アルバニトハルネ紀年図書館

アルバニトハルネ紀年図書館は、漫画を無限に所蔵できる夢の図書館です。司書のWrlzは切手収集が趣味です。

『シュルレアリスム宣言』[以前の記事に補筆]

2008-07-21 | 読書
 
この記事は以前アフィリエイトのために開設している楽天ブログの方で『シュルレアリスム宣言』『シュルレアリスム簡約辞典』『ナジャ』等を売るために一旦記事にした物で内容がかぶるのですが、楽天ブログが商品タグ含めて1万字までしか記入する事ができないので少し補足してあります。

まずシュルレアリスムに関してまた書こうと思ったきっかけは、最近楽天ブログの方に本や漫画が好きな学生さんがちょくちょく来てくれるようになり、私が昔同人誌を出していたと言ったらどんな内容だったのか訊かれ、「どこかシュルレアリスム的な作品を描いていた」と答えた処「シュルレアリスムとは何ですか」と突っ込んだ質問をされたからです。
私の近所には○○堂しかないけど売ってますか?、またそれらの作品が「何系ですか」と直球の質問された時にはさすがに回答が困難で、一応自動筆記で書かれた小説であることと、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』は必ず学校の図書館にあります等と答えて「今度読んでみます」と言われました。

この事(シュルレアリスム)は私自身も未だにきちんと理解していない部分があるのですが、私が最初にシュルレアリスムと云うものを意識したのは初めて出した同人誌(自費出版物)を漫画雑誌の同人誌欄で「不条理なセリフの群れとシュールな画面が」と評されてからです。
その後、コミケで交流するようになった先輩同人さんから「君の描いてるのはシュルレアリスム」と明確に指摘された事もあり、4冊目の本を出した頃には多分私自身もシュルレアリスムを意識していたような面もあったと思います。
また、これに関しては私の気持ちはやや微妙ですが、年上の人に自分の描いた油彩画を「ダリ(後述)よりもいいね」と言われた事があります。

↑何を描いているのか一見分かりにくいですが、美術室にあった牛の頭蓋骨です。

まあ別に私ダリは嫌いではないです。分かり易い絵や物を創る人だと思います。

日本語では「シュールレアリズム」と表記する事が多く、また私もコミティア(創作漫画展示即売会)のサイトからのリンク用バナーで「シュールレアリスム」を用いていましたが

仏語に忠実に発音すると「シュルレアリスム」です。

これは質問されて改めて気付かされた事で、「シュルレアリスム(SURREALISME)」とは何であったか(何であるか)という問いに答える事は非常に難く、またこれが「既に完結した思想」なのか「現在も続いている運動なのか」でも意見は割れるのですが、まずWikipediaによると

シュルレアリスム(フランス語: Surrealisme, スュレアリスム)は芸術の形態、主張の一つ。超現実主義ともいう。超現実とは「現実を超越した非現実」という意味に誤解されがちであるが、実際は「ものすごく過剰なまでに現実」というような意味である。超現実とは現実(約束事などに捕らわれた日常世界)に隣接した世界、またはその中に内包された世界で、現実から離れてしまった世界ではなく、夜の夢や見慣れた都市風景、むき出しの物事などの中から不意に感じられる「強度の強い現実」「上位の現実」である。彼等シュルレアリストが、コラージュや自動筆記といった偶然性の強い手法で作る作品などは一見非現実的だが、彼らは、主観や意識や理性が介在できない状態で偶然できたものや、そもそも意識の介在から解き放たれた夢の中からこそわれわれの普段気付かない現実、「超現実」が出現することを信じていた。

日本においては和製英語流にシュールリアリズムと呼んだり、「シュール」と日本独自の省略形で呼ぶ場合もある。 「シュール」という表現はシュルレアリスムそのものではなく「やや難解でアーティスティックである」「常識を外れて奇妙である」「既存の状態を超越している」「少し変な」というくらいの意味で使われることも多い。

と記述されています。この内容に関して私も特に異論はありません。

本書『シュルレアリスム宣言(MANIFESTE DU SURREALISME)』の原書が刊行されたのは1924年ですが、これはそれまでのシュルレアリスム的な作品をも含めて「一つの運動」として系統立てた、あるいは整理したという面もあります。本書の中でブルトン(Andre Breton)は、ブルトン以前のシュルレアリスム的な作家・作品を「○○は○○においてシュルレアリストである」と列挙しています。ただしダダイスムに関しては「あれは単なる馬鹿騒ぎ」であったと捉えられる事が多く、明確にシュルレアリスムの前身とする事はあまりありません。

「超現実」、つまり現実を超えたという事で誤解されがちですが、Wikipediaの記述にもある通り「超現実」とは絵空事のような物ではなく、現実の上位にある現実と云う意味になります。

