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八上白兎神社Ⅱと全国神話伝承他

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ガイアシンフォニー8に瀬織津姫!

2015-02-23 13:27:00 | 瀬織津姫
 ガイアシンフォニー地球交響曲8が完成し、明治神宮でも上映会が催されました。
上映会には、著名な方々が大勢お集まりのようで、高円宮様、安倍昭恵さんもいらっしゃったそうです。大きな広がりへとつながってもらいたいものです。http://www.cinematoday.jp/page/N0070888
 
今回の内容の一つに、東北の舞根神社が登場します。瀬織津姫を祭神とする舞根神社については、菊池展明さんが詳細に調査されています。

 熊野大神の原像 http://www5.ocn.ne.jp/~furindo/kumanosin.html

 気仙沼商会 の 瀬織津姫伝説よりhttp://www.k-shokai.co.jp/company/image/contribute055.pdf
>むかしむかし(養老2年・718年)多賀城に大野東人(おおのあずまんど)という鎮
守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)がおりました。将軍の仕事は、中央政権に従わなかった蝦夷(えぞ)の人達を征伐(せいばつ)することでした。しかし蝦夷の人達はとても強く簡単に征服することはできませんでした。そこで神様に頼るしかないと考え、元正天皇(げんしょうてんのう)に紀州熊野(きしゅうくまの)の神様をこの地に迎えたいのですがと願い出ました。天皇はその願いを受け入れてくださり、紀州の国の県主(あがたぬし)「鈴木左衛門尉穂積重義(すずきさえもんいほつみしげよし)」という人に熊野の神様の分霊(ぶんれい)を東北の地に祀(まつ)らせるように命じました。
 鈴木左衛門尉穂積重義は、家臣(かしん)数百人を従(したが)え、船団(せんだん)を組んで紀州(きしゅう)から北に向かいました。そのときお連れした熊野の神様の分霊をお祀(まつ)りするため、その場所を大祓(おおはら)い清めたのが瀬織津姫(せおりつひめ)であると伝えられているようです。
 船団は5ヶ月かかって、ある港に到着しました。その港が唐桑村細浦(ほそうら)、現在の唐桑町鮪立(しびたち)であり、その時、仮のお宮を建て熊野本宮神を安置(あんち)したのが唐桑町舞根(もうね)だそうです。現在も着岸第一歩の鮪立には業除(ごうのけ)神社が、舞根には瀬織津姫神社、その側に熊野神社が祀(まつ)られています。
 鎮守府大野東人将軍は、郷主(ごうしゅ)たちを招集(しょうしゅう)して神輿(みこし)を出迎え、天皇からの手紙を受けとった後、何処(どこ)に神様を奉(まつ)ったらいいのか神様の意見を伺(うかが)ったところ「磐井郡鬼首山(いわいぐんおにかべやま)(室根山)の峰がいい」というお告げがあったので、鈴木家の家臣の人達と白馬(あらうま)17頭に乗った郷主たちに守られながら出発し、途中の新城、折壁などで粥(かゆ)を献上(けんじょう)され、室根山に向かったという説があります。室根では熊野の神様をお迎えしたという古例(これい)に従い、室根大祭を4年に1度閏年(うるうどし)の翌年行っており、今年がその年になっています。
 
 このほかにも瀬織津姫にはいろいろな言い伝えがあるそうですが、共通して言われている「瀬」は川、「織」は曲がっている、「津」は海、を意味し、厄災(わざわい)を川から海に流し海深くに鎮(しず)めてくれる大祓(おおはら)いの神様であった、というところに着目(ちゃくもく)し、現代の不安や不景気を全て祓って流してもらいたいと願い、また来年3月の唐桑町との合併を歓迎する意味で、唐桑に縁(ゆかり)のある「瀬織津姫パレード」で今年は参加致しました。
  祝 唐桑・気仙沼合併   祝 第55回気仙沼みなとまつり
    新気仙沼市の繁栄を心からお祈り申し上げます。
     株式会社気仙沼商会<

