奉(とも)の独り言

「オギャー」と泣きながら生まれてきました。
だから、死ぬ時は、笑って死ねるように生きたい!

生きる(14)

2007年02月17日 | 生きる「強皮症の母と」
毎日、病院に見舞いに行くと、患者さんとも顔馴染みになって又、それも
楽しいものです。
ましてや、母と同じ病室の方は、母に「今日は朝ごはんは何だった?
今日は、風呂入ったの?体の調子は?」と訊ねると、母が答えるより
先に、答え・返事が返ってきます。

病人ですから、静かにしていて貰いたい時もあるでしょう。
静かに寝ていたい時もあるでしょう。
でも、いつも、皆気持ちよく私を迎えてくれます。
私を、実家に帰ったような気持ちにさせてくれます。

母の病状は、見た目には以前より、元気になりました。
手足の腫れは、見ていても本当に痛々しかったのに、
今ではすっかりひいています。
逆流性食道炎による痰の絡みも少しは和らいでいるようです。

見舞いに行く度に
母の背中、母の手、こんなに小さかったのかと、今更ながらに思います。
「随分苦労かけたからね」って言葉に出して言いたいけど・・・
もう少し、心に仕舞い込んでおきます。

     写真:熊本県・阿蘇


生きる(13)

2007年02月16日 | 生きる「強皮症の母と」
父を送ったときは、親戚・兄弟に何度「危篤」の知らせを送った事だろう。
その度に、皆が見舞いに遠くから来ては・・・
曾孫・孫・子供の顔を見ては、元気になり、10日後には、又「危篤」の
知らせをする。
そんな事が何度あったであろうか。

皆それぞれ、仕事があり、何度も休む訳に行かない。
でも、両親と暮らしている私は、何度でも、医者から「今日がヤマ場です」と言われれば連絡をしない訳にはいかない。

それでも、兄弟は皆、夫婦で駆けつけてくれました。

今、母の見舞いに兄弟・親戚が一週間来てくれました。
明日、皆帰ります。
母は今、以前とは見違えるように元気になりました。
外泊・外出の許可を貰い、家にも二度帰ってきました。

急に寂しくなります。
母が寂しがらないように、と皆から頼まれますが・・・
私でさえ寂しくなると感じているのに、母を寂しがらせないように出来る訳が
ありません。
只、母とお喋りをしに病院には、毎日時間の許す限りは行きます。




生きる(12)

2007年02月15日 | 生きる「強皮症の母と」
「二度と家に帰る事が出来ないかも・・・」その覚悟をさせられた。
そんな、母の病状はすこし良くなっているのか?医者から、
リハビリを来週から開始します。
その後、家に帰れるようにします。
有り難い事ではある・・・・!

医療制度改革によるリハビリの打ち切りで、帰れるのか・・
そんな事が脳裏をかすめる。

以前もリハビリの打ち切りで70日ぐらいで、まだリハビリが必要なのに
退院させられた。
もう少しリハビリをしていたら、母はモット元気だったはずだ・・・
もう少し歩けるようになっていたのは間違いない!

然し、今度は「母が生きて帰る事のない家」と思った家に帰れるんだ。
自分に出来る事の精一杯をしよう。
背伸びをせずに、無理をせずに、自分に正直に!
母の笑顔が今日よりも、一つでも増えるように・・・!


生きる(11)

2007年02月13日 | 生きる「強皮症の母と」
母の元気なうちに会えて良かったと叔父が話す。
私は、一人病院に帰った母が、楽しかった時間以上に今、寂しさを感じているであろうと心を痛めている。

かと言って、叔父に会わせた事を後悔はしていない、それどころか、叔父には感謝しても感謝しきれない程の気持ちである。
喜びの後は悲しみが必ず訪れるのだろうか?

