池田仁三氏の研究成果についての大胆な仮説です。
池田仁三氏のコンピュータ画像解析による全国各地の古墳磐座などに記されていた漢字による墓碑銘。
筆者は、このアプローチを初めて試みた池田氏の師にあたる井上赳夫氏と池田氏によって解析して出てきた結果はほぼそのままのものであり、何か手を加えたようなしろものではではないと思います。
もちろん、池田氏のサイトに公開されているような文字を浮かび上がらせる方法をほかの第三者が実行して、同様の結果が出た場合に、という科学一般に当てはまる条件付はあります。
池田氏のこの墓碑銘の発見、という客観的事実を受容するとき、まず第一に出てくる疑問点は漢字の筆跡がほぼ同じであることです。
この点に関して池田氏はサイトに興味深いことを2点記しています。
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/HISEKIG.html
1>また、墓碑に使用されている文字は、ほとんど楷書体に近い実用的な形をしている。
この楷書体に近いことが後世に書かれたものではないかとの疑念を抱かせているが、この疑念は次のように解釈すれば容易に解消できる。
中国で甲骨文字から始まった漢字は、篆書を経て始皇帝の秦代に簡略化して小篆となり、漢代特に後漢になって隷書として花開くのであるが、デザイン文字のような隷書の見事な筆法の根底に、実用的な楷書体に近い形が存在したことは明白であり、桜蘭等で発見された木簡の文字や、「隷書とは楷書のことをいう」と表現されている高校書道教科書の記述がこれを強く証明している。<
2>そして、多くの墓碑銘等を解読していて気が付いたのですが、これらの墓碑銘等に使用されている人物名は、古事記に記載されているものはほぼ古事記の表記通りになっていたのです。<
特に2点目の指摘から、これら墓碑銘は、古事記執筆に合わせて、ほぼ同一の人物が、全国各地の古墳・奥都城とされる磐座に、以前は別の文字、おそらく大半はヲシテ文字で記された本当の墓碑銘や年号、享年をかき消したうえで、墨汁とノミを使って漢字表記にしたものと思われます。つまりこれら漢字表記への切り替えは8世紀初頭前後、古事記の記述に合わせるために古事記編纂者の指揮の下で実行されたものといえるでしょう。この膨大な量の、漢字による墓碑銘書き直しは日本の歴史をゆがめる意図を持ってなされた、と思われます。
古事記では神話の主な舞台は九州高千穂であるかのように描かれています。案の定、それに照応するように、不自然にも九州地方にほぼすべて墓所が集中しています。例外は伊邪奈美命、スサノヲノ命と大国主命は山陰地方、中国地方、となっているだけで、これらも古事記で整合性があるのです。
筆者はこの漢字表記をしたのは藤原氏、もしくは秦氏であったと推定します。
池田氏のサイトの解析結果によれば、以下の神々(と徐福関係)の墓所はすべて九州地方、となってしまいます。あまりにも奇妙です。
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/RYOS1.htm
天伊邪那岐大御神
大気津比賣命
天照大御神
稚日女命/伝天照大御神妹
伊豫津比古命
天手力男神
高杵命/雫穂津比賣父
月読命
雫穂津比賣命
伊豫津比賣命/月読妃
天津國玉命
奈加登美命
伊斯許理度賣命
天石戸別命
天兒屋命
天鳥船命
建御雷男命
伊吹戸主命
徐 福
福永/徐福子
福萬/徐福孫
福壽/徐福曾孫
古事記の通りの瓊瓊杵尊の天孫降臨につじつまを合わせるために、天忍穂耳命の墓碑銘をどこかの大きな古墳に刻むことはしませんでした。しかし、九州に点在する古墳の中から適当に選び出して、そのほかの神話時代の神々の墓碑銘をそれらに刻んだのでしょう。上記の九州地方の古墳と墓碑銘に関しては、ほとんどがでっち上げと思われます。
古事記執筆時に天照大神を女神のように見せかける工作をします。古事記には瀬織津姫のことは一切記されていません。その一方で天のヤスカワにお住まいであったワカ姫を天照大神に見せかけようとする記述も見られます。
そのあたりに揺らぎもあったのでしょう。越木岩神社のワカ姫の奥都城には正直に稚日女命の名前を記しながら、九州にワカ姫の墓所をねつ造することはしなかったものと思われます。
本州、近畿地方では歴史時代に入ってきますから、政治の中心地でもあり、多くの他の豪族の監視の目もあるので、墓碑銘そのものを全く別人のものにすることはなかったのでしょう。
ですから、本州、特に近畿地方のものに関しては、年号、享年の改竄の可能性はあるものの、漢字表記に変えただけのものが比較的多くあると思われます。 しかし、その漢字への書き換えこそ渡来系氏族にとって、歴史を塗り替えるために必要なことだったのです。その主目的は奥都城に刻まれた古代文字=ヲシテ文字を中心とする各豪族の固有の神代文字を消すことにほかなりません。
池田氏が全国調査をして漢字表記が残っている墓碑銘から判断すると、秦氏と関わる徐福関係や秦氏渡来時に対立したと思われる皇族のお名前が残っていることから、この書き換えは秦氏が積極的に実行したのではないかと思えてきます。(これに関してはもう少し検討を要します。)
古事記という書物による歴史改竄につじつまを合わせるために、神社祭神をも変えていきましたが、特に神話時代の神々の奥都城をほぼ九州に追いやる形で藤原氏、秦氏は彼らに都合の良い記紀神話をねつ造したのでしょう。
もしこの仮説の通りだとすると、本当にひどい話です。
