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八上白兎神社Ⅱと全国神話伝承他

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全85条の聖徳太子五憲法

2013-04-17 12:02:00 | 歴史
 筆者は、六甲山と瀬織津姫とのかかわりについて調べていくうちに、役行者、空海、花山法皇、仏眼上人が、瀬織津姫祭祀の護持のために尽力されたことが判明し、そしてついには、その最初の担い手が聖徳太子であることにまで行き着きました。
 筆者は、一昔前までは、神道の皇室と日本国家に仏教をもたらした聖徳太子の政策は、渡来系勢力を利するもの、ホツマに基づく日本の根本精神を弱めるもの、という浅薄なとらえ方をしていました。 
 しかし、六甲山周辺の寺院を調べていくうちに役行者、空海に先行して、瀬織津姫と聖徳太子とのかかわりを見出したこと、そして、聖徳太子が仏教のみを崇敬、推進していたのではないこともはっきりとわかってきたことから、視点が180度変わってきました。
 すると、矛盾を強く感じるのが十七条憲法のあの気になる言葉です。 日本書紀記載の十七条憲法には、「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧である」と記されています。
 しかし、聖徳太子が神道をも重視していたことが、わずかに六甲山周辺を調査することだけからも把握できた現在、これはおかしい、という気持ちが高まってきました。 

 「仏、法、僧」の「法」が何を指し示しているのか、そして、仏、法に対等な位置としてはありえない「僧」を含めて三宝とする点には、ずっと違和感がありました。実は、これは改竄されたものだったのです。 三宝とは、本当は三法であり、「仏法僧」ではないのです。
 
 聖徳太子十七条憲法は実は五種類あり、そこに記されているのは三宝ではなく、三法です。そして、三法とは、神・仏・儒つまり、日本古来の神道と、仏教、儒教のことだったのです。 すでに、渡来系が4世紀ごろから大挙して日本へ渡ってきた際に、彼らの、思想的・宗教的よりどころとなる教えも伝わり始め、応神天皇の時代には、すでに、儒教思想も入ってきていました。仏教も公伝は、538年といわれていますが、私的に渡来系が持ち込み始めたのも相当早い時代からであったと思われます。
 以下はあるサイトから引用したものですが、改竄された部分の抜粋です。
http://www.geocities.jp/identaisi22000/kennpou.html
>改正前第十七条

 《十七に曰く。篤く三法を敬へ。三法は神儒仏なり。是れ百姓の總帰。万国の極宗。何れの世、何れの人、是の法を貴ばざらん。人、尤(もつと)も悪きは鮮(すくな)し。善く教ふれば之れに従ふ。三法を敬はずんば、何を以て枉(まがる)を直くせん。》

  改正後第二条(坂本ほか校注『日本書紀』。以下同じ)

 《二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝は仏・法・僧なり。則ち四生(よつのうまれ)の終帰(をはりのよりどころ)、万(よろづ)国の極宗(きはめのむね)なり。何(いづれ)の世、何れの人か、是の法(みのり)を貴びずあらむ。人、尤(はなはだ)悪しきもの鮮し。能く教ふるをもて従ふ。其れ三宝に帰(よ)りまつらずは、何を以てか枉れるを直さむ。》<
 日本書紀が、藤原不比等によって編纂され、日本の神話が徹底的に捻じ曲げられた代物であることは、以前にも記していますが、聖徳太子の御業績に関しても、書紀は相当な改竄をしていることをうかがわせます。 
聖徳太子十七情憲法は、全部で五種類で85条からなります。この憲法の根底にある道徳観は、ホツマにも通じるものがあり、さらに、現在の社会にもそっくり適用されうる内容を多く含むものと思います。
 故三波春夫氏が、この聖徳太子五憲法についてわかりやすく説いたものを著作として出版されています。

http://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%B8%89%E6%B3%A2-%E6%98%A5%E5%A4%AB/dp/4094026215

 ネット上では、こちらで、五憲法の全文を閲覧できます。わかりやすい現代語訳がついています。
http://www.kunidukuri-hitodukuri.jp/web/koso7/index.html#koso7_7

