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八上白兎神社Ⅱと全国神話伝承他

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墓碑銘解析図について 仮説

2012-05-12 23:32:00 | 歴史
  池田仁三氏の研究成果についての大胆な仮説です。

 池田仁三氏のコンピュータ画像解析による全国各地の古墳磐座などに記されていた漢字による墓碑銘。
 筆者は、このアプローチを初めて試みた池田氏の師にあたる井上赳夫氏と池田氏によって解析して出てきた結果はほぼそのままのものであり、何か手を加えたようなしろものではではないと思います。
 もちろん、池田氏のサイトに公開されているような文字を浮かび上がらせる方法をほかの第三者が実行して、同様の結果が出た場合に、という科学一般に当てはまる条件付はあります。
 池田氏のこの墓碑銘の発見、という客観的事実を受容するとき、まず第一に出てくる疑問点は漢字の筆跡がほぼ同じであることです。
 この点に関して池田氏はサイトに興味深いことを2点記しています。
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/HISEKIG.html

1>また、墓碑に使用されている文字は、ほとんど楷書体に近い実用的な形をしている。

 この楷書体に近いことが後世に書かれたものではないかとの疑念を抱かせているが、この疑念は次のように解釈すれば容易に解消できる。

 中国で甲骨文字から始まった漢字は、篆書を経て始皇帝の秦代に簡略化して小篆となり、漢代特に後漢になって隷書として花開くのであるが、デザイン文字のような隷書の見事な筆法の根底に、実用的な楷書体に近い形が存在したことは明白であり、桜蘭等で発見された木簡の文字や、「隷書とは楷書のことをいう」と表現されている高校書道教科書の記述がこれを強く証明している。<

 
 2>そして、多くの墓碑銘等を解読していて気が付いたのですが、これらの墓碑銘等に使用されている人物名は、古事記に記載されているものはほぼ古事記の表記通りになっていたのです。<
 
 特に2点目の指摘から、これら墓碑銘は、古事記執筆に合わせて、ほぼ同一の人物が、全国各地の古墳・奥都城とされる磐座に、以前は別の文字、おそらく大半はヲシテ文字で記された本当の墓碑銘や年号、享年をかき消したうえで、墨汁とノミを使って漢字表記にしたものと思われます。つまりこれら漢字表記への切り替えは8世紀初頭前後、古事記の記述に合わせるために古事記編纂者の指揮の下で実行されたものといえるでしょう。この膨大な量の、漢字による墓碑銘書き直しは日本の歴史をゆがめる意図を持ってなされた、と思われます。
 古事記では神話の主な舞台は九州高千穂であるかのように描かれています。案の定、それに照応するように、不自然にも九州地方にほぼすべて墓所が集中しています。例外は伊邪奈美命、スサノヲノ命と大国主命は山陰地方、中国地方、となっているだけで、これらも古事記で整合性があるのです。
 筆者はこの漢字表記をしたのは藤原氏、もしくは秦氏であったと推定します。

池田氏のサイトの解析結果によれば、以下の神々(と徐福関係)の墓所はすべて九州地方、となってしまいます。あまりにも奇妙です。
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/RYOS1.htm

天伊邪那岐大御神

大気津比賣命

天照大御神

稚日女命/伝天照大御神妹

伊豫津比古命

天手力男神

高杵命/雫穂津比賣父

月読命

雫穂津比賣命

伊豫津比賣命/月読妃

天津國玉命

奈加登美命

伊斯許理度賣命

天石戸別命

天兒屋命

天鳥船命

建御雷男命

伊吹戸主命

徐 福

福永/徐福子

福萬/徐福孫

福壽/徐福曾孫

 古事記の通りの瓊瓊杵尊の天孫降臨につじつまを合わせるために、天忍穂耳命の墓碑銘をどこかの大きな古墳に刻むことはしませんでした。しかし、九州に点在する古墳の中から適当に選び出して、そのほかの神話時代の神々の墓碑銘をそれらに刻んだのでしょう。上記の九州地方の古墳と墓碑銘に関しては、ほとんどがでっち上げと思われます。
  

