高樹のぶ子のSIAブログ
2009年04月14日 / 最近の出来事
憂いという漢字変換で、まず出てくるのは愁いの方です。
私が使っているソフトではその順番なのですが、どうもこの漢字には秋が使われているので、愁いはやはり、秋の愁いであって、いまこの季節のうれいは、やはり憂いと書くしかなさそうですね。
花が散り、葉桜がむんむんと匂い立つ季節になると、その生命力に気圧されて、気分がめいってくる、それが春の憂いの元なのではないでしょうか。
とりわけ、人生のピークを過ぎた人間には、この季節はこたえます。
すでに12年は生きているインコのピー子は、このところ静かです。
冬が越せないのではないかと心配し、ヒーターを入れ、鳥かごの周りをサランラップで覆い、日だまりに置いているのですが、最近は鳴きません。
昔は、春になると、止まり木ででんぐり返りをしたり、音楽を聴くと、うるさいほど鳴いていたのですが、ときどく目を閉じて、黙想しています。
セキセイインコの寿命がどの程度なのかわかりませんが、このインコは確かメスで、若かりしころ、オスにエサを食べさせないように邪魔をして、オスを死なせてしまいました。
悪女なんですが、悪女は悪女なりにというか、悪女ゆえか生命力が旺盛で、花の独身に戻ってからは、それはもうわが世の春をずっと謳歌してきました。
その悪女も、そろそろ生命力の限界に近づいてきたようです。
ものみな等しく、年月には逆らえず。
とまあ、ピー子の代わりにため息をついている私ですが、それでもまだ、恋愛小説に燃えています。
紅子さんもしばしば、行け行けドンドンながらも、自分の所業に内省と自虐の視線をあててしまいますが、クールになってはおしまい、恋愛なんてね、そうなんです、どれだけ妄想に燃えられるかが勝負なんです。
映画俳優や遠くあこがれている異性に対しては、この妄想も結構長持ちしますが、現実は厳しいですよ。
良いとこだけを見て、妄想を壊しそうな部分は見ない・・そういうことが出来るのも、歳の功。
パッションだけでは無理で、「見ない知恵」も大事なのかも。
ああ、うらめしきは萌え出ずる春のいのち・・
紅子さんになって、懊悩に沈もうっと。
高樹のぶ子
********************************************************************
日本経済新聞朝刊連載 「甘苦上海」特集開始!
■新聞掲載の翌日から小説本文を1週間掲載!
■作者高樹氏による「登場人物紹介」「執筆に当たって」を掲載!
■小説の舞台を写真で紹介など充実したコンテンツをご提供します!
「甘苦上海」特集はこちら(http://bizex.goo.ne.jp/special/shanghai/)⇒
********************************************************************
【甘苦上海が単行本になりました!!】
※ | ブログ主の人格、活動、作品を貶めるコメントはご遠慮ください。 |
| 明らかに事実と異なる事柄や個人への誹謗中傷が著しい場合、運営側の判断でコメントを削除する場合がございます。予めご了承ください。 |
アンテナが張られている。そんな先生のこちらを
いつも楽しみに拝読しております。
で私も春はやっぱり「憂い」の方。それが近年薄れて
来たのも加齢のせい?
けどお話の世界は幾つになっても現役で居られる。
表現者は最強です。どんな世の中になっても。
漢字の話題からひとつ、「ジャスミン」は中国では
「邪悉茗」。わが国では「素馨」と表すのだとか。
この間にあるものは?
また楽しみに読ませてください。
庭に落ちてきて飛べない幼鳥のくせに捉えられまいと這いずり回っていたのを家内が捕まえて、苦労して育てた。
先ず食べさせるのがたいへんだった。
以前飼っていた十姉妹の剥き餌をむりやり口を開けて食べさせようとするが、頑として受けつけない。
スポイトで牛乳と混ぜてようやく食べさせることに成功する。
しかし手乗りにするには十姉妹のようにはいかない。
ギャーギャー鳴きわめいてバタバタと逃げ回る。
捕まりそうになるとその硬いくちばしでがぶりと噛みつく。
これがかなり痛い。
それがもう十年になる。
今では家内の掌で落ちついて毛づくろいするまでになった。
しかし、ぼくの手には乗らない。
人を識別する能力がある。
家内が掌を上に、指先を動かして挑発すると、身を剣のように細くし、羽をジェット機のように尖らし、首を上下左右に振りながら盛ったように挑んでくる。
「そんな尖ったスタイル嫌い! ふっくらとしたほうが可愛いのに・・・」
家内が言い寄られた女の子のように言う。
そして「おとうさんもやってごらん」とぼくに振る。
ところがぼくが同じ仕草をすると、お前は嫌だとばかり巣の中へ逃げ込む。
野生の雀の寿命は2~3年というのに10年を越える我が家の<チュンタ>はまだ春真っ盛りである。
初めて知りました!