そんな事を考えながら、母の見舞いに行く。
顔色が悪い。
下痢をしているとの事、3日間続いているらしい、早速インターネットで強皮症の症状を調べる、便秘・下痢の文字が目に飛び込む。
病状が悪化してるのか?
手足の腫れがひいて、安心していたのに・・・・

叔父に会えた事を母も喜んでくれた。
「嬉しかった分寂しいね?」って聞く。
「会えて良かった。元気になって今度は自分から会いに行く」と言う。

母の前向きな姿に少し元気を貰った。

生きる(10)

2007年02月12日 | 生きる「強皮症の母と」
楽しい時間は、あっと言う間に過ぎ去りました。
今日の夕方6時に母を病院に送ってきました。
このまま、家に居たいであろう母の気持ちを思う時、切なさを感じます。
母は、母で家に居ると、皆の手を煩わせる事を知ってか悲しい顔を見せずに
帰りました。
 
老いていくことの苦しみ、病の苦しみ、別離の苦しみと戦いながら・・・

確かに歩く事の出来ない母を看病する事は気を使います。
下の世話一つにしても大変です。
それは、世話をする方も、される母も同じでしょう。
でも母の居ない家はそれ以上に、寂しいものです。

母は多分、子供に気を使わせるよりは・・・
子供に下の世話をさせるよりは、自分が我慢をした方がと考えているのだろう。

子供の優しさが時として重荷に感じるのか・・・
自分自身に歯痒いのか憎まれ口を言います。
親子だから許しあえる口喧嘩です。

もっと口喧嘩もし、笑い声も聴き、日常の会話を何気なく・・
只、親が生きてるというだけで良いのです。

生きる(9)

2007年02月11日 | 生きる「強皮症の母と」
我が家から久し振りの笑い声が、近所の迷惑も省みずこぼれる。
今日は母の90歳の誕生日である。

遠くから叔父、姉夫婦が母の誕生日を祝いに掛け付けてくれる。
私は、母の外泊の許可を病院に打診するも断られ、兄への言い訳の言葉と母のガッカリすれであろう姿を思うと、見舞いに行くのを躊躇してる。
今日、見舞いに兄夫婦が来る事、叔父が来る事を母に伝えた、今日家でお祝いをしようねって・・・母に言った自分の軽率な言動が心に重くのしかかる。

「今度は無事に家に帰る事が出来ないでしょう」と先生の言葉が胸を締め付ける。
部屋を掃除して、母の洗濯物を洗い気を紛らわす。

憂鬱な時間の中突然携帯電話が鳴る。
病院からである。「先生から外出許可が出ました」
嬉しさと安堵感・・・
「では。今から直ぐ母を迎えに行きます、宜しいですか」「ハイ」
病院と我が家は歩いて5分である。
こんなに近い病院を、遠くに感じていたんだなぁ・・・私がこんな気持ちでは・・
母が帰りたい時はいつでも、帰らせてあげよう、そう考えながら迎えに行く私、
先程までの憂鬱な気持ちは何処へやら・・
足取りも軽くなり、母の喜ぶ姿が目に浮かぶ・・・
「母ちゃん、家に帰るよ」「先生が駄目って、まだ、外出は無理って」
「先生から許可を貰ったから」「本当ね!」
「本当たい、車椅子でこのまま帰るばい」
嬉しそうは母。
携帯が鳴る。
「トモか、家に着いたけど、今何処に居ると?」
「うん!病院、今から母ちゃんを連れて帰るけ、待っとって」
誕生日祝いに花束、赤飯を作って来た兄夫婦、何十年振りに会う叔父に、涙を流し
喜ぶ母。そんな母の姿を久し振りに見た。
笑顔が一番の薬なのか・・・母の久し振りの大声での笑いに病魔が逃げ出したのか・・・いつもなら「疲れた、横になる」と言う母。
時間の経つのも忘れ、我が家から笑い声が夜中も響く・・・ 
そんな母に時間が遅いから今日はこれで寝ようと頼み込む息子。
もう、夜が明ける。





生きる(8)

