
きらめきプラザ八頭がオープンした本日、今日から大きく地元のパワーが開花することでしょう。
この写真は、福本白兎神社から八上姫を祀る賣沼神社、簗瀬山の嶽古墳方面を望む風景です。斜めの稜線がはっきりと遠くからもよくわかります。

そしてこちらは反対方向の北東方向の風景です。こちらも斜めの稜線がはっきりとわかる山があります。夏至冬至ラインの始点の目印とされた、と想像します。

この写真は、福本白兎神社から八上姫を祀る賣沼神社、簗瀬山の嶽古墳方面を望む風景です。斜めの稜線がはっきりと遠くからもよくわかります。

そしてこちらは反対方向の北東方向の風景です。こちらも斜めの稜線がはっきりとわかる山があります。夏至冬至ラインの始点の目印とされた、と想像します。

八頭町大江谷橋本=才原にある大己貴命の腰掛石です。
地元、手尾の方に場所をお聞きしてやっと見つけることが出来ました。手尾のバス停の隣にも石が祀られており、これがもしや、と思ったのですが、その方にお聞きすると、それは「ドウロクシン」(=交通の守り神=道祖神か?)と呼ばれているそうです。 (ちなみにその方のご先祖は小庄屋で、江戸時代、参勤交代で鳥取城の殿様が、河原を通るときに、毎回、参列の通るのにあわせて屏風を飾りに行っておられたそうです。その役割にも関連がありそうです。)
写真右側に写っている白い建物が、今やその名を県外にもとどろかせている大江ノ郷自然牧場のお店です。http://www.oenosato.com/
大江牧場のお店からさらに、谷のほうへ100メートル進むと因幡二ノ宮といわれる大江神社が西側の山麓にあり、腰掛石はちょうど神社の前にある道を東へ進み、突き当りを少し谷のほうへ行ったところ、つまり大江神社の真向かいの山の麓にあります。
中性に、大江神社は、大江川の東側にあったということですから、おそらくこの腰掛石のある辺りがかつての境内地であったと思われます。
それにしても、わずかに残る、大己貴命の伝承地、才原とは、大己貴命がここへお越しになって、民に農業の手ほどきを伝授して、村が宝(田から)の山になったことから、財原と呼ばれるようになった所です。大己貴命を祭神とする神社は数知れず存在しますが、伝承を残す神社は意外に少ないものです。
八上には本当に貴重な神代の遺産があるのです。
また、案内してくれた方のお話によると、手尾の集落の荒神谷にはかつて、大きなケヤキの木があり、その木の影があまりに長く、半日しか陽が指さなかったことからカタヒラ、と呼ばれるようになったところがあるそうです。その後、そのケヤキの木は、あの波乗り白兎の彫刻のある、因幡船岡駅前の西橋寺本堂の丸柱として使われたそうです。


地元、手尾の方に場所をお聞きしてやっと見つけることが出来ました。手尾のバス停の隣にも石が祀られており、これがもしや、と思ったのですが、その方にお聞きすると、それは「ドウロクシン」(=交通の守り神=道祖神か?)と呼ばれているそうです。 (ちなみにその方のご先祖は小庄屋で、江戸時代、参勤交代で鳥取城の殿様が、河原を通るときに、毎回、参列の通るのにあわせて屏風を飾りに行っておられたそうです。その役割にも関連がありそうです。)
写真右側に写っている白い建物が、今やその名を県外にもとどろかせている大江ノ郷自然牧場のお店です。http://www.oenosato.com/
大江牧場のお店からさらに、谷のほうへ100メートル進むと因幡二ノ宮といわれる大江神社が西側の山麓にあり、腰掛石はちょうど神社の前にある道を東へ進み、突き当りを少し谷のほうへ行ったところ、つまり大江神社の真向かいの山の麓にあります。
中性に、大江神社は、大江川の東側にあったということですから、おそらくこの腰掛石のある辺りがかつての境内地であったと思われます。
それにしても、わずかに残る、大己貴命の伝承地、才原とは、大己貴命がここへお越しになって、民に農業の手ほどきを伝授して、村が宝(田から)の山になったことから、財原と呼ばれるようになった所です。大己貴命を祭神とする神社は数知れず存在しますが、伝承を残す神社は意外に少ないものです。
八上には本当に貴重な神代の遺産があるのです。
また、案内してくれた方のお話によると、手尾の集落の荒神谷にはかつて、大きなケヤキの木があり、その木の影があまりに長く、半日しか陽が指さなかったことからカタヒラ、と呼ばれるようになったところがあるそうです。その後、そのケヤキの木は、あの波乗り白兎の彫刻のある、因幡船岡駅前の西橋寺本堂の丸柱として使われたそうです。


拙著で紹介した、八頭町宮谷の賀茂神社の額です。拙著では写真写りが良くなく、見えにくかったので、ご紹介しました。少し前の御湯神社の波ウサギも拙著に掲載する予定となっていたのですが、手違いで載らなかったため、紹介した次第です。

