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八上白兎神社Ⅱと全国神話伝承他

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天照大神と瀬織津姫を並祭する高角神社

2014-11-09 07:35:00 | 伊勢祭神
 筆者も10年くらい前に関西ホツマの集いの旅行で参拝していました。その時はあまり意識していませんでした。
 こちら、奈良の三重の県境近く、高見山に鎮座する高角神社(たかすみじんじゃ)には天照大神と瀬織津姫が並祭されています。 
 神奈川県川崎市の天照皇大神、葉山の神明社(2か所または3か所)鳥取市河原町北村神社(日月宮)など、全国的に見ても極めてまれな天照大神と瀬織津姫を並祭する貴重な神社です。

http://narajisya.blog.eonet.jp/mahoroba/2014/01/post-b3a3.html

> 高見山の山頂に鎮座しています

 景行天皇の時代に瀬織津姫命と天照皇大神が高木山に勧請され、その後春日大明神・八幡大神・蔵王権現を合わせて祀り、高木五社と称されるようになりました
 雨乞いに霊験あらたかであると言われます
 延暦13年(1794)に藤原忠房が勅使として参拝したと伝えられます

 古くは水分神社と称されていたようです
 明治7年に式内社「 高角神社 」に比定されています

祭神;瀬織津姫命・天照大御神・天児屋根命・誉田別命・速秋津彦命

 本殿は石檀の上に鎮座

例祭;?<
http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikou/ki/ki_18_summary.html

http://homepage2.nifty.com/yamayuuyuu/takami.htm

http://www.geocities.jp/engisiki/yamato/html/031007-02.html

神嘗祭と新嘗祭のタイムラグの深い意味

2014-11-03 13:35:00 | 伊勢祭神
 2011年秋筆者は、伊勢修養団の山中隆雄さんの講演会で神嘗祭と新嘗祭についてお聞きしたことがあります。
 10月15日~17日の神嘗祭に、天照大神、豊受大神にまず国民が収穫したお米を捧げます。
そしてその後、全国民が皆、無事に新米をいただいた、それをお見届けになられた天皇が最後にその年も、おおみたから=民が飢えることなく豊作であった、とご安心されて召し上がるのが11月23日の新嘗祭である、という風に。
 ですから神嘗祭より前は絶対に庶民は新米を食べてはなりませんが、神嘗祭直後からは国民=おおみたからは新米を食してよいはずです。(宝は田からです。国民とは、その宝を作り出す尊い民であるのです。)
 この順序にこそ天皇陛下の尊さがある、と強く感じますし、そこに、天照大神に象徴される民=大御宝を大切にされるご姿勢が硬質の伝統として受け継がれていることを見出すことができます。 


 天照大神と瀬織津姫が最も長きにわたってお住まいされた伊雑宮の質素なつくり、そして、おそらく天照大神が晩年に瀬織津姫と共にお住まいであった荒祭宮とも規模が同じです。
 つまり、庶民の住まいと同じ規模のご住居に国のトップがお住まいされていたことになります。
 決して民に負担をかけないようになされていたご姿勢がよく伝わってきます。
 このことと、神に新米を奉げる神嘗祭と、わざわざ40日の期間を設けて、必要があれば助け合い=不作で困った地域へ豊作の地域のお米が供給されるなどの調整をして、全国民にお米が行き渡った知らせをお待ちになった後に、ご安心された天皇が初めて新米を召し上がられる新嘗祭という順序には、根本に共通するものがあると思います。
 困ったときには互いに助け合う、富の偏在には意味がなく、広く公平に生産物が行き渡るように心配りをする、現代の経済のありかたは、全く正反対で、政治家・国家官僚が逆にこの富の偏在を促進するような政策をとっているわけです。全く異常としか言いようがありません。

 なお、正宮の大きな神殿は倭姫が大神への畏れ多いお気持ちを表すために規模を大きくされたものと思います。
 国譲りは大国主命(オオナムチノミコト)が巨大な神殿を建てたことを糺すために行われたものでした。その使者として天穂日命が出雲へ派遣されました。おそらく軟禁状態にされたのでしょう。その後、強制力を用意した上で、やっと国譲りに応じた大国主命が東北へ遷られたのちは、天穂日命が出雲を治め、そして晩年は、出雲大社と伊雑宮を結ぶライン上で、しかも瀬織津姫の御陵の隣に、お鎮まりになるわけです。 私たちは日本の神の素晴らしいご姿勢をもっと見習わなくてはなりません。
 

日前宮 御神体の鏡の意味判明!!!