上記のインコといい、意外なことが多いものですね。限られた命とはいえ。
宇宙には不思議なことがいっぱい・・
誰にでも共通の永遠のものはない。自分だけに永遠のもので十分でしょ。
中学校の校庭だったところに松がまだ残っている。根元は一本のように見えるが、りっぱな2本の松。
-「初恋の松」と名付けた- 58歳のオヤジがやる事か!!
海雲台で走り寄り力いっぱいした抱擁
今まで食べた物で最高だったお手製のチャーハン
春は生命が躍動するのです。いつまでも、毎年、春を喜びたい。
リスがカケスと戯れていたり、鳥のツガイが赤い嘴でキスをしている様子など、西園寺公ではないですが、重荷と知らで拾うや恋(ちょっと記憶曖昧です。確か連歌の下の句)。そんな気持ちが高揚してしまう季節とばかり思っていました。
(そうそう、ジャスミンは茉莉と書くものと思っていました。娘茉莉が台湾で、大はしゃぎし、ジャスミンティーのパックをことあるごとに確保、お土産にしていました。)
妄想、、、私から妄想をとったら、何も残りそうもないです。所詮、我々のこの人生、胡蝶の夢かもしれないのですから。。。
ふけるなら、ちょっとは楽しい妄想にしないと、春ですもの。
オウムの仲間ですから、もっと長生きした記録もあるでしょうね。
カナリアの長寿の記録は20年と聞いてます。
インコのメスの飼い主が亡くなり、身内だったので仕方なく飼わざる負えなく、飼い始めたところ残忍な性格で驚き入り、とても飼えなくて確か一月以内に、顔なじみの小鳥屋さんに引き取って貰った経験が有ります。
沢山の種類の小鳥を飼い馴れてる僕でしたが、常に攻撃的で恐ろしい経験でした。
我が家のこいのぼりのアルミ製のポールに、巣箱を掛けてますがこの30年来、毎年四十雀が子育てをしています。
今も四十雀は卵を抱いています。
だいたい年に二度営巣をしますが、一時期だけ巣箱をスズメに占領され、スズメが子育てをしたことも有ります。
このように大自然では、生存競争が激しいのですね。
自由と云うことは、このような事でも有るのでしょう。
これが老人で(あ、いや、老鳥で・・)
動きも緩慢になり、今年いっぱいもつかどうか・・・といった感じでした。
いつもはとてつもなくうるさいのですが、
おとなしくなると妙に寂しいものですね。
春になると鬱になる・・
季節の変わり目は難しい時ではありますが、
私の場合は・・・
春になると目覚めて元気になれます。
私は冬に死んでいる人間なのです。。
色々な植物の新芽がどんどん伸びてくるこの時期、
もう~わくわくしながら若芽を味わっていますよ。
私も・・・
どちらかと言うと妄想癖、
楽しい妄想を沢山味わいながら暮らしたいと思っています。
春は・・
これから植物が花咲くまでの素敵な時間なんですもの。
楽しまなくっちゃ!
けれど、死を想像できるということは、死んだあとの情況を見通せるということでもあり、その未来の光景を「悲しく」見通すか、「さっぱりと無責任に」想うか・・
私は後者ですね。
せきせいインコの弱り方を見ていて、「君はそう遠くない時期に自分が死ぬ、ということを知っていますか」と問いかけます。「あなたは人間だから、そういう無駄なことを考えなくてはならず、気の毒ですね」と彼女は答えます。
思わず、口ずさんでしまいそうです。若い頃は、春の日は、本当は苦手だったのですが、歳とともに、苦手意識も薄れました。
愛おしくさえ感じるようになりました。
そうそう、悩んでいたら勿体無い。
老いるというのも悪いばかりじゃないということかもしれないな・・と希望をもてそうです。
ああ、今日甘苦上海アップ記事がないなあと思ったら、そうでした。昨日、新聞休みだったのですね。いつもありがとうございます。小説を読むのも、私の生きがいのひとつです。
これはすごく健康的なときだと思います。自然です!