ガイアシンフォニー8のサイトに紹介されています。

http://gaiasymphony.com/no8/forest

 ガイアシンフォニーでは以前、天河弁財天が取り上げられたそうです。http://www5c.biglobe.ne.jp/~izanami/coramu1/gaiasymphony5th.html


 筆者は、ガイアシンフォニーの制作関係の方を六甲比命神社の磐座へご案内したことがあり、この流れで行けば、いずれ、六甲の瀬織津姫にもスポットがあてられるようになる、と期待しております。 



密教の恵果・空海・瀬織津姫

2015-02-20 00:53:00 | 瀬織津姫
 新たな大発見です!!!!! このことは、先日の神戸の講演で初公表しました。

 空海は、生誕地が香川県善通寺で、入寂地はその真東である高野山奥の院です。この二点を結ぶラインの東に瀬織津姫を弁財天として天武天皇と役行者が祀った天河弁財天が位置します。

 高野山奥の院の真西の和歌山市秋月にはアヒノマエミヤ(天日前宮)としてホツマにも登場する、瀬織津姫を祀る日前宮が位置します。
 この4点を結ぶ東西ラインをさらに西へ西へと延長すると、なんとそこには、密教を最後に空海に伝えた恵果がいた西安の青龍寺が位置しているのです。中国密教最後の伝承者、恵果が空海のみに伝えることができたその奥義は、こうして日本で継承されていったわけです。
 測量技術が発達した現在になってようやく明かされた秘密です。


http://www4.ocn.ne.jp/~yamamtso/newpage60.htm


ホツマの文脈で瀬織津姫を語ることの重要性

2015-01-29 00:52:00 | 瀬織津姫
 丹後、因幡、そして特に六甲山とその周辺の実地の研究を通して、ホツマの信ぴょう性は高まっています。個人的主観のレベルではなく、客観的にそういえるのです。
 国常立命の建国理念は、豊受大神・天照大神の治世のときに、トノヲシテとして明確化され、その理念のもとに、日本国内で、理想の社会が形成されていたことがホツマには記されています。
 日本は、このような、神による建国がなされた世界でもまれにみる貴重な国なのです。その理想の国の建国の過程で様々な困難があったことも、後の世への教訓としてホツマに記されています。  

 人の体をもってご登場され、ご活躍された日本の神々が御自ら示された理想の国の建国、それに伴う様々なトラブルや困難があったことについてもっと真剣に知ることが大切です。
 そしてそれらの経験、そこから導き出される教訓を、現代社会に生かしていくことが求められています。

 この点から、瀬織津姫の事だけに限りませんが、神々の諸関係についてできる限り正確に知り、矛盾のない神代から続く歴史の真相を追っていかねばなりません。

 特に六甲山の実地調査等を通じて、瀬織津姫とワカ姫、菊理姫そしてタナキネ=天穂日命は豊受大神・天照大神のご意向を汲んで、精力的にご活躍をされていることがわかってきました。

 瀬織津姫に関して、少なからぬ諸氏の著作やネット上の様々なサイトで個人的思い入れに偏ったイマジネーションに基づくフィクションが流布されています。

 日本の神々がご活躍された事実を比較的正しく描いたホツマの文脈から切り離してとらえることは、もはや好ましくないことと思います。
 特に、恣意的に神々を結びつけ、何の根拠もなしに、瀬織津姫をニギハヤヒのお后としてとらえ、それを吹聴することなどはもってのほかです。
 瀬織津姫は男神天照大神の十二后の中の皇后であり、豊受大神・天照大神の御意志に沿ってご活躍された、そして今もなおご活躍をされている尊い神です。
 
 日本の神々が願われているのは、和す・尽くすの常世の国=ホツマの精神、トノヲシテの復興です。(記紀はその理念を見事にすべて削除したシロモノです。)
 そこから外れて、日本の神を語り、神話研究をしてもほとんど意味はありません。

葉山姫 神功皇后 水主神社

2014-11-10 07:36:00 | 瀬織津姫
http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/tag/%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%A7%AB

 葉山姫についてこちらのサイトに記されています。
>廣田神社の境内社①齋殿神社(西宮市・大社町)