2013-12-14 11:40:00 | 伊勢祭神
 日前宮国懸宮(ひのくまみや・くにかかすみや)は、ホツマで明らかなように瀬織津姫と天照大神を祀るたいへん格式の高いお社です。

ウィキペディアにはこう記されています。

>神体の鏡について
 神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる。八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた。日神(天照大神)に対する日前神という名称からも、特別な神であると考えられている。また、伊勢が大和への東の出口に対して、当社は西の出口にあるため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれている。

 日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかった。なお、日前大神が天照大神の別名とされることについては諸説がある。

歴史
日本で最も歴史のある神社の一つで、神話と関わりが深い。『日本書紀』に、天照大神が岩戸隠れした際、石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が日前宮に祀られているとの記述がある。社伝によれば、神武東征の後の神武天皇2年、紀国造家(紀氏)の祖神である天道根命(あめのみちねのみこと)が、八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡を賜り、日像鏡を日前宮の、日矛鏡を國懸宮の神体としたとしている。

当初は名草郡毛見郷浜宮に祀られ、垂仁天皇16年に現在地に遷座したと伝えられている。なお、伊太祁曽神社の社伝では、元々この地に伊太祁曽神社があったが、紀伊国における国譲りの結果、日前神・国懸神が土地を手に入れ、伊太祁曽神社は現在地に遷座したとしている。また、日前・國懸両神宮の遷宮前の旧社地には浜宮神社が鎮座している。<



 筆者はあることに気が付きました。 
 神鏡のペアである沖津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)とは、鏡の中央の半球が浮き上がったもの、と鏡の中央が半球状にへこんだもののセットです。この形状が陽と陰、即ち男女を示しているわけです。 
 日前宮と国懸宮の御神体の鏡も、ズバリこの関係です。
 すなわち、日像鏡(ひがたのかがみ)の がた=潟とは、入り江、くぼみで女性を示し、日矛鏡(ひぼこのかがみ)の ほこ とは男性を示しているということです。

 有職雛の並び方は左側(向かって右)が男性、右側(向かって左)が女性です。日前宮も古い形式のお社ですから伝統の通りの並び方になっています。左が男神、右が女神となります。
 
 伊勢神宮も遷宮制度で、元の形を消されているものの、2つの正殿が並んでいて、左に男神天照大神、右に女神瀬織津姫が祀られているのが本来の姿であったはずです。それが、現在は正殿と荒祭宮というアンバランスな関係で祀られているわけです。

 日前宮・国懸宮は、天照大神の御神体と同等の鏡を祀るとされるお社です。 
 このように見てくると、日矛鏡は男神である天照大神、日像鏡は女神の瀬織津姫にピタリと照応するではありませんか。
 日前宮国懸宮の祭祀を司ってきた紀氏にこのことが今もなお伝わっているかどうかは不明ですが、間違いなくこの観点からも、日像鏡と日矛鏡とは、祭神名を公にできなかった暗黒の時代に、日前宮に瀬織津姫、国懸宮に国を駆け巡って国を治められた天照大神を祀っていることを秘密裏に象徴するのにふさわしい鏡の呼称です。
 
 筆者は、1988年ごろ、この日前宮・国懸宮の前を通ったことがありますが、その時に、この神社の名前が印象的で、ぜひじっくりと訪れたい、という気持ちがわいてきたのをはっきりと覚えています。
 あれから25年。ようやく日前宮・国懸宮の御神体の意味がはっきりと分かりました。
 
 また、日前宮と関わる天道根命が六甲山麓の聖徳太子とご縁のある綱敷天満宮とも御縁があることは以前の記事で記したとおりです。
http://white.ap.teacup.com/hakuto/1805.html

常世国 国常立命・伊勢祭神の思想を継承する聖徳太子

2013-09-15 09:34:00 | 伊勢祭神
 以下の以前の記事から、さらに新たに判明したことを加えます。
http://white.ap.teacup.com/hakuto/1807.html