池田仁三氏のコンピュータ画像解析による全国各地の古墳磐座などに記されていた漢字による墓碑銘。
筆者は、このアプローチを初めて試みた池田氏の師にあたる井上赳夫氏と池田氏によって解析して出てきた結果はほぼそのままのものであり、何か手を加えたようなしろものではではないと思います。
もちろん、池田氏のサイトに公開されているような文字を浮かび上がらせる方法をほかの第三者が実行して、同様の結果が出た場合に、という科学一般に当てはまる条件付はあります。
池田氏のこの墓碑銘の発見、という客観的事実を受容するとき、まず第一に出てくる疑問点は漢字の筆跡がほぼ同じであることです。
この点に関して池田氏はサイトに興味深いことを2点記しています。
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/HISEKIG.html
1>また、墓碑に使用されている文字は、ほとんど楷書体に近い実用的な形をしている。
この楷書体に近いことが後世に書かれたものではないかとの疑念を抱かせているが、この疑念は次のように解釈すれば容易に解消できる。
中国で甲骨文字から始まった漢字は、篆書を経て始皇帝の秦代に簡略化して小篆となり、漢代特に後漢になって隷書として花開くのであるが、デザイン文字のような隷書の見事な筆法の根底に、実用的な楷書体に近い形が存在したことは明白であり、桜蘭等で発見された木簡の文字や、「隷書とは楷書のことをいう」と表現されている高校書道教科書の記述がこれを強く証明している。<
2>そして、多くの墓碑銘等を解読していて気が付いたのですが、これらの墓碑銘等に使用されている人物名は、古事記に記載されているものはほぼ古事記の表記通りになっていたのです。<
特に2点目の指摘から、これら墓碑銘は、古事記執筆に合わせて、ほぼ同一の人物が、全国各地の古墳・奥都城とされる磐座に、以前は別の文字、おそらく大半はヲシテ文字で記された本当の墓碑銘や年号、享年をかき消したうえで、墨汁とノミを使って漢字表記にしたものと思われます。つまりこれら漢字表記への切り替えは8世紀初頭前後、古事記の記述に合わせるために古事記編纂者の指揮の下で実行されたものといえるでしょう。この膨大な量の、漢字による墓碑銘書き直しは日本の歴史をゆがめる意図を持ってなされた、と思われます。
古事記では神話の主な舞台は九州高千穂であるかのように描かれています。案の定、それに照応するように、不自然にも九州地方にほぼすべて墓所が集中しています。例外は伊邪奈美命、スサノヲノ命と大国主命は山陰地方、中国地方、となっているだけで、これらも古事記で整合性があるのです。
筆者はこの漢字表記をしたのは藤原氏、もしくは秦氏であったと推定します。
池田氏のサイトの解析結果によれば、以下の神々(と徐福関係)の墓所はすべて九州地方、となってしまいます。あまりにも奇妙です。
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/RYOS1.htm
天伊邪那岐大御神
大気津比賣命
天照大御神
稚日女命/伝天照大御神妹
伊豫津比古命
天手力男神
高杵命/雫穂津比賣父
月読命
雫穂津比賣命
伊豫津比賣命/月読妃
天津國玉命
奈加登美命
伊斯許理度賣命
天石戸別命
天兒屋命
天鳥船命
建御雷男命
伊吹戸主命
徐 福
福永/徐福子
福萬/徐福孫
福壽/徐福曾孫
古事記の通りの瓊瓊杵尊の天孫降臨につじつまを合わせるために、天忍穂耳命の墓碑銘をどこかの大きな古墳に刻むことはしませんでした。しかし、九州に点在する古墳の中から適当に選び出して、そのほかの神話時代の神々の墓碑銘をそれらに刻んだのでしょう。上記の九州地方の古墳と墓碑銘に関しては、ほとんどがでっち上げと思われます。
古事記執筆時に天照大神を女神のように見せかける工作をします。古事記には瀬織津姫のことは一切記されていません。その一方で天のヤスカワにお住まいであったワカ姫を天照大神に見せかけようとする記述も見られます。
そのあたりに揺らぎもあったのでしょう。越木岩神社のワカ姫の奥都城には正直に稚日女命の名前を記しながら、九州にワカ姫の墓所をねつ造することはしなかったものと思われます。
本州、近畿地方では歴史時代に入ってきますから、政治の中心地でもあり、多くの他の豪族の監視の目もあるので、墓碑銘そのものを全く別人のものにすることはなかったのでしょう。
ですから、本州、特に近畿地方のものに関しては、年号、享年の改竄の可能性はあるものの、漢字表記に変えただけのものが比較的多くあると思われます。 しかし、その漢字への書き換えこそ渡来系氏族にとって、歴史を塗り替えるために必要なことだったのです。その主目的は奥都城に刻まれた古代文字=ヲシテ文字を中心とする各豪族の固有の神代文字を消すことにほかなりません。
池田氏が全国調査をして漢字表記が残っている墓碑銘から判断すると、秦氏と関わる徐福関係や秦氏渡来時に対立したと思われる皇族のお名前が残っていることから、この書き換えは秦氏が積極的に実行したのではないかと思えてきます。(これに関してはもう少し検討を要します。)
古事記という書物による歴史改竄につじつまを合わせるために、神社祭神をも変えていきましたが、特に神話時代の神々の奥都城をほぼ九州に追いやる形で藤原氏、秦氏は彼らに都合の良い記紀神話をねつ造したのでしょう。
もしこの仮説の通りだとすると、本当にひどい話です。