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八上白兎神社Ⅱと全国神話伝承他

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私都と藤原不比等・光明皇后

2011-10-25 10:15:00 | 歴史
 八上、現在の八頭町の私都(きさいち)地区、私都は本来 きさいべ、であり、天皇のお后とかかわりのある地名です。 
 奈良時代に、藤原不比等とその妻、県犬養橘三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)はその娘を天皇の后にしようとします。皇室とその親族以外の身分から天皇の后が入内する、これはそれ以前にはなかったことなのです。
 そのタブーを破って藤原不比等と橘三千代は自分の娘を入内させようとしたのです。これは藤原氏が覇権を握るための大きな出来事です。そしてそれは皇室にとっても一つの歴史的転換点となります。 この入内を成功させるために、橘三千代が誓願した三つのお寺の一つがなんと下私都の峰寺(みねでら)にある峰寺薬師です。ここは奈良法隆寺、三河鳳来山薬師寺と共に日本三大薬師と呼ばれているのです。ではなぜ、その一つがこの私都にあるのか、いままで大いに謎でした。
 その謎を、先日、八上の郷土史研究家の新誠さんとの話で解くことができました。
 私都は天照大神の正后、瀬織津姫を祀る神社が密集しているところであったことから、瀬織津姫と並々ならぬご縁を持っているところとして、おそらく全国的に有名だったのでしょう。
 自分の娘を是が非でも天皇の后にするためには、天照大神のお后である瀬織津姫にご縁の深いところにも誓願寺を建てる必要があると思ったのでしょう。そうして橘三千代・藤原不比等はその宿願を果たすために瀬織津姫と縁の深い私都にその薬師の寺を建立するのにふさわしい所として奈良の都から遠い八上をわざわざ選んだのでしょう。
 そうして実現したのが、聖武天皇の后、光明皇后です。その立后をさらに磐石にするために施薬院や悲田院を作って光明皇后の多くの美談を作り上げたもようです。http://bell.jp/pancho/k_diary-4/2011_0110.htm
 これが私都に誓願寺、日本三大薬師の峰寺薬師が建立された理由と思われます。
http://www.page.sannet.ne.jp/t_kawakami/minedera.html
 水野晴郎ふうに、「イヤー八上って本当におもしろいですね~」

ツアー7 神話伝承 川下神社 正法寺

2011-10-24 17:04:00 | 歴史
 ところで、兎は、因幡の陸地へ戻ろうとしました。かつてそこに棲んでいたからです。だからこそ因幡の白兎なのです。
 私なりの推論を立ててみました。
 おそらく兎が大雨による洪水で、氾濫した川へ流されて、河口を通過して海に流された、ということはありうる話です。しかし、日本海の70キロも離れた島根県隠岐まで兎が流された、とは考えにくいものです。
 現実的に考えると、その可能性を持つ因幡の気多郡、高草郡の地区で場所を探すならば、都合のよい地形はこの白兎海岸とオキノシマです。しかもオキノシマとその対岸の間にはちょうど鰐が並んでいるように見える岩礁がりますね。
 大昔に、竹草に伝わる、竹に棲んでいた老いた兎が洪水に遭って、沖合いに流されてしまった、という話は現実に起こったこととして捉えることができます。オキノシマに漂着した兎を誰かが、陸地まで戻してあげたことも充分に考えられます。ですから、古事記の舞台として、条件が揃っている場所はやはりこの白兎海岸とオキノシマである、と考えてもよいと思われます。おおむね、このあたりで八上に向かっていた八十神と大汝命が兎と出会った、というのはありえることだと思います。
もちろん長尾鼻と隠岐の島の説も有力です。このあたりは謎として、そのままにしておいてもよいのではないでしょうか。
 
 今回白兎海岸白兎神社も有力な場所である、というその考えを強く持つに至った根拠が、この亀井公の大阪で神社を厚く崇敬していた事実です。
 そこで菟というキーワードに亀井公がめぐり会ったこと、その後因幡の鹿野城主となって城下を整備する際に土地の神である白兎神が夢に現われてお告げをする、ということも充分ありうることです。そして、大汝命が自ら掘り出された井戸があることから大汝命がここをお通りになったこと、そして出会った兎の治療ために、あるいはここに住む土地の人々のために少なくとも数日間以上、この白兎海岸の場所にとどまられた、と考えることができます。兎の怪我が治ることまで古事記には記されているのですから、怪我の回復に数日はかかったものと思われます。
 