恐らく本書の中でのブルトンの主張は
「シュルレアリスムという言葉を、私たちが理解しているようなごく特殊な意味において用いる権利に異議をとなえるむきがあるとしたら、それはひどい悪意のしわざである。そもそも私たちよりも以前に、この言葉が世にうけいれられたことがないのは明らかだからである。」
に集約されていると思います(以下、この色の引用部分は全て巖谷國士訳)。
そして
「言葉とは、シュルレアリスム的に用いられるように人間にあたえられているものだ」
と喝破しています。
その事をブルトンは併録されている『溶ける魚(POISSON SOLUBLE)』で実践している訳ですが、これに関しては後述します。

ブルトンは
シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。
と定義しています。

ブルトンがフロイトの夢批判に言及している部分で「だからといって、私の心にかかっている『現実』が、夢の状態にあっても存続していること、記憶のかなたに消えさりはしないということがすこしも証明されていない以上、どうして私は、ときには現実に対して認めていないものを、つまりその最良の時にはけっして私の否認にさらされることのない現実自体へのあの確信のねうちを、夢に対して認めないでいられるものだろうか?」との一文があります。
また本書の意図が「不可思議への嫌悪と嘲笑」の糾弾である事も述べています。

『シュルレアリスム宣言』の中で有名な「窓でふたつに切られた男がいる」と云う、ブルトンの想起し、シュルレアリスムの発端とされるイメージがあります。
これはコラージュの世界にも通じる物で、コラージュの発案者と呼ばれるマックス・エルンスト(Max Ernst)の『百頭女(LA FEMME 100 TETES)』を読めば(眺めれば?)理解して頂けると思います。


シュルレアリスト達の活動は文学、絵画、写真、コラージュと多岐に渡りますが、サルバドール・ダリに関しては後に「ドルに魂を売った」と批判され、Salvadorの"S"を"$"に置き換えて皮肉を込めて$alvadorと書かれた時期もありました。
現代思潮社から出ている『シュルレアリスム簡約辞典(DICTIONNAIRE ABREGE DU SURRELISME)』と云う本があるのですが(ちょっとこの本使い込んでいてボロボロですが(^_^;)、この本の中でシュルレアリスト達がそれぞれの作品で用いた言葉、写真、絵などが整理されていて、
DALIの項目では「すばらしく豊かな、カタルニア的知性の王」とされています。

前述の「コラージュ」に関してはCOLLAGEの項目があります。

『シュルレアリスム宣言』の内容、そして「シュルレアリスムは青年の天才をあくまで無制限に信じる事から生まれた」とのブルトンの言葉を踏まえた上で併録されている『溶ける魚』や、同じくブルトン著『ナジャ(NADJA)』を読むと、これらが「自動筆記」によって書かれた小説であることと自動筆記が単なるでたらめを綴った物ではないという二つの事に同時に気付かされると思います(現代思潮社から出ている『ナジャ』は巻末にアンドレ・ブルトン年譜が採録されてます)。
私個人の印象としては「自動筆記」という和訳がシュルレアリスムに対する誤解を生んでいるような気がします。仏語の"Automatism", "AUTOMATIQUE ECRITURE"の和訳として「自動筆記」「自動記述」以上に適切な言葉は私も思いつかないのですが、『シュルレアリスム宣言』の中でブルトンが述べている
「理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり。」
との言葉の和訳としての「自動筆記」と思ってもらうのが一番無難だと思います。
ブルトンの言葉を更に引用するならば
「自動記述と夢物語は、使いものにならなくなっている批判に、偉大な様式の評価の諸原因を与え、抒情的な価値の一般的な再分類を可能にし、人間と称さられる幾重もの底を持つ箱を、無限に開きうる鍵を提供するという利点をもつものである」と云う物があります。

それはインスピレーションの赴くままに綴られた文章なのかと言われれば違うし、霊感や第六感の産物かというのもやはり違います。
あらゆる「束縛」から自由である状態で書かれた文章(小説・詩)というのが近いでしょう。


最後に、これはシュルレアリスムに限らずある種の芸術運動に参加していた者達が幸福だったのかと言えば必ずしもそうではない、むしろ不幸だったという面がどうしても目立ちます。
まず張本人のブルトン自身が決して幸福な晩年ではなかった事、顕著な例はアトリエの火事で作品を灰にした上直腸癌で人工肛門を付ける体になり1948年に首を吊って自殺したアーシル・ゴーキー(Arshile Gorky)ではないかと思います。彼はむしろシュルレアリストというよりも「シュルレアリスムの犠牲者」という面があるような気もしますが。首を吊る際の踏み台の木箱に"Goodbye all my "lovers""と書かれていたそうです。
シュルレアリストにはポール・エリュアール(Paul Eluard)始め自殺者が多く、第二次大戦後の一時期シュルレアリスト達が非常に周囲から嫌われていた事があります。ブルトンがニューヨークに亡命していたため米国内で遺書や遺留品に仏語で書かれた物があればもう即犯人=シュルレアリスト、みたいな。

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