祭神:葉山姫
齋殿神社(ときどの)は、
神功皇后の指示で廣田神社を祭った葉山姫を祭神とする境内摂社です。

葉山姫は京都南部(山背・山城)を拠点とする豪族・山背根子の娘です。

山背根子は神功皇后が新羅遠征からの帰途に、
忍熊王の反乱の鎮圧にむかった際,
根子の姉娘の葉山姫に天照大神を,妹娘の長姫に事代主尊を祭らせて,
航海の安全を祈りました。<

 実は、筆者は数年まえから知り合いである方から、先日(2014年10月26日)、初めて、その方の祖先の方が、神功皇后より、この廣田の地の天照大神荒御魂を大切に祀るようにという命を受けた、ということを知りました。
 
 つまりその方の御先祖の方は、葉山姫とともに、祭祀をされていた一族の方であるのは間違いないと思います。
 
 そして、筆者は、それに先立つ先月中旬(2014年10月16日)、六甲比命神社で、城陽市からお越しの方と出会いました。その方は夢に瀬織津姫が御出現になり、六甲へ招かれた、それで初めてここへ参拝にいらっしゃったそうです。 
(夢に登場された瀬織津姫の御顔は瑠璃さんの有名な作品と似ている、ということでした。)
 城陽市といえば、ホツマに登場する樺井月神社が思い浮かび、その神社のことを口にしたのですが、現在は樺井月神社は、水主神社の境内社となっています。 

http://gejirin.com/src/Ka/kabaitukijinja.html

http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/37831564.html
 
そして、その水主(みずし)神社です。

>水主神社(城陽市・水主宮馬場 )に関する記事です。

水主神社(みずし)は木津川の右岸にあり、
近鉄新田辺駅から木津川を渡った富野荘駅(とのしょう)の北西1kmにあります。

木津川の傍に鎮座する、洪水・旱魃などの守護に関係する神社でした。
また水主という地名は全国の城下町・港町に所在する地名で、
水主衆(加子衆:水夫のこと)が集住する町」に由来するそうです。

新撰姓氏録には、この辺りの豪族に水主直がおり、
水主氏の祖を祀る氏神として水主神社を創建したとあるそうです。

水主氏は、栗隈大溝(水路)に木津川から水を流入させる
井堰の管理を司る一族とされます。

水主神社は素佐之男の第五子・天照御魂を筆頭に十座を祭る大社です。
(延喜式神社で祭神が十座もあるのは水主神社だけ)


十代目の山背大国魂が、丹波から水主に移住し、
木津川水系・巨椋池周辺での治水治山農業の振興に努め、この地を開発しました。

この山背大国魂が先祖をお祭りし、更に彼の死後に子孫が山背大国魂を、
追加祭祀したのが水主神社です。

祭神:天照御魂 天香語山 天村雲 天忍男 建額赤 建筒草 建田背 建諸隅 倭得玉彦  
    山背大国魂(山背根子)

沢山の祭神がいますが、特に重要なのは最初の天照御魂と最後の山背大国魂です。

山背大国魂命は山背根子のことです。

山背根子は神功皇后凱旋にあたっては、皇后とともに忍熊王と戦って勝利し、
自分の娘の葉山姫には天照大神の荒魂を廣田神社に、
その妹の長姫には事代主を長田神社を祀らせました。<

 筆者は、この1カ月くらいの間に、神功皇后時代の廣田神社創建(筆者は伊和志津、廣田、本住吉、六甲八幡、敏馬、生田、長田その他へ再編と推定)に直接関わった方と少なからぬ御縁(血縁、地縁そして霊統)のある方と出会い、そしてほぼ同時期に、神奈川県葉山の向津姫を祀る3社のことを発見したわけです。
 ふしぎふしぎ!
 これも、すべては瀬織津姫の御引き寄せ、としか思えないのです。







 

神奈川葉山町向津姫を祀る3社!

