社』50ページに文書で少しだけ紹介されていた板絵です。

 >乙訓郡大山崎町の宝積寺の十九所明神堂には、板絵着色の神像が四面現存し、それには弘安九年」(1286)四月二十五日の銘があり、南宮御前と広田大明神の神像が描かれている。<

 ウィキペディアの宝積寺(ほうしゃくじ)サイトです。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E7%A9%8D%E5%AF%BA#.E9.87.8D.E8.A6.81.E6.96.87.E5.8C.96.E8.B2.A1
 宝積寺紀行
http://photograph.pro/jp/kyoto/nishiyama/hoshakuji.html
 宝積寺と打ち出 小槌が紹介されています。
http://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/45776128.html
 
 現在、この板絵は保存状態が良好でないために、京都国立博物館に保管されており、通常は一般公開されていません。
三十番神の中では常に男神として描かれている広田大明神は、やはりここでも男神として描かれています。しかし、南宮御前として描かれる神像は女神として描かれています。 
 神仏習合においては、廣田、浜南宮ともに、阿弥陀如来を本地仏とすることから、廣田と浜南宮では、主祭神は同一である、とみてよいでしょう。とはいえ、本地仏と祭神名には相当な混乱も見られます。
 祭神と本地仏の対応については以下のサイトに紹介されています。
http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/HIROTA.html

 するとどちらも男神、またはどちらも女神であるはずですが、そうはなっていません。
 しかし、本来、広田神社では、向津姫という女神を祀っているのですから、この南宮御前として描かれた板絵が瀬織津姫を表している、といえます。
 

金毘羅大権現の本地!

2013-03-28 07:05:00 | 伊勢祭神
 西宮市の門戸厄神は、嵯峨天皇の厄年の祓いとして、空海が開基した寺院です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E6%88%B8%E5%8E%84%E7%A5%9E%E6%9D%B1%E5%85%89%E5%AF%BA
愛染明王と不動明王の合体神である厄神明王を祀るお寺です。
このように、複数の神が合体して、衆生を救うために新たな神仏が登場することはあるのです。
 
 ところで、記紀やホツマにも登場しない金毘羅大権現。金毘羅大権現の本地仏はなんと、十一面観音、毘沙門天、不動明王なのです。

 現在では、金刀比羅宮は大物主命を祀るとされています。確かに、讃岐の金刀比羅宮と奈良県の大神神社とは境内の雰囲気がよく似ています。ホツマにもどちらも登場し、大物主命との関連も記されています。
 
ところが、金毘羅大権現は、ウィキペディアでは、

 >象頭山松尾寺[1]の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。象頭山金毘羅大権現は、十一面観音菩薩を本地仏とした。<

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%AF%98%E7%BE%85%E6%A8%A9%E7%8F%BE
 
とあります。
 こちらのサイトにも、
 >象頭山には明治の前まで、象頭山松尾寺金光院と呼ばれる寺院があり、金毘羅大権現が祀られ、十一面観音を本地仏とし、その脇持は毘沙門天と不動明王であった。<
 と記されています。

http://www013.upp.so-net.ne.jp/mayalibrary/niki/niki113.htm


 さらに、金毘羅大権現の奥ノ院とされる箸蔵寺では
> 伝承によれば平安時代前期の天長5年(828年)四国巡錫中の空海(弘法大師)が、当地に霊気を感じ山上に登った。すると金毘羅大権現が現れ「箸を挙ぐる者、我誓ってこれを救はん」というお告げを空海に授けたという。そこで、空海は自ら金毘羅大権現の像を刻み堂宇を建立したことが当寺院の始まりと伝えられている。<

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8%E8%94%B5%E5%AF%BA
 金刀比羅宮は、明治の廃仏毀釈政策によって、お寺が神社となりました。 その時、金毘羅大権現の本地仏の3体が、危うく焼却廃棄される憂き目にあいかかっているのです。

 こちらの岡山県の西大寺には、その讃岐の金毘羅大権現本地仏であった、毘沙門天と不動明王が手厚く祀られています。
 http://www.saidaiji.jp/website/konpira

>明治維新のころ”神国日本は古来の神をこそ祀るべきで、渡来した神仏を祀る必要は無く、よって仏像・寺院は破壊するべきだ”という廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動が起こり、仏教は迫害された。

 讃岐の象頭山松尾寺金光院の鎮守として祀られていた金毘羅様もその被害を受け、松尾寺はその住職が僧職を辞し、神職として日本の海上安全の神である金刀比羅(ことひら)様に奉仕することを決め、寺院から神社へとその姿を変えた。このため多くの仏像が打ち壊しになり、これを見かねた金光院の末寺である万福院の住職宥明師が、明治7年7月12日自らの故郷である津田村君津の角南助五郎宅へ、金毘羅大権現の本地仏である不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰った。

 その後、この話を聞いた岡山藩主池田章政公が、自らの祈願寺である下出石村の円務院に移したが、廃藩置県によって池田候は東京へ移り、当山住職の長田光阿上人が明治15年3月5日当山へ勧請した。現在は、もともと当寺の鎮守である牛玉所(ごうしょ)大権現とともに、牛玉所殿に合祀されている。<