 川下神社
 ここはトヨタマヒメを祀る神社です。トヨタマヒメと言えば、ウガヤフキアエズノミコトを御出産されるときにワニの姿となって出産された、ともいわれています。
 この下の、あのオキノシマまで続く玄武岩の岩礁がちょうどワニのように見えることもあるでしょう。古事記の神話に登場するワニも祀る必要がある、ということで、祀られるようになったのでしょうか。実は驚くべきことに、トヨタマヒメがウガヤフキアエズノミコトをご出産された場所がここである、という伝承に基づくものだそうです。 
 毎年、8月1日の宵に元の社地で行われ、その夜は気多崎からオキノシマまでの海上に数百の神灯を流し、また奉納相撲、踊りなどが催されているそうです。
 
 バスでのトーク
さあみなさん、今回のツアーも残すところあと一か所の訪問のみとなりました。

 みなさん、いよいよ到着です。ここは河原町曳田にある正法寺です。今回のミステリーツアーを締めくくる上で、重要なものがここにありました。皆さんお楽しみにしてください。

 お堂の欄間に彩色の残る波ウサギの彫刻が2つ発見されたのです。みなさん、ご覧ください。
 
 神馬の伝説「神馬の角」に出てくる白馬の角を奉納したお寺です。伝説によれば、在原行平の孫、在原清兵衛が建立したと言われています。
 境内に、伊良子清白の著書「漂泊」の一節が刻み込まれた文学碑もあります。http://www.kawahara-shiro.com/introduction/

 これで、すべての訪問地を訪れることができました。
みなさん、いかがでしたか。まだまだ明かされていないことも多いですね。私もおおいに勉 強になりました。郷土にこんなに素晴らしい神々の伝承地があることを誇りに思ってください。そして、どんどん広めていきましょう。


ツアー2、青龍寺 八頭町門尾

2011-10-24 15:59:00 | 歴史
 2青龍寺
 青龍寺は中山千軒か寺とも言われていたほどの規模を持つお寺で、かつてはこの山の中にたくさんのお堂が立ち並んでいました。また下門尾の住民の方の中には遠い先祖が隠岐から渡ってきた人たちがいらっしゃるようで、隠岐の焼火権現(たくひごんげん)を祀るお堂があります。青龍寺は檀家のないお寺ですが、本尊の成田不動尊は多くは漁村の方たち、しかもはるか隠岐の島の方たちが信仰しています。実はちょうど今、青龍寺の城光寺住職は隠岐に出かけられているのです。こんな内陸部なのに、不思議ですねえ。
 ここに伝わる「城光寺縁起」に先ほどご紹介した、「天照大神と白兎の伝承」が記されていたのです。その内容とほぼ同じものが、現存はしていませんが、土師百井の慈住寺の縁起にも記されていました。また白兎の伝承は省かれているものの、天照大神の行宮・行幸伝承に関してはほぼ同じ内容で記されている「霊石山最勝寺縁起」があります。
 この「城光寺縁起」は将来国宝になってもおかしくないくらいの価値があると思います。 なぜならば、天照大神の伝承が残る場所は全国的に見てもきわめて珍しく、その数は10箇所にも満たないのです。しかも、因幡の伝承地はその関連の遺跡や神社を多く残して、そのうえ、河原町、八頭町、若桜町にまたがる広範囲であること、そのことが文書として残っているということに大きな意義があります。その内容と矛盾なく、それぞれの場所や遺跡が特定されることも含めて、全国を見渡しても天照大神伝承がこれほどはっきりと残っている場所は唯一この因幡の八上だけなのです。
 古事記、日本書紀の研究者の方々のほとんどは、今まで、天照大神はこの地上に降り立っておられない、天上の高天原におられた、天界の高天原から最初に降りてこられたのは「天孫降臨」というように、天照大神の孫であるニニギノミコトだという考えをもっています。 ですから天照大神が地上にその足跡をはっきりと残されているこの八上の伝承は、今までの記紀神話の捉え方を覆す大きな価値を持っているわけです。これは、全国の神話研究者に知らせなくてはなりませんし、皇室の方々や、伊勢神宮の方々にもお知らせする必要があります。

