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続・旅するデジカメ 我が人生

デジカメ片手に 美しい自然を求めて今日も

道の駅 清和文楽邑で撮影会 in 熊本・山都町

2016年10月16日 06時00分00秒 | 道の駅 サービスエリア

道の駅
清和文楽邑で撮影会

人形浄瑠璃をする舞台と 展示場
そして物産館があります

全日本写真連盟西部本部の撮影会
九州各県から来られてました。
私は連盟に入ってないので
飛び入りでお願いしました

清和文楽邑(むら)




物産館


芝生面積も広く、
川や広葉樹も楽しめる




撮影会受付


山都町商工会
馬見原チンドン愛好会









何時もは撮影禁止です
日写連はやることが大きいな~








昨夜は八代の花火でしたが
雨が降りました
帰りの渋滞を避けるため
泊まりは球磨川沿いの山の中
電波が弱く
ブログのUP出来ませんでした
朝は電波が少し良くなったので
助かりました


北熊本SAに無事到着

2016年10月15日 00時41分17秒 | 車中泊関連施設

12時丁度に
北熊本SAに着きました
走行距離は525㎞でした。

ここのSAの
お店と軽食コーナーは
24時間開いているので便利です
別棟にあるレストランは
地震直後から閉まったままです





月も雲に隠れそう


明日は一番人気山都町に向かいます

23㎞先で
高速が通行止めになってるので
(多分、地震で
道路が波打ったところだと思います)
早く行かないと
通勤渋滞に巻き込まれそうです


鹿野城下町を歩く in 鳥取市鹿野町

2016年10月14日 00時00分00秒 | 歴史的建造物

鹿野城下町を歩く

夢街道ルネサンス ~鹿野往来

鳥取市鹿野町

 

古くから因幡国西部の中心都市で、

江戸時代初頭に

亀井茲矩によって鹿野城が築かれ城下町として整備された。

(「鹿野城」の築城時期自体は室町時代頃までさかのぼるとされる)

その当時(約400年前)のインフラが現存しており、

城下町らしい丁字路やL字路、道幅と

一帯を網の目のように走る水路などは当時のままである。

この景観を

作家司馬遼太郎は「えもいえぬ気品」と評した。

 

 

鳥取市鹿野往来交流館(童里夢)
喫茶・お土産

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道に沿って流れる水路が美しい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日も

最後までご覧頂きましてありがとうございました。

明日も皆様のお越しをお待ちしております。

今夜から高速で熊本に参ります
コメント書く時間が取れないと思いますので
コメント欄は閉鎖させていただきます。


彼岸花咲く鹿野城下で山中鹿之助の墓参り in 鳥取・鳥取市鹿野町

2016年10月13日 00時00分00秒 | 

彼岸花咲く

鹿野城下で山中鹿之助の墓参り

鳥取・鳥取市鹿野町

 

鹿野城址や城下町の街並みが残る歴史の街

鹿野城下町にやってきました。

鷲峰山(じゅうほうざん)の峰に広がるこの町は

かって川が運んだ砂や礫たまってできた『台地』の上に位置しています

天小9年(1581)鹿野城主となった亀井茲矩(かめいこれのり)が

この街を城下町として整備しました。

駐車場は

廃校になった鹿野小学校の運動場

その前に堀があり、鹿野城の面影を今に残していました。

今回は

お堀の内側に咲いていた彼岸花を写しただけで

時間の都合で山城には上らなかった。

案内板の説明だけでご勘弁ください

撮影は9月25日

1578年羽柴秀吉が亀井茲矩を先駆として

毛利の支城となっていた鹿野城を攻め落とし・・・

 

 

 

彼岸花が満開

 

 

 

 

 

山中鹿之助のお墓はどうしても見たかったので

一番にお参りしてきました。

戦国時代、下剋上の世にあって

一貫して主君尼子氏のために命を掛けて戦った武将が山中鹿之介です。

  鹿之介は、

中国地方の有力者毛利氏との争いに敗れた尼子氏を再興するため、

近畿、中国地方の各地で転戦しますが、

ついには播磨の国の上月城に追い詰められ、捕われの身となり、

備中高梁川の渡し場で斬殺されました

(斬殺の場面は大河ドラマ 黒田官兵衛でも行われました)

 


 通説によれば、
天文14年8月15日(1545)に
出雲国富田庄(現在の島根県安来市広瀬町)に生まれたとされる
山中鹿之助に関する以前のブログ

富田城(島根県)と
高梁川暗殺された位置に建つお墓(岡山・高梁市)

http://blog.goo.ne.jp/wingtom/e/5dc64af2016eb7e80a7fcc7f891e92ab


 

 

鹿野城主となった茲矩は、

家臣団を備中高梁川に派遣し、鹿之介の遺骨を鹿野に持ち帰らせ、

霊を慰めるため寺と墓を建てました。

寺の名は鹿介の別名・幸盛(ゆきもり)から

「幸盛寺(こうせいじ)」と名づけられました。

 

幸 盛 寺

 

 

山中鹿之介の(別名 幸盛)の墓

逆光を補正したので画像が悪い

 

 

 

 

山中鹿之助も
尼子十勇士の一人

 

幸盛寺 本堂

 

 

 

山中鹿之助の首塚
広島県福山市の鞆の浦にあります

山中鹿之助は尼子十勇士の1人で、毛利の家臣に誘殺され、
その首は鞆に持ち込まれたと伝えられています。
首塚は静観寺にある

 

 

今日も

最後までご覧頂きましてありがとうございました。

明日も皆様のお越しをお待ちしております。


浦富海岸 島めぐり in 鳥取・岩美町

2016年10月12日 00時00分00秒 | 海 海岸 島々 夕日 朝日

浦富海岸 島めぐり

-リアス式海岸-

鳥取・岩美町

 

 

国の名勝天然記念物に指定され(1928年)

日本百景」、「日本の白砂青松百選」、「日本の渚百選」、

平成にっぽん観光地百選」などに選ばれている

日本海沿岸の自然景勝地である。

海岸西部には海水等の侵食による花崗岩の断崖、奇岩、洞門が続き、

海面上に大小の島や岩が散在する風景が

宮城県の松島に似ていることから「山陰の松島」と呼ばれることもある。

海岸東部には遠浅の砂浜が広がり、夏は海水浴場としてにぎわう。

 

山陰海岸ジオパーク

山陰海岸国立公園を中心として、

東は京都府京丹後市の経ケ岬から、西は鳥取市の青谷海岸までの東西120キロ、

南北最大30キロの工リアです。

山陰海岸ジオパークでは、

日本列島がアジア大陸の一部だった時代から

今日に至るまでの経過を確認できる

貴重な地形・地質遺産を多く確認することができます。

 

youtube

遊覧船で浦富海岸 島めぐりへ

画像上をクリックしてご覧ください

 

遊覧船の乗り場で回転していました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

向こうの海岸は海水浴で賑わう

 

小型船に乗ると狭いところに入るそうです

 

 

 

 

 

 

 

今日も

最後までご覧頂きましてありがとうございました。

明日も皆様のお越しをお待ちしております。