人道の港 敦賀港
福井・敦賀市
敦賀港のことは以前 かせていただきました。
http://blog.goo.ne.jp/wingtom2/e/231b92ef9d6e5a725898480a24005e02
ヨーロッパ・モスクワが
シベリア鉄道を経由してウラジオストク(ロシア)・敦賀駅
さらに東京へとつながりました。
ポーランド孤児・ユダヤ人難民を敦賀上陸を手助けし、
人道の港と呼ばれるようになった敦賀港
欧亜国際連絡列車
旧敦賀港駅舎
(敦賀鉄道資料館)
人道の港 敦賀ムゼウム(資料館、博物館と言う意味)
シベリア孤児たちの惨状
1919(大正8)年、
ロシア国内は革命、反革命の勢力が争う内戦状態でした。
この時、シベリアには
ロシアに祖国を滅ぼされたポーランドの政治犯や愛国者の家族、
内戦の混乱を逃れてきた人たちが15万~20万人いたと言われています。
彼らは、シベリアの酷寒の地で
過酷な重労働、飢餓や疾病の中で極めて悲惨な生活を送っていました。
特に、親と死別した子供たちは、
腹を空かし、身を寄せる場所さえなく、まさにこの世の地獄のような極限状態でした。
孤児の救済に努めていた救済会のアンナ・ビルケウイッチ女史から
日本政府に援助を求め、指示を受けた日赤が即座に対応した。
1920年(大正9)7月23日
ロシアのウラジオストクから陸軍の輸送船「筑前丸」が敦賀港に入港
乗っていたのは
粗末な服を着て、哀れなほどやせ細った青白い顔の子供たちでした。
彼らは動乱のシベリアで家族を失ったポーランド孤児でした。
上陸した計5回 、375名、さらに3回、388名の孤児たちが救われました。
「貴社の献身的援助により、
救出された在シベリア・ポーランド子弟を代表して感謝の意を表します」
元極東青年会々長
Jerzy strzalkowski
(イエジ・ストシャウコフスキ)
15歳の時に大阪に収容され、帰国後に「極東青年会」を組織して
第二次大戦で祖国のために戦ったイエジ・ストシャウコフスキ氏は
日赤大阪支部を訪れ「64年前、私たち孤児が日本のみなさんや日本赤十字社に受けた恩義に
全孤児を代表してお礼を言いたくて来ました。ありがとうございました」
大粒の涙を拭こうともせず、感謝の気持ちを伝えました。
ユダヤ難民は杉原領事代理の発給した「命ビザ」で救われる
1939年(昭和14)9月1日
ドイツ軍がポーランドに侵攻し、
同年、9月17日にはソ連軍が東から攻め込みます。
両国の結んだ不可侵条約の秘密事項で、
分割占領されたポーランドのユダヤ人は、
行先国の許可が取れないまま立ち往生していました。
残された逃避ルートはシベリア経由で日本に渡り、
そこから第三国を目指すものでした。
1940年(昭和15年)7月18日の早朝、
リトアニアにある日本領事館前に大勢のユダヤ人難民が押しかけ
日本通過のビザ発給を求めてきました。
ビザを手に入れた彼らは
シベリア鉄道でウラジオストクに向かうのですが
途中、
貴金属や所持金を奪われ、
シベリアに強制労のため連行されたりで
死ぬ思いで日本に向け連絡船に乗るのでした。
難民受け入れに対する
日本国の判断はNOでしたが、
杉原領事代理 個人の判断でビザを発給した
「命ビザ」が6.000人ものユダヤ人を救ったのです。
自分自身や家族の危険、訓令違反の処分も覚悟のうえ行った行為であった。
youtube
「杉原千畝 スギハラチウネ」予告2
画像上をクリックしてご覧ください
その後
ポーランドの人たちが親日的になってくれたことは日本人として大変嬉しいことです
敦賀観光サイト・パンフレットを参考にしました
今日も
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