2007年02月10日 | 生きる「強皮症の母と」
{このまま死ぬかもしれないなぁ。最後に会いたかったなぁ。}
意識が薄れていく、頭の中が空っぽになって気持ちがいい。
{このまま死んでもいいか}
2005年12月31日の事である。
実はその5日前に十二指腸潰瘍の手術をして退院したあくる日の事です。
「先生、又下血しました」「今日は病院は年末で担当の先生が休みなので、
・・病院に行って下さい。先方には連絡しておきますから」
兄の運転で兄弟3人に付く添われ病院に着く。
指定された病院に来て、2時間待たされ、血圧・体温等の測定が始まる。
「先生、血圧が75/40です」
紹介先の病院からのカルテに目を通しているのか、担当の先生は来ない。
そんな中、意識が段々薄くなっていく・・・
意識が薄くなるにつれ、頭の中は空っぽになり、気持ちがよくなっていくものである。時計の針をじっと見つめる、両側には救急車で運ばれたのか、今にも死にそうな患者が、大声で唸る。
「十二指腸に穴が空いています。かなり出血されていますので一応内視鏡手術をします、それで駄目な場合は外科手術に移行します。
外科手術になりますと、出血しますし、万が一の結果になるかも知れませんがいいでしょうか?」
「先生、成功の確率は何%位ですか?」「何とも言えませんが30~40%位です」
「お願いします」
人生って終わる時はこんなもんかな・・不思議と、モット生きたい。死にたく無いといった感情が湧かなかったが不思議である。
意識が薄れていく時は不思議と気持ちがいい、
そんな中、看護婦が、これからの手術の説明・手術に当たっての同意書の説明と
捺印を私に求めるも、字を書くのもヤットである。手の人差し指に朱肉を付け、
書面に誘導してくれる。
それから先は如何して手術室まで運ばれたのか記憶にはない。
目が覚めたのは、点滴をされ、色んな機械が横にあり、手術を今からするのか、
それとも終わったのか、キョロキョロしていると、看護婦か無事に終わりましたよ。800CC輸血しました。家族の方は帰られました。又後で来るからとの事でしたと教えてくれた。
成功したんだ、腹は、傷が無い。内視鏡手術で成功したんだ。
涙が一粒・・・

ピロリ菌による十二指腸潰瘍です。
全く痛みもありませんでした。
夕食後、胸が急にムカつき、もどしましたが自分では完全に
食中りと思い込んでいました。トイレには何度も行きました。
7回程行ったと思います。
トイレを終え立ち上がると目眩がしました。
歩く事さえフラフラしてキツイのです。
食中りにしてはおかしいとその時初めて思いました
次のトイレに行ったときに、初めてトイレットペーパーと便器を見ました。
真っ黒でした。
臭いました。臭いが無いのです。
その時、下血してる事に気が付きました。
自分で救急車を呼び、最初の手術をしました。





生きる(7)

2007年02月08日 | 生きる「強皮症の母と」
「介護に疲れて母親を殺害」!悲しい記事を目にする。
一人で何もかも背負ってしまったんですね。
週に1,2日はヘルパーさんにお願いするとか、ディサービスを利用し、自分を
少し開放しないと、殻に閉じ込まってしまうと悪い方へ、悪い方へと自分を追い込んでしまうものです。
母の見舞いに行くと病室が変わっていました。
いつも、病室の入り口のおばあちゃんに挨拶すると「お帰りなさい」って言ってくれていましたが、今日は「お母さんは病室変わったよ」って・・
折角、おばあちゃんとも友達になれたのに・・
今度の病室の方々は、歩ける人、車椅子で自分で移動できる人達のようです。
病室には、母一人がベッドの上に座っていました。
病室が変わったばかりで、話し相手がいないのか、何時もの元気なし!
「気分はどうね?」って聞くと「寝かせて」って言うから薬を飲ませて、横にさせて、又明日ね!って帰る。




生きる(6)

2007年02月07日 | 膠原病
「トモノリ見て、ほら手が、手に血管が」と見舞いに来た私に嬉しそうに微笑んで
喋る母
「あぁ、母ちゃんの手に皺が」と私
母の病気は強皮症です。手は硬くてまるで石ころみたいに皮が硬く、皺も出来ません、皮を摘む事も出来ません。
その母の手の甲に血管が出ています。
「母ちゃん、手が少し柔らかくなったね」って言って手を擦る私
「薬が効いてきたっちゃなかろうか」と母
「薬が効いてきたとよ」と私
二人で「病気が治りよるとよ」と笑う
指の関節は曲げるために血が出、かさぶただらけの手。
老人の手で有れば普通に血管が出て当然なのに・・
本当に小さくなった母の手・・
こんな小さな手で私を育てたのかと・・・
今更ながらに感謝しながら手を擦る私。
母の誕生日には、兄夫婦が来ると知らせがある。
母が子守をした叔父も来る。母からすれば甥である。
その知らせを母には伝えてはいない・・・
当日になって来られないじゃ母が悲し過ぎる。





生きる(5)