【連載】聖徳太子憲法の価値を見直そう
•鼎の法道 神職憲法 第17条(2012.12.21)
•籠の品道 神職憲法 第16条(2012.12.14)
•水の時道 神職憲法 第15条(2012.12.07)
•天の公道 神職憲法 第14条(2012.11.02)
•地の徳道 神職憲法 第13条(2012.10.12)
•車の司道 神職憲法 第12条(2012.09.28)
•日の主道 神職憲法 第11条(2012.09.21)
•花の事道 神職憲法 第10条(2012.09.14)
•龍の謙道 神職憲法 第9条(2012.09.07)
•契の信道 神職憲法 第8条(2012.08.31)
•冠の位道 神職憲法 第7条(2012.08.24)
•竹の官道 神職憲法 第6条(2012.08.10)
•鏡の智道 神職憲法 第5条(2012.08.03)
•台の政道 神職憲法 第4条(2012.07.27)
•月の禮道 神職憲法 第3条(2012.07.20)
•斗の順道 神職憲法 第2条(2012.07.13)
•琴の和道 神職憲法 第1条(2012.06.29)
•神官に対しての憲法 『神職憲法十七条』(2012.06.08)
•鼎の法道 釈氏憲法 第17条(2012.04.20)
•籠の品道 釈氏憲法 第16条(2012.03.23)
•水の時道 釈氏憲法 第15条(2012.03.09)
•天の公道 釈氏憲法 第14条(2012.02.24)
•地の徳道 釈氏憲法 第13条(2012.02.03)
•車の司道 釈氏憲法 第12条(2012.01.27)
•日の主道 釈氏憲法 第11条(2011.12.30)
•花の事道 釈氏憲法 第10条(2011.08.19)
•龍の謙道 釈氏憲法 第9条(2011.07.15)
•契の信道 釈氏憲法 第8条(2011.06.24)
•冠の位道 釈氏憲法 第7条(2011.06.17)
•竹の官道 釈氏憲法 第6条(2011.04.29)
•鏡の智道 釈氏憲法 第5条(2010.08.20)
•台の政道 政家憲法 第4条(2010.08.06)
•月の禮道 釈氏憲法 第3条(2010.07.23)
•斗の順道 釈氏憲法 第2条(2010.07.09)
•琴の和道 釈氏憲法 第1条(2010.06.18)
•仏教者に対しての憲法 『釈氏憲法十七条』(2010.06.18)
•鼎の法道 通蒙憲法17条(2010.06.04)
•籠の品道 通蒙憲法16条(2010.05.21)
•水の時道 通蒙憲法15条(2010.05.07)
•天の公道 通蒙憲法14条(2010.04.16)
•地の徳道 通蒙憲法13条(2010.04.02)
•車の司道 通蒙憲法12条(2010.03.19)
•日の主道 通蒙憲法11条(2010.03.05)
•花の事道 通蒙憲法10条(2010.02.19)
•龍の謙道 通蒙憲法9条(2010.02.05)
•契の信道 通蒙憲法8条(2010.01.15)
•冠の位道 通蒙憲法7条(2010.01.01)
•竹の官道 通蒙憲法6条(2009.12.18)
•鏡の智道 通蒙憲法5条(2009.12.04)
•台の政道 通蒙憲法4条(2009.11.20)
•月の禮道 通蒙憲法3条 (2009.11.06)
•斗の順道 通蒙憲法2条(2009.10.23)
•琴の和道 通蒙憲法1条(2009.10.09)
•公務員に対しての憲法 『通蒙憲法十七条』(2009.09.24)
•鼎の法道 政家憲法17条(2009.09.11)
•籠の品道 政家憲法16条(2009.08.28)
•水の時道 政家憲法15条(2009.08.13)
•天の公道 政家憲法14条(2009.07.24)
•地の徳道 政家憲法13条(2009.07.10)
•車の司道 政家憲法12条(2009.06.26)
•日の主道 政家憲法11条(2009.06.12)
•花の事道 政家憲法10条(2009.05.22)
•龍の謙道 政家憲法9条(2009.05.20)
•契の信道 政家憲法8条(2009.04.03)
•冠の位道 政家憲法7条(2009.02.20)
•竹の官道 政家憲法6条(2009.02.06)
•鏡の智道 政家憲法5条(2009.01.23)
•台の政道 政家憲法4条(2009.01.09)
•月の禮道 政家憲法3条(2008.12.29)
•斗の順道 政家憲法2条(2008.12.05)
•琴の和道 政家憲法1条(2008.11.28)
•政治家に対しての憲法 『政家憲法十七条』(2008.11.14)
•鼎の法道 儒士憲法17条(2008.11.07)
•籠の品道 儒士憲法16条(2008.10.10)
•水の時道 儒士憲法15条(2008.09.26)
•天の公道 儒士憲法14条(2008.09.12)
•地の徳道 儒士憲法13条(2008.08.01)
•車の司道 儒士憲法12条(2008.07.18)
•日の主道 儒士憲法11条(2008.04.30)
•花の事道 儒士憲法10条(2008.04.22)
•龍の謙道 儒士憲法9条(2008.03.11)
•契の信道 儒士憲法8条(2008.03.07)
•冠の位道 儒士憲法7条(2008.03.04)
•竹の官道 儒士憲法6条(2008.02.29)
•鏡の智道 儒士憲法5条(2008.02.26)
•台の政道 儒士憲法4条(2008.02.22)
•月の禮道 儒士憲法3条(2008.02.15)
•斗の順道 儒士憲法2条(2008.02.12)
•琴の和道 儒士憲法1条(2008.02.08)
•儒学を教える人に対しての憲法 『儒士憲法十七条』(2008.02.01)
•聖徳太子憲法の価値を見直そう(2007.07.01)
 