一方で、人は大地が息づくこの時節に不安になる。満開の桜を見て、新芽がいっせいに存在を知らせるときと裏腹に。
限りなく繰返す時の経過。しかしそれは、自らの意識が外界を認知できる間のこと。
己が消える日のことを進んで考えようとは思いたくなくても、他者の死を見て考える・・残り火のこと・・
悩みがあって当たり前。
悩む力があるということは生きる力があるということ。
北海道浦河の「べてるの家」ではそういっています。
悩みも、憂いも、なくなったら、人生つまらないかも知れません。
悩みのない人生なんてありえないかもしれませんね。
さてさて紅子さん、どうしましょう。でも何にも考えずに、京の腕の中で大波小波に揺られましょう。波にのまれて、意識を失って、ぽっかりと波間に浮かび上がった時に、紅子さんの憂いの核心が見えてくるのかも・・・。
私の憂いは、ここのところ太ってきていること・・・。
せっかく12キロのダイエットに成功したのに、ここで戻るわけにはいかないのよ!っと、女の私が憂いています。
この句は「幽玄靜寂」、つまり蛙が飛び込んで静寂を破ったそんな静かな世界だという解釈が主流だが、彼は、その水音は春が来る大自然の躍動、生命の躍動の世界なのだということをすでに戦時中、内務省の大先輩に書き送っていたと言う。
恥ずかしながらそういう解釈(今ではだんだんそうなっている)があることに考えが及ばなかったので思わず「なるほど!」と感服してしまった。
ある意味、戦争体験で愛国心を強く持ったという中曽根らしい前向きの解釈だと思った。
以下、蛇足で恐縮ですが、
中曽根と同じように仲間を戦争で失った体験をしている金子は、逆に戦争反対の気持ちになり国を思うという中曽根のような強い気持ちにはならなかったという。
ぼく自身は両者のような強烈な戦争体験はないので、むしろ感情論より論理的に金子より中曽根的な考え方を今まで持っていた。
つまり力の論理が働いている世界の中ではそう考えざるを得ないと・・・。
しかし、ブログでも書いているが、力の論理による国際政治のもと、日本のあり方にいらつくことが多かったのだが、最近いつまでも平和が期待できない世界の中で、日本の役割があるとすれば、<力>ではなく<和>を説くしかないのかなと思うようになった。
特にオバマが出てきて、<力>から<調和>へと舵を切った今こそ日本の出番ではないかと。
日本の芽が出てきたのだ。
憂いているばかりではいられないないと。
ネット上では、上海のあらゆる地域の動画が見られます!!
甘苦上海、の中の男女。冷めながら燃えようとする人間の悲哀が感じられる。
しかし人は、そのようにして生きていることを確かめたいのだと思う。ある種の闇を抱えながら。
リストカットを繰り返し、拒食症で苦しむ若い女が性を求めて彷徨うが、そこに見ているのは霊界なのか現実なのか?
ラブホテルに拘る理由は何なのか、と、別な作品を読みながら、上海の映像を追う。
たしかに、カエルは水音など立てずに、飛び込むのだとおもいます。ガマがえるとか、牛ガエルとかだと、どうだかわかりませんが・・そんな大型ガエルではないですよね・・この句は。
ちなみに、芭蕉は男色世界の人でもあったそうな。
そういう人は、ワビサビの価値観を確率したというのが、価値がある気がして・・
作品はどのように読み感じても自由でしょう。
学校の国語のテストで、模範解答通りでないと×をもらうのとは違いますね。
近世日本の文学は、男色天国などともいわれております。
つづく泉鏡花~三島由紀夫・・
しかし、異性愛と同性愛というように線を引くのでない見方も当然あるでしょう。
人間不安全な存在であるからして、トータルで、バランス感覚で見て行くしかないと思います。
日本からタイに移り住んだある青年のこと。
ある大きなコミュニティーサイトの女性メンバーからメールが入る男性曰く、
「僕はホモセクシャルなので、勘違いしてメールなど送らないでください。女性に興味はありませんので」と、断り書きがありました!
紅子さんは、異性のみに惹かれますか?