 筆者は昨年、中世以来庶民の人気の高い七福神の中に天照大神と瀬織津姫が、それぞれ毘沙門天と弁財天というお姿で祀られていることを見出しましたが、もしかすると、役行者と空海によって、感得された金毘羅大権現も、実は、天照大神と瀬織津姫の合体神ではないかという思いを持つようになりました。
 それに加えて、大物主命とも関連があるわけですから、伊勢と出雲が一体であることの象徴的な神といえそうです。
 渡来系の記紀「神話」捏造者が狙ったのは、伊勢と出雲の神々があたかも非和解の対立をしているかのような構図を描き出すことでした。
 ところがホツマを読めば、伊勢と出雲が一体であることがよくわかります。金毘羅大権現は、そのホツマの正当性を証明してくれる神といえるのかもしれません。

 思えば、天照大神が女神として感得される方もいらっしゃるようですが、そのお姿も、天照大神と瀬織津姫の不離一体のお姿、ととらえてよいのかもしれません。
 六甲山の雲ヶ岩で、法道仙人の前に御出現された天照大神も、本当に毘沙門天のお姿で御登場されたものと思われます。

 http://www.geocities.jp/wonderful_kobe_888/rokkou_chuuou_a.html

瀬織津姫石像奉納 寄付金募集

2013-03-27 20:24:00 | 瀬織津姫
 八上白兎ファンクラブは、このたび瑠璃さんの御協力・御承諾を得て、一口以上寄附してくださった方全員に、八上姫・瀬織津姫のCG絵画(A4サイズ)をプレゼントさせていただくことに決定いたしました。御希望の方はお申し出ください。一口につき1枚です。ですから例えば、5口寄付された方は5枚絵画を申し込むことができます。

 (既に瀬織津姫の石像奉納の寄付をされた方もおいでですが、既にご寄付をされた方で絵画を御希望の方は是非、メールなどでお知らせください。)

 寄附金は一口800円です。絵画送料は別途ですが、何枚でも一律100円です。
絵画は以下の中からお選びください。 
 全てA4サイズです。 
ゆうちょ銀行 15220 5123991  ヤカミハクトファンクラブ 

 寄附金御送付の口座です。御送付後、かならず、メールにて寄附をされたこと、御希望の絵画について大江までご連絡ください。 コメント欄の 白兎の小使い をクリックしてください。メールアドレスが出てきます。

 


 瀬織津姫と虹・滝


 瀬織津姫と白龍


 因幡・桜谷神社の瀬織津姫

 
八上姫


 曳田(ひけた)川と八上姫




瀬織津姫石像ご寄付御礼!目標額まであと少し!

2013-03-26 20:23:00 | News
 この間にも、桜谷神社・瀬織津姫石像へのご寄付が集まっております。

 
 匿名でご希望でしたが、高額ご寄付ですので、公表させていただきます。 
 ○八頭町宮谷の林石油店様から2万円のご寄付を頂戴しました。ありがとうございます。

 ○広島の大西様から6000円頂戴しました。2度目のご寄付でした。ありがとうございます。
 ○伊丹市の名古谷様から書籍、絵画ご購入も含めて6750円頂戴しました。ありがとうございます。
 ○枚方市の嶋村様より10000円頂戴しております。別に拙著をご購入いただいております。誠にありがとうございます。

 ○秋久保様より絵画購入を通じて2500円ご寄付を頂戴しております。ありがとうございます。

 その他にも六甲山レポートご購入などを通じて、ご寄付を頂戴しております。

 皆様、本当にありがとうございます。 

 3月23日時点で、目標の額まであと3万円となりました。
 もう一息です。
 皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

木之本地蔵と六甲比女神社

2013-03-24 07:04:00 | 六甲山とその周辺
 六甲山の麓よりblog というサイトに、聖徳太子とゆかりのある3か所の地蔵尊の場所について記されています。

http://micchan3.blogspot.jp/2009/04/blog-post_9046.html

 >"聖徳太子は鎮護国家のため、1木で3体の地蔵尊を刻み3か所に納められましたが、その1体が名塩の木元寺(このもとでら)にある木元地蔵尊であると伝えられています(もとは木の下と書かれていましたが明治時代に木元と改められました)。なお、他の2体は紀伊の木ノ本(きのもと)(筆者註:和歌山市の木之本八幡宮付近?ここは日前宮ともかかわりがあります。)、近江の木之本(きのもと) 地蔵尊です。< とあります。
 
 いつものごとく、この3か所を結んでみました。すると滋賀県長浜市の木之本地蔵寺と西宮市の木元地蔵を結んだ延長上に、六甲比女神社が位置しています。 
 

 聖徳太子が創建した宝塚市の塩尾寺(えんぺいじ)の由緒にあるように、

 >聖徳太子が四天王寺を建立され念仏三昧に入られたとき、はるか武庫山の上に弥陀・観音・勢至の三尊が降臨されるのを感得され、七つの寺々を建立され観音菩薩像を安置されたといいます。武庫の七寺の伝承で、塩尾寺には十一面観音菩薩がまつられました。<
http://www.kanko-takarazuka.jp/spot/history.html
 
 聖徳太子と六甲山とはかなり深い御縁があるようです。四天王寺において、伊勢祭神、天照大神と瀬織津姫をそれぞれ、毘沙門天と吉祥天として祭祀を守ろうとされた(筆者の説)聖徳太子は、日本で最も瀬織津姫とご縁の深い六甲山とその周辺に、伊勢祭神御守護のために、複数の寺院を創建された、としかとらえようがありません。
 これらのことは、聖徳太子が、六甲比女神社のことをちゃんとご存じであったことの証左といえるでしょう。