 不比等が、五憲法を抹殺したのは、間違いないでしょう。そして、神道を抹殺しようとする姿勢がここにはっきりと表れています。
 彼ら藤原不比等とその思想継承者のになった政治とは、このような倫理観を一切否定したものであるという史実が、何よりそれを証明しています。

 聖徳太子には17という数字に何らかのこだわりがあることもわかります。  
2通りの推論として、 豊受大神を示す9 天照大神・瀬織津姫を示す8の総計で17 もう一つは8代目天照大神と瀬織津姫、9代目天忍穂耳命とタクハタチヂ姫、やはり8 と 9で17。このいずれかではないかと思われます。






因幡と役行者

2012-12-11 17:01:00 | 歴史
 役行者についていろいろ調べていますが、八上・因幡と役行者の関係については、筆者は何も知らなかったので、検索で調べてみました。すると、一か所岩美郡にありました。

 以下はメールマガジンとっとり雑学本舗からの引用です。
http://www.pref.tottori.jp/kouhou/mlmg/topics/673_2.htm
 >因幡国の霊山「行者山」

   世界遺産への登録運動を推進中の三朝町の三徳山。今月13日には倉吉市で「三徳山世界遺産登録運動推進シンポジウム」が開かれます。官民一丸となって機運をさらに盛り上げ、ぜひ登録の実現に結びつけてほしいものです。
   
   ところで、この三徳山や県西部の大山は、古代山岳信仰の聖地として全国に広く知られていますが、県東部にも一大修験霊場があったのをご存知でしょうか。それが今回ご紹介する「行者山(ぎょうじゃさん)」です。
  
   行者山は、岩美町の荒金集落の南方にある標高555メートルの山で、伯耆国の三徳山とともに、因幡国における「国峰(こくぶ)」と呼ばれていました。国峰とは、一般的に、古来山岳信仰の対象であった地方霊山の総称を表す言葉です。

   また、行者山の名は修験道(しゅげんどう)の開祖にして妖術を使うという役行者(えんのぎょうじゃ)に由来し、地元では「氷ノ山にいた役行者は、因幡の山々を見回して行者山を見つけると、空を飛んでやってきた」 という伝承が残っているそうです。
  
   この行者山を、江戸時代に建てられたという道標や遍路道を示す丁石を手がかりに歩き始めると、「弁天堂」と呼ばれるお堂にさしかかります。
  ちなみに、このお堂は明治33年にあらたに建てられたもので、行者山は明治時代まで女人禁制であったため、女性はここまでの参拝しか許されなかったとか。
  
   そして、この先の険しい悪路を登り続け、山頂近くにたどり着くと、役行者を祀る「行者堂」があります。行者堂は頂上付近にある岩窟に収められるように建てられた1間半四方のお堂で、中には約80センチメートルの役行者の木像が安置されています。

   また、さらに進んだ先にある小さな祠(ほこら)では、1701年に作られたという、約60センチメートルの役行者の木像のほか、小さな焼けた木片が祀られています。この木片は「岩美町誌」によると、「秀吉の鳥
  取城攻略で、大伽藍(だいがらん)を消失したときのもの」とされ、地元では「役行者が下駄を焼いて置いた」とも言い伝えられているそうです。
  