「古池」の句が出てきました。
この句で一冊本が書けるほどですが、ちょっとひとこと。
どうしても「古池<に>かえるが飛び込む」ように
うけとられがちですが、この「や」という切れ字にご注目。
これで「古池」がある、という景がある。
そして「かえるが飛び込む」という別の景がある。
「古池や」と切ることによって、
時間的・空間的にひろがり、さらには心象風景を描き、
これは芭蕉の内奥のなかにある「古池」であると。
かえるは無心に水にとびこむ。
「音」と書かれているけれど、
音の無い世界のようにも。
昭和のマロさんに出てくる金子兜太はわたしの俳句の師。
「文藝春秋」の記事は読んでいないのでコメントはいたしませんが、金子兜太の俳句・句業は戦争体験によって始まったとも。
もしお時間がありましたら
「わが戦後俳句史」金子兜太(岩波新書)を。
高城さんのブログに書き込んでいいのかな、と思いつつ。
この状況の景色の体験が、間違いなく僕は何度も有ります。
今の実家の溜池でも蛙の飛び込む音を聞きました。
瀬戸内の小さな溜池が点在している地方で育ちましたから、トノサマガエルかアカガエルでしょうが、家の裏手の高台に上がり、シーンと静まり返った睡蓮の池の辺りに、そっと近付き何か面白い生物でも居ないかと、抜き足差し足で探していても、チャポン、チャポンとしっかりと音を立てて、蛙が飛び込みますよ。笑
池の辺りなんて、蛙にとっても危険な場所です。
勘違いしている嵐山光三郎さんと、一、二度バー「??な」で隣り合わせになりましたが、彼の観察設定の蛙の種類や観察場所の特異性と、彼の観察眼、いえ彼の聴覚を疑わざる負えませんね。爆
中曾根さんは春の躍動とか?
僕は古池の辺りに蛙が上がり、危険を犯して小さな昆虫をたべたり、陽射しで消化をよくする為にか暖まったりしている季節は、初夏から初秋だと思います。
この句は江戸の芭蕉庵の句会で作ったそうですが、旅先で古池の静けさを破る水の音の、空虚な原体験が有ったと思われます。
それまで蛙は鳴き声が詩歌や俳句の表現に使われ、飛び込む音を使ったのは革命的だったそうです。
カジカガエルは水音は立てないかも。
例え音を立てても、沢では水の流れの音で聞こえないでしょう。
池の辺りの鄙びた静けさを破る水の音に、何を感じかは人それぞれでしょうね。
そのあたり、毎日そうした経験をしたことのない人には分からないでしょう。
ちなみに、あの小さな緑色の、ニホンアマガエルだと音は聞こえません。私が触れたのは、トノサマガエル、のことです。
ところで、高校の国語の授業では、文字通りカエルの飛び込む音、としていました。英語にもなっているくらいです。
芭蕉がここで歌った句の真意は、本人に聞いてみないと分かりません。第三者による解釈などいくらでもあります。
金子兜太氏のことは、読売新聞でしばらく連載で取り上げていましたので、私も以前ブログ上で取り上げました。
当時の流れとは異なる独自の世界を拓いていったのだと推察します。
科学の証明ではないので、どう解釈しても、それなりに味わいがあると思いますが、俳諧に否定的な人もいて、さまざまですね。
A frog jumps into the pond,
splash! Silence again.
(アメリカの小学校の教科書)
An old quiet pond・・・
A frog junps into the pond,
Splash ! Silence again.
(別の米国版)
Old pond -- frogs jumped in -- sound of water.
(ラフカディオ・ハーン 訳)
Free care car was to be come me too not.
(面白い訳)
そもそも、ほんとうの、ワビ・サビなど表現できない・・
古池という言葉も、妙ですね。
池に新しいも古いもないわけで、古池という言葉も、記号みたいな気がしてきました・・それに、ボチャンというのは、井戸なら納得できるけれど、池ですからね・・かなり高いところから「落ちないと」ポチャンにはならないような気がして・・
わたしは嵐山さんに、一応味方ですが。
嵐山さんとは、面識ありませんけどね。
朝顔につるべとられて、カエルがポチャン。
なんかイメージが混同してて、ごめんなさい。
あぁ、考えてたら眠れなくなりそうです。
出張で芭蕉の故郷に行くこともあるのですが、芭蕉が男色だったとは知りませんでした。
私も甘苦上海特集、読んでますよ。最近の展開には頷ける点が多くあります。頑張って書いて下さいね。
今、仕事を終えて、ネットでニュースを確認したら、太宰が17歳の時の写真が発見されたという記事が出ていました。
太宰の春の時期の顔です。
人生の秋を迎えた頃の顔よりも、さっぱりしていてすがすがしいけれど、どこか憂いを含んだ顔でした。
太宰がもしも、インコを飼っていたとしたら、高樹先生のように互いの死の時や死生観について語りかけたのでしょうか。
私は、春が大好きです。
春の憂いに襲われることもありますが、新芽の匂いをかいで、桜やつつじの花を見るだけで、その憂いを払拭できます。
緑色の、ニホンアマガエルだったらかわいく小さいので音は聞こえません。
トノサマガエルだと、日常的に畦道で追いかけていたのです。
これに関しては、間違いないですが、リアリティーを持って作ったとするならば、芭蕉の見ていたカエルが何蛙か聞いてみたいところです。
ということで、これに関しては嵐山光三郎さんの取り上げたカエルが何蛙か、ですね。
田舎で田んぼを見て回っている人に聞けば、笑われそうなお話で、なんしょく、でも、難色か、何色(カエルの色)の類いでしょうか?