 古事記執筆時に天照大神を女神のように見せかける工作をします。古事記には瀬織津姫のことは一切記されていません。その一方で天のヤスカワにお住まいであったワカ姫を天照大神に見せかけようとする記述も見られます。
 そのあたりに揺らぎもあったのでしょう。越木岩神社のワカ姫の奥都城には正直に稚日女命の名前を記しながら、九州にワカ姫の墓所をねつ造することはしなかったものと思われます。
 本州、近畿地方では歴史時代に入ってきますから、政治の中心地でもあり、多くの他の豪族の監視の目もあるので、墓碑銘そのものを全く別人のものにすることはなかったのでしょう。

 ですから、本州、特に近畿地方のものに関しては、年号、享年の改竄の可能性はあるものの、漢字表記に変えただけのものが比較的多くあると思われます。 しかし、その漢字への書き換えこそ渡来系氏族にとって、歴史を塗り替えるために必要なことだったのです。その主目的は奥都城に刻まれた古代文字=ヲシテ文字を中心とする各豪族の固有の神代文字を消すことにほかなりません。
 池田氏が全国調査をして漢字表記が残っている墓碑銘から判断すると、秦氏と関わる徐福関係や秦氏渡来時に対立したと思われる皇族のお名前が残っていることから、この書き換えは秦氏が積極的に実行したのではないかと思えてきます。(これに関してはもう少し検討を要します。)
 古事記という書物による歴史改竄につじつまを合わせるために、神社祭神をも変えていきましたが、特に神話時代の神々の奥都城をほぼ九州に追いやる形で藤原氏、秦氏は彼らに都合の良い記紀神話をねつ造したのでしょう。
 もしこの仮説の通りだとすると、本当にひどい話です。
 

続・狛犬について

2012-05-03 20:06:00 | 歴史
 明治神宮のホームページに以下のような狛犬についての解説があります。
 全国の数多くの神社で見かける狛犬ですが、多くは設置された歴史はそれほど古くないようです。 

http://www.meijijingu.or.jp/qa/jingu/10.html
 >狛犬の起源は古代オリエント・インドに遡(さかのぼ)ります。狛犬はライオン(獅子)を象った像ですが、それがはるばるシルクロードを通って日本まで伝わってきました。古代オリエント諸国では聖なるもの、神や王位の守護獣として百獣の王ライオンを用いる流行がありました。そのいちばんいい例がエジプトピラミッドのスフィンクスです。それが一方では西欧に流れていってヨーロッパ諸国の王位の象徴である獅子像になりました。西欧の王室のマークや建物の飾りを見ると、ライオンのデザイン化されたものが多いでしょう。あれも狛犬の遠縁なのです。


 ところで獅子像が中国から日本に伝わった当初、日本人はその異様な形の生き物を犬と勘違いし、また朝鮮から伝来したことから「高麗(こま)犬(いぬ)」と呼ばれるようになったそうです。ちなみに本物の生きたライオンが初めて日本に渡来したのは慶応2年(1866)正月の事でした。

 狛犬は伝来当初、宮中の清涼殿(せいりょうでん)※2の中で鎮子(ちんす)※3または魔除けの意味で置かれました。それが平安時代から鎌倉時代になると神社や寺院の建物の中にも置かれるようになりますが、参道に狛犬が置かれるようになるのは意外にも江戸時代からで、それほど古い時代ではないのです。ですから古い歴史のある神社、たとえば伊勢神宮などには狛犬の入ってくる前からの古い形をそのまま伝えているお宮ですから狛犬が見られないのです。

 では明治神宮はなぜ外に置いてないのか、はっきりとそのことについて記された書物がありませんので想像で申しますが、明治神宮の社殿建築は流造(ながれづくり)※4の様式です。流造は平安時代に発展した神社建築で最もポピュラーな形で全国にありますが、この社殿様式と全体の景観を考慮して参道またはご社殿前には狛犬はふさわしくないと判断されたのでしょう。よって狛犬は平安時代のようにご社殿の中にあるのです。