2014-11-10 07:35:00 | 瀬織津姫
 神奈川県葉山町には、向津姫(瀬織津姫)を祀る神社が3つあり、そのうち2社が天照大神と並祭されています。

神明社 (葉山町木古庭大沢) 木古庭大沢928-4  祭神 天照大神・向津日売命

神明社 (葉山町下山口) 下山口1504      祭神 天照皇大神・向津比売命

杉山神社 (葉山町) 上山口2639        祭神 大物主命・豊佐賀男命・伊邪冉命・早玉命・向津日売命
 
 神奈川県内にはそのほかに、室町時代ごろより、川崎市の天照皇大神に天照大神と向津姫が並祭されています。
 木古庭の神明社は以下のサイトがあります。すぐそばに関連濃厚と思われる瀧不動堂があります。
http://www13.ocn.ne.jp/~honnenji/takifudo.html

http://sagaminokuni.blogspot.jp/2014/09/blog-post_15.html

http://repository.ris.ac.jp/dspace/bitstream/11266/1483/1/KJ00000160730.pdf

 下山口の神明社については地元のサイトがあり、そこに、由緒が記されています。
http://www.hayamamachi.com/shinmeisya/


以下、転載です。

>神明社の由来です。
元の社家である大谷家に伝わる説によれば、宝永元年甲申(1704)九月十六日に現在地の伊勢山に祭祀され、御神体は衣冠束帯姿の木像で、長者ヶ崎の海中より引き上げられたのだそうです。  その伝わっているお話とは、元の名主 沼田八右衛門が村に悪い病気が流行り病魔に襲われ倒れる人が多いのを憂い、悪疫退散を天神地祇に七日七夜にわたって祈願しました。その満願の当夜、白衣の老翁が枕頭に立ち現れて「爾吾を念ずること久し、洗心の懇祈により悪疫退散心身安泰疑いなし」と宣り給うと、長者ヶ崎の方へと去って行ったのです。八右衛門が翌朝その跡を訪ねて長者ヶ崎に行くと、海上に木片が漂流しているのを見付けて引き上げてみると、それは衣冠束帯姿の御神像でした。八右衛門は名主沼田次右衛門、年寄 沼田惣右衛門、沼田忠右衛門、沼田喜兵衛、沼田安兵衛らと相談して、御神像を現在地の伊勢山に奉安したところ、御神徳により悪疫は忽ち退散し村は無事平穏に復しました。なお、「伊勢山」との地名は、地名の方が先にあったのではなく、むしろ「天照皇大神宮」=「お伊勢さま」をお祀りしたところから伊勢山と命名されたものと思われます。<

 >以後、最初に御神像を奉安した九月十六日を祭日と定めて毎年例祭が行われていましたが、現在は新暦で毎年八月十八日に例祭が挙行されています。元々の社家であった大谷家は既に神職を退き、現在は森戸神社の兼務社となっています。そもそもは悪疫退散祈願に由来を持つ神明社ですが、その他に安産守護の神様としても尊崇されているようです。明治六年(1873)に村社に列せられ、更に大正七年(1918)七月に公示を以て指定村社に列格されました。 社号はかつては「天照皇大神宮」と称されていましたが、明治八年(1875)の宮称廃止令発布により、「神明社」と改称されました。神明社は平成七年に不幸にも火災に見舞われ、御社殿も古文書などと共々焼けてしまい、更に御神輿も焼失してしまいました。そのため、古くからの面影を偲ばせるものは殆ど全てが灰燼に帰してはしまったのですが、氏子さん方の熱意が実って、程なく無事に御社殿も御神輿もが再建復興され、お祭も昔に変わらず再び盛んに執り行われています。<

 この由緒書きには興味深い点があります。 
 衣冠束帯姿の御神像とはまさしく男性のお姿です。 その御神体を天照大神として奉安されています。そして、同時か、もしくはそのあとに、后神である瀬織津姫=向津姫を並祭されているのです。 すごいお話です。

 そして葉山、といえば、葉山御用邸、です。
また我が西宮の向津姫を祀る廣田神社を再興したのが葉山姫ではありませんか。この一致は偶然とは言えないでしょう。
 この神奈川の葉山の地に奇跡的な神社創建、そして天照大神と瀬織津姫の並祭に、葉山姫の御神霊のお力が働いているのではないでしょうか。