   この行者山。現在は地元住民以外の登山者はほとんどないそうですが、岩美町観光協会の網谷竹敏(あみたにたけとし)さんは「現在三徳山がクローズアップされている中、この行者山も山岳信仰の歴史を伝える貴重な存在」と、観光資源として今後もっと売りだしたいと意気込んでいます。

   皆さんも行者山へ山伏たちの足跡をたどりに、山伏気分になって登ってみてはいかがでしょうか?なお、入口や登山経路が分かりづらいので、入  山の際には、以下のお問い合せ先にご確認ください。
                               (UM)
    ○行者山
      所在地:鳥取県岩美郡岩美町荒金
      アクセス:JR岩美駅から車で約15分
           JR鳥取駅から車で約40分
           中国自動車道「佐用IC」から国道373、53号を
           北上・約2時間

    ○お問い合わせ先
      岩美町観光協会(電話0857-72-3481)
      岩美町産業観光課(電話0857-73-1416)
                               <

http://dozibigo.exblog.jp/14487072/

http://www.iwami.gr.jp/dd.aspx?itemid=3539

真名井御前御出身地は加悦町香河!!!

2012-12-11 16:59:00 | 歴史
 空海とともに、瀬織津姫の祭祀をお守りになられた真名井御前について、調べられた論文があります。
 『御影史学論集』18号(合本:大阪府立図書館、兵庫県立図書館所蔵)の河出雅子氏の論文、「如意輪観音の研究~如意尼と日下部氏~」
 この論文には多くの興味深い研究諸成果が展開されています。
 まず、真名井御前の御出身地は丹後半島、現在の京都府与謝郡与謝野町の香河(かご)というところであると指摘されています。(そこへは筆者も、大学に入学して間もなくの歴史研究サークルに入会して5月、7月に計3回訪れているところでした。しかもその約10年後から現在まで家内が京丹後市出身のため、里帰りのたびに、今も付近を通過しています。)
 ここは元伊勢内宮の神体山である日室嶽の真北にあたるところで、そのライン上に神戸市北区の天忍穂耳命を祀る小部杉尾神社があります。(そうとも知らずにちょうど本日、兵庫県立図書館へ向かう際に六甲山の尾根を経由してそのわきを通りました。)
 筆者は最近まで、真名井御前は、籠神社海部氏の系統の方厳子(いつこ)様という方だと思っていたのですが、浦島の玉手箱を調べていくうちに、そうではないことがはっきりとしてきました。小萩様という方だそうです。 

 これについてはすでにネット上にも紹介されています。
http://www.geocities.jp/k_saito_site/bunkn55.html
>西禅寺(与謝野町石川)
『丹後旧事記』

 石川郷香河村。
 むかし京師の沙門倉橋川の辺を徘徊せるに川水えならず匂ひければ怪しみ流を伝ひ一村に至るに香気ますます盛んなれば里民に問さとの者曰く此村の貧家に子なきものあり天に祈りて一人の女子を得る此子生れ落ると此辺薫し渡る事三里四方なり誠に世にも類なき美小児なりことし七歳に及ぶといふ。沙門則其家に尋入り見るに小児のかんばせ白玉の如く香気は少女が身より出る事桜花の匂へるに異ならず父母に乞受けて都に誘ひて朝廷に奉りければ御寵愛浅からず終に天長のころ淳和天皇の皇妃に召上られ與佐の宇屋居子と申せしとかや元享釈書に如意尼は天長の帝の次妃丹後国與佐の郷の人なりとあり薙染の後旧里へ帰り一宇の精舎を建立して養法寺と名付られける。今其寺跡田地の字と成て世に伝ふ手づから彫刻の本尊観世音菩薩は養法寺破壊の後小萩の草堂に安置らしも今は名のみ残りて石川村西禅寺と云に有この尼は浦島の同じ血脈なり浦島が玉手箱を得て空海大士に奉り玉ひこの箱を以て空海雨をふらせ玉ふことは釈書に委し。<

>『丹後の民話』(関西電力)