 ちなみに神社に置いてある狛犬は神前に向かって右側で口を開けてるのを「獅子(しし)」(阿・あ・攻)と呼び、左側の一角で口を結んでるのを「狛犬(こまいぬ)」(吽・うん・護)と区別していますので覚えておきましょう。<

隠岐との関連、再浮上

2012-01-07 12:20:00 | 歴史
 八上白兎ファンクラブを通じて最近知り合えた方から、隠岐と八上との関連、因幡の白兎との関連について興味深い話をお聞きしました。
 拙著1冊目にも紹介したように、隠岐島前の焼火山(たくひやま)の焼火権現を祀る祠が青龍寺のある八頭町下門尾(しもかどお)の山中にもあります。門尾は天照大神と白兎が出会った場所です。焼火の祭りは地区でにぎわう催しで、隠岐のある北西方面へ向かって祈りをささげるそうです。下門尾の遠祖の中には隠岐をルーツとする方もいらっしゃるそうです。
 奇しくも青龍寺も漁業を営む方々からの信仰が厚く、住職様も毎年秋に隠岐島後方面に出かけれらています。
 焼火権現と、もうひ一つの神社、比奈麻治比賣神社祭神の比奈麻治比賣とは同じ祭神であるということをお聞きしました。
 筆者もその名前が丹後の比沼麻奈為神社によく似ているので、以前から関心を寄せていました。この神社の祭神と因幡の白兎が関わりがあるかもしれないという説が浮上してきました。
 また筆者もよくわかっていませんが、由良姫を祀る由良比女神社も島前にあり、関連があるそうです。 
 筆者は正月3日に元伊勢内宮へ参拝し、摂社をすべて参拝しましたが、そこに由良比女神社があることを印象深く覚えていました。何かの知らせだったのかもしれません。

焼火神社関係論文
http://www.lares.dti.ne.jp/~takuhi/folder/ronbun.html

山口県の焼火信仰
http://www.geocities.jp/astpa693/takuhisya2.html
 妖怪ではありませんが…
http://www.sakaiminato.net/site2/page/youkai_news/takuhigonngennhirou/
ひなまち姫物語
http://kyoukoso.sakura.ne.jp/hina/
比奈麻治比賣命神社
http://www.genbu.net/data/oki/hinamajihime_title.htm

伊勢神宮の橋姫神社 写真

2011-11-05 10:08:00 | 歴史
 以前の記事に書いていますので、ご参照ください。http://white.ap.teacup.com/hakuto/731.html
 隣のお土産物屋さんの隣に先日ご紹介した伊勢修養団があります。





 橋姫神社はかつてはこの宇治橋のすぐ前に鎮座していました。

ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%A9%8B_(%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E5%B8%82)#.E9.A5.97.E5.9C.9F.E6.A9.8B.E5.A7.AB.E7.A5.9E.E7.A4.BE

饗土橋姫神社と津長神社、大水神社
http://www.amigo2.ne.jp/~yaji/jinja03.htm

こちらの方のブログにも掲載されています。
http://blog.goo.ne.jp/odanohashi/e/96f28e22da148ba12c0d8363800dfe11

京都宇治の橋姫神社

2011-11-05 09:17:00 | 歴史

 橋姫の心を汲みて高瀬さす
     棹のしずくに袖ぞぬれぬる


 橋姫神社です。




 住吉神社が向かって右側に鎮座しています。
 







 ここが宇治橋の途中にある三の間というところで、明治3年までここに橋姫神社があったのです。橋を守る神社がまさか橋の上にあるとは、何という仕打ちでしょう。
http://www.pauch.com/kss/g051.html




 橋寺に祀られている諸仏も仏教的に名を変えられた瀬織津姫です。