 橘寺の場所は、現在の伊勢神宮が創建された垂仁天皇の御代に、国常立命がおつくりになった理想の国である常世国(とこよくに=東北地方と推定される)へ、タジマモリが出かけて、常世国を象徴するカグノミ=橘を持ち帰って植えた場所です。
 約500年後にその場所で聖徳太子は誕生されたのです。ですから聖徳太子が、日本神道と断絶して、渡来の仏教のみを信仰していた、と考えるのは愚の骨頂です。
 聖徳太子は、あくまで神道を根本思想として、それに儒教、仏教の教えを導入することによって、より神道の考え方が豊かになるもの、ととらえていました。
 十七条憲法の三宝とは、本当は十七条五憲法では三法であり、神・仏・儒だったのです。大化の改新で、この元のお考えが闇に葬られてしまったものと思われます。
 聖徳太子が仏教を導入したもう一つの理由は、すでに4世紀ごろから渡来系勢力の影響が強まり、日本の神道、神社に改変が加えられていったことに対する対抗手段としてであったと考えられます。聖徳太子のお考えは、記紀ではあまりよくわかりませんが、ホツマに描かれている天照大神の根本思想と同じであり、和(やわ)すことの重要性を強調されています。
 橘寺においても、和(やわらぎ)を以って貴しとなす、というわかりやすく根本的な考え方が、代表的な標語として掲げられています。
 自らに敵対してきた勢力、社会において悪の御用を担った勢力に対しても、懲戒した後は、和す方向で尽力されています。敵をも味方にする、悪を抱き参らせる、このような心の広い考えを持つことができれば、深刻な対立など続くはずはありません。
 日本が諸外国に比べれば、内乱などが少なく(戦国時代においても武士同士の戦いは一般庶民をほとんど巻き込んでいません。参考までにhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111960321

)、庶民同士が常に緊張関係におかれるような殺伐とした状態はほとんど皆無であったといってよいでしょう。
 宗教間の争いも目立ったものはなく、近代になるまで、神道では宗派といえるような派閥もなく、仏教でも宗派の違いはそれほど大きいものではなく、互いに多少の対立もありながらも、長年いがみ合うこともありません。
 やはり、日本は国常立命、伊勢祭神のお考えが強く反映され、それが、聖徳太子の神仏習合政策を先鞭として、渡来宗教が入ってきても、それを受け入れ、新しい神としてともに祀ることに何の抵抗感も持たない、柔軟さを持つ理由と思われます。
 もちろん、聖徳太子が神仏習合を進めていった本当の理由は、改変されてしまった神道祭神、中でも伊勢の祭神、その中でも、その存在が消されようとしていた瀬織津姫を守るためであったといえるでしょう。
 橘寺で祀られる本尊は如意輪観音です。聖徳太子は生涯、念持仏として如意輪観音を大切にされています。如意輪観音をはじめ、様々な観音は、瀬織津姫を象徴しているといえるでしょう。
 そして、四天王寺建立を機に、記紀で最も歪められた伊勢祭神、天照大神、瀬織津姫、天忍穂耳命をそれぞれ毘沙門天、吉祥天、善膩師童子として、あるいは阿弥陀三尊=阿弥陀如来、聖観音、勢至菩薩として、大日如来・不動明王として仏教的に祀りなおしてお守りされた、と考えられます。 
 そのお考えを継承したのが、法道仙人であり、役行者であり、空海・真名井御前であり、仏眼上人と花山法皇だったのです。
 もちろん、神仏習合には消極的な意味だけでなく、仏教をも取り入れることで、ホツマの思想の国際化を果たす、という積極的な意味合いもあったと思われます。きっとホツマのバックボーン思想を仏教の衣をまとって、広く世界に通用するものにする、という考えもあったに違いありません。
 それが、聖徳太子五憲法に示されているものと思われます。

 橘寺の真南には、国常立命を祀る十津川村の玉置神社が位置し、真東には伊勢内宮・外宮の両宮が位置しています。この位置関係からも、聖徳太子が、生誕された橘寺の意味が示されていると思います。
 そして、その聖徳太子の御意志の継承者である天武天皇の御陵、役行者の生誕地(御所市の吉祥草寺)、はるか離れた四国は善通寺の空海生誕地が一直線で並ぶことに、日本の神々の御意向のもとに、これら聖人がご活躍されたのだ、ということが端的に示されています。

 


橘寺発行絵葉書より 如意輪観音

 橘寺発行絵葉書より 橘寺 五重塔心礎 解説によれば、橘の形を示しているそうです。

  聖徳太子は、国常立命のトの教え=常世思想を基本に持っておられたことが、この遺構からも伝わってきます。
 あわせて、五重塔の九輪がアモト、トホカミエヒタメ9神の光の輪であり、天と地をつなぐ意味を持っていることと合致します。
 http://white.ap.teacup.com/hakuto/1871.html