 バスでのトーク
さて、皆さん、今年は兎年ですが、兎と関連のある因幡以外の全国の神社を紹介しましょう。まずは山陰地方です。
伯耆(ホウキ)の国の中山神社の鷺の宮です。鷺宮には八上姫の幸魂も祀られています。こちらは、因幡の白兎神話とは少し異なる独自の白兎伝承が残っているところでもあります。
次に出雲の伊奈西波岐神社で、こちらは稲背脛命と大汝命・兎神・八上姫を祀っています。なんと出雲大社の真北に位置しています。
 群馬県高崎市京目町1741 和泉神社 主祭神: 菟神 須佐之男命
群馬県高崎市貝沢町332  五霊神社 祭神: 素兎神 他5柱
群馬県高崎市新保町1411 日枝神社 祭神: 大山祇命 素兎神 他11柱
群馬県高崎市中尾町347  飯玉神社 祭神: 宇気母智神 素兎神 他3柱
群馬県高崎市島野町676  島名神社 主祭神:彦狭嶋王ほか 合祀:因幡之白兎ほか
群馬県高崎市元島名町162 島名神社 主祭神:彦狭嶋王 合祀:白菟命ほか
群馬県高崎市南大類町692 大住神社 主祭神:菅原道真 配祀:白菟命ほか
群馬県前橋市稲荷新田町57 稲荷神社 配祀:菅原道真 素菟神
新潟県岩船郡関川村宮前37 光兎神社 祭神 月夜見命 光兎大神
新潟県新発田市大手町1-5-6 神明宮 主祭神:豊受姫命 配祀:大汝命,兎神他
三重県一志郡三雲町甚目444 龍森神社 祭神:正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 合祀:菟神,誉田別尊
和歌山県有田郡湯浅町湯浅1914顕國神社境内 若宮神社 祭神 素兎神ほか


ホツマが江戸時代の作でない決定的な理由

2011-06-12 21:54:00 | 歴史
 ホツマが江戸時代の作でない決定的な理由。
 それは、ホツマの専門研究者の手によらずとも、すでに結果的に間接的に証明されているといってよいでしょう。
 
 前回、ホツマ偽書論について記しました。音韻論の視点のみ、つまり神道についてほとんどご存じない飯間 浩明氏は論外としても、偽書論を展開した安達祐氏、原田 実氏、田中 勝也氏、藤原 明氏はホツマの成立を江戸時代より前にはさかのぼれない、とほぼ断言(推測)しています。
 ところが、このブログにおいても再三紹介しているように、もし仮にホツマが江戸時代の神道研究者によって記されたとしたら、絶対に書くことのできない内容が含まれていることをどう解釈すべきか、ということです。
 瀬織津姫を祭神とする廣田神社、日前宮、瀬織津姫を祭神としていた伊雑宮、この3つの神社は中世以降、祭神が瀬織津姫であることが一切伏せられていました。現代でも表向きでは瀬織津姫とかかわりがあるというふうにはほとんど認識されていません。
 ところが、(瀧原宮、)日前宮、伊雑宮、射射波神社(左記2社祭神は玉柱屋姫命で瀬織津姫のこと)、荒祭宮がそれぞれ瀬織津姫を祭神としていることを意識しているかのような福知山市大江町の元伊勢内宮本殿周囲の摂社群、これはホツマに記されている天照大神と瀬織津姫のご関係や、縁ある場所などについての知識がなければ、絶対にありえない配列となっているのです。
 ホツマには上記の廣田神社・日前宮、伊雑宮の場所が瀬織津姫と大いに関わるところであることが記されています。
 すでにこのブログで考察してきたように、瀬織津姫を日本の神社祭祀から外し、神名を変更し、神格を変更した、と見られる藤原氏の神道大変革は、奈良・平安を通じて一貫して進められてきました。
 つまり、瀬織津姫の名前や神格、瀬織津姫が天照大神の正后であること、についてはおよそ1300年にわたって、世間一般に秘されてきているのです。
 
 このことをふまえるならば、江戸時代の一地方に在住する一神道家がホツマの全ストーリーを自作したと仮定したとき、瀬織津姫に関連する神社だけに限定してもそれらが全て偶然に一致することが果たしてありえるのだろうか、ということです。

 菊池展明氏の瀬織津姫に関する研究によって、ホツマの視点からでなくとも、明らかに藤原氏が、記紀において意図的に瀬織津姫を抹殺し、神社の祭神名を変更し、神格を変えてきたことが実証されています。
 
 ある意味で、ホツマ専門の研究家よりも鋭く、元々の日本の神社祭祀と記紀との矛盾をえぐり出しているのです。
 結果として、この2氏による深くて地道な努力によって、少なくともホツマの内容の核心が、江戸時代以降の成立ではありえないことが証明されたといえるのです。
 
 今後、新たにホツマ偽書論を展開するのであれば、この点は絶対に不可避の問題として挙げられるべきでしょう。