芭蕉は哲学的な俳人だったんですね。何を今更・・ですが。
ぽっちゃんと大きな音は立てないと思いますが、
でも、ポチャくらいは、音がでるような気もしたり・・・
哲学的ではなくてすみません。
というのは、中学校の時、校舎の裏に古池があって、
そこは、とても静かな山の中だったんですが、
時々、静かな、静かな音で、ポチャと音が聞えたのです。
木の葉が落ちるくらいの音。
あれは何の音だったのか。
甘苦上海、
紅子と京は、これからどうなるのでしょう。
それから、あの写真の女性の運命は・・・
知、哲、感、観など、たちどころに踏みつぶされる。
極限で、人の徳と醜が曝け出される。
今月の日経新聞に連載されている、修羅場からの生還者、近藤道生博報堂最高顧問の「私の履歴書」に、毎日胸をえぐられています。
筆の力素晴らしく、一人称ながら心情と状況が的確に描写され、そこには哲学が貫かれている。
「今、私は、私達は何をすべきか」を自問させられ、まさしく「拝読」しています。
下方に目を移すと、男が待つ部屋を「戦場」と表現する恋愛小説。
他者の運命を背負わない、たかが男女の濡れ場を「戦場」とは、こみあげる怒りを抑えきれませんでした。
紅子の歴史認識の甘さや哲学のなさ、経営者らしからぬ思考回路、「懐恩堂」の名ににキリスト教らしくないと思う無教養、京の論文に興味を示さない淡泊さ、などなどなどの情けない側面も、ラウンドな人間の一描写と捉えていましたが、
中国で事業を展開しながら、「チベットで人間が何人死んでも、わたしの知ったことじゃない」とは、その軽薄さに、同じく海外で営んでいる者として、腹が立ちます。
何度も戦火をくぐった傷痕なお残る上海で生活させてもらいながら、それはないでしょう。
51歳にもなった経営者に、こだわりこそあれ哲学もなく、異国で経営する覚悟や真摯さがなさ過ぎます。
性欲をとやかく申しているのではありません。むしろ、閉経後の女性の恋愛や性を、豊かに表現してほしいと期待しています。
だからこそ、異国で「成功」している「経営者」なら、どうぞ、それらしいアウトラインを描いてください。
新聞小説ですが、媒体にふさわしい切り口は大切です。芥川賞選考委員、九州大学特任教授の責任に見合った執筆を望んでいます。
・・
戦争は、経済(政策)の失敗が引きおこす。
平和を享受しているだけで、思考を止めてはいけない。
だから学び、交わり、働き、次代につなぐ努力を惜しまず生きたい。
死後の情況は・・・ただゆだねます。
生きている今・・・世界史の最先端を担っている一人だと自覚していたい。
粘土で固めた池は何を目的に造るかですが、川から離れた高台の田畑に水を引いたり、所によっては干ばつ時にだけ使われたのでしょう。
古池とはその土地が開墾されてから年月が経ち、ある程度豊かで落ち着いた里山や江戸の町内を連想します。
これは湿地帯の多かった江戸近辺で在れば、湿地の水を抜く為に掘った古池や堀を連想します。
どちらも健やかで安定した土地のイメージです。
この句からの現在の私感としては、いくらか谷間にある静まり返った古池にも、生命の存在を感じさせる水の音がする、吾も蛙のように世のカオスの中に身を置き、安らかに生きて行きましょうか、と言ったところです。
何故だか亡父の高校の卒論が「奥の細道」の冊子でした。苦笑
尚、前記のよく遊んだ睡蓮や花菖蒲が咲いていた、古池の大きさは直径5M位、深さは50センチ程度と浅く、その水位は僅か10センチ未満で、その池からオーバーフローした水は、育った家の敷地の石垣の堀や、その堀に沿って流れる小