2007年02月07日 | 生きる「強皮症の母と」
6年前に父を亡くしました。丁度母と同じ90歳でした。
入院して3ヶ月で旅立ちました。「肺水腫」でした。
仕事帰りには毎日見舞いに行き、バナナ・イチゴをつぶして食べさせました。
私は父の43歳の時の子供です。
小学生の頃は父は50歳過ぎで又、頭も禿げておりましたので、友達の父親と比較しますとたいそう老人に見えましたので、そんな父を嫌っていました。
父とは必要以上に接する事は有りませんでした。
でも、人間として、人の悪口一つ言わない父・誰にも笑顔で接する父を尊敬はしておりました。
父の入院期間中が一番父と接する事の出来た時間です。
いつも「ありがとう」と言う父に会いに行くのが楽しくて・・・・
そんな父も人工透析をするようになり、透析中には血圧が上が60ぐらいになるのです。すると先生を呼び透析を中止します。
透析がかなり辛そうでした。
そんな日が1ヶ月ぐらい続きました。
あくる日先生が「明日の透析は如何しますか?ご本人さんも大変辛そうですし・・」「中止してください」と答えました。
父が亡くなったのは、明け方5時半です。
毎日病院に、時には会社も休んで・・・でも最後の最後に父に会えませんでした。
今も病院の前を通ると、最後に父は何か言いたい事があったんじゃないのかと・・
家族に見守られる事なく逝った父・・・
見守って逝かしてあげたかった家族・・
只只見守って逝かせてあげられ無かった事を後悔しています。
                              合掌

生きる(4)

2007年02月06日 | お見舞い
昨日は苦しそうにしていた母が、今日の夕方は少しは気分が良かったのか、笑顔で迎えてくれました。ホットしました。
然しながら、今日の検査の結果が心配のようで、少しは良くなってるかな!なんて独り言みたい言う母に
食欲があるうちは大丈夫!と答えてながらも、命の宣告を聞いてる私は顔が強張っています。
春を感じる季節です。外の景色・温度・空気を母は何ヶ月も知らないのだと・・
車椅子に乗せ、せめて病院の廻りを散歩でもさせてあげたいと切に思う今日です。
今度の土曜日は母の90歳の誕生日です。
誕生日には又子供らが、皆で見舞いに来てくれると信じてる母です。
そして、誕生日にガッカリする事を知ってる私です。

生きる(3)

2007年02月05日 | 膠原病
母の見舞いに行ってきました。今日は突然呼吸が出来なくなり、目の前が真っ暗
になり、看護婦さんへの緊急の呼び鈴も見えず。必死で手探りして呼び鈴を鳴らしたとの事でした。病院からは私に何の連絡もありませんでした。病院としては、事無きを得たからでしょうが、家族に報告は有ってもと・・全ての事に於いてそうでしょうが、病院側からすれば入院患者数分の1でしょうが・・家族からすれば1/1なのです。
母の病気は「強皮症」です。今は強皮症からくる「胸水」「心臓肥大」「逆流食道炎」「肝硬変」です。
手足の皮膚は硬くなり摘む事が出来ません。
見舞いに行くと嬉しそうに笑います。その笑顔は素敵で可愛いです。
その笑顔を見に毎日行きます。
その笑顔が消えて、息を「ハァーハァー」としている姿を見ると、もしかしたら
逝くのではと心臓が止まりそうです。
明日は笑顔を見に行きます。

生きる(2)

2007年02月04日 | お見舞い
今日も母の見舞いで病院に行きました。
老いていく母の手を擦りながら、母親の人生って何だろうと考えます。
自分が老いて、死を前にしても、子供のそれも60近くになる子供の事を心配を
しています。
母の若い頃の姿を思い出します。
そして、今の母の姿を悲しく見ています。
悲しいのは私なのかも知れません・・・
りんごを剥いて食べさせました。美味しいりんごでした。
嬉しそうに母が食べました。
母の嬉しそうな顔を見ると優しくなります、自分の心が癒されます。

生きる(1)

2007年02月04日 | 膠原病
母が膠原病で入院しました。90歳です。難病指定の病気です。今度は無事に退院する事は無いでしょうと医者に言われました。
母親の部屋にはもう二度と寝る事の無いベッドが母の帰りを待っています。
子として何をして上げられるのか、何をしてあげればよいのか日々悩んでいます。
母の話を聞いてあげる事、手をさすってあげる事、ただ、病院に顔を出す事だけ
しかしてあげられません。
90歳です。大往生なのかもしれません。
90歳まで母が生きていた事に感謝しなければいけないのでしょう。
だけど、母親です。
モット長生きして欲しいと、せめて家から送ってあげたいと思います。