加悦町
慈雲寺のはなし
あれこれといい伝えがある。その中から…
 丹後の加悦町に香河という部落がある。昔、竜がこの地におりて、しばらく天に昇れなくなったことがある。ちょうどある時、竜巻が起こり、これに乗って昇ろうとしたが、運わるく月のもののある不浄の女にその姿を見られてしまって失敗した。この次昇ろうとするには、山に千年、海に千年の修行を積まねばならない。だが高僧の経を賜ることができれば昇天できるので、竜は女に化身し、供養を行うためと言って、この部落の慈雲寺に参詣してきた。
 当時この寺に名僧がいたが、「当寺は女人禁制であることを知らずに参ったのか……。また経を希望するならば、化身でなく、真の姿となって参られよ」と言われたので女はいったん寺を出たが、こんどは大竜となって姿をあらわし、ふたたび寺を訪れた。そして住僧からありがたい経をいただき、その功徳によって、いよいよ天に昇る際に、謝礼のしるしとして、わが前足の先をかみきって寺に置いていったという。これが寺宝〝竜の鱗″の由来である。
 この慈雲寺にまつわるもう一つの話がある。この寺の付近に 〝小萩の屋敷跡″ というのがあるが、むかしここに貧しい百姓家があった。夫婦の間に子供がないので天に祈って女子を授かった。
 そのころ都から来た旅の僧が、芳香を放っている河水にひかれて上流の里にいたり、山村には珍しい美少女に出あった。僧はこの少女の父母にあって、「この児を私にくださらぬか。都へつれ帰って必ず大切にお育ていたしますじゃ。どうか、ぜひに」と懇望され、父母も、「大切な神からの授かりものの児ですが、ごらんの通り毎年のように洪水で田んぼを荒され、その日の暮らしにも困っておりますだ。大切な児で手放したくはありませんが、いまはもう育ててゆく力も無うなりました。どうか、なにぶんよろしゅう願いますだ」と承諾した。娘の名は小萩といって、そのとき七歳であった。泣き泣き父母と別れ、僧につれられて西国霊場を巡拝して後に項法寺という寺へ預けられた。
 小萩が十九歳になった時、当時三十七歳の皇太子のお耳に入り、宮中へ召された。小萩は皇太子妃となり、やがて皇太子は即位されて淳和天皇となられたので、小萩は皇妃となって寵愛をうけ、宮中では与佐の宇屋居子または厳子と呼ばれていた。
 ところが、小萩は、宮中へ出入りする僧、空海の信仰にひかれ、深く仏道をきわめたく発心し、ついに待女二人を連れて宮中を抜け出し、空海に弟子入りし、剃髪して「如意」の法号をもらい、侍女二人も尼になって摩耶山に入った。
 如意尼三十三歳のとき、師の空海の死に接し、無常を感じて帰郷を決意し、西院に天皇を退位された淳和上皇を訪れて別離のことばを述べ摩郡山を去った。
 上皇から授かった書、御下賜金の一部をもって、故郷の香河に草堂をつくって、上皇のために仏の加護と師空海の冥福を祈願した。この草堂がのちに、〝竜の鱗″ の寺、慈雲寺となったのである。
 如意尼は他にも付近に善法寺や慈観寺も創建している。(俵野・井上正一様より)<
 
香河の概要
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/kago.html

北近畿~天然水を求めて
http://mizukumiman.blog.fc2.com/blog-date-201207.html

豊中歴史同好会

2012-11-10 17:05:00 | 歴史
http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/2012.html

昨日、11月10日、豊中歴史同好会の方よりお誘いを受けて、塚口教授の講演会に参加してまいりました。文献史学と考古学の出合い、というコンセプトのもとに日々研究活動をされている団体です。豊中という地域名を冠してはいますが、参加される方やフィールドは広範囲にわたります。常識にとらわれないアプローチをされています。
 http://homepage2.nifty.com/toyonakarekishi/index.html 

 実は、豊中歴史同好会より、来年3月に、講師として招かれています。  会のその趣旨からは外れるとんでもないお話を私が引き受けさせていただくことになっており、どうなることやら少し心配ですが、民話という扱いで、お話をさせていただきます。

玉置山 大日堂

2012-10-13 14:22:00 | 歴史
 10月8日、奈良の玉置神社へ参拝してきました。
 役行者も空海も、花山院も修業をされた玉置山。
 本殿主祭神は国常立命です。
 本殿に向かって左側に大日堂があり、仏教的に表現すれば天照大神の本地、大日如来が祀られています。
 そして、かつては境内の別の場所に祀られていた瀬織津姫の本地仏=弁財天が、現在はこの大日堂に安置され、しかも、大日如来の向かって左側に祀られているということが判明しました。
 ちょうど8日はお堂の扉が開かれる日で、本堂の中の六角形の内陣厨子を拝することができました。
玉置山の真北に天河弁財天が位置し、そこを頂点として、伊勢内宮と六甲比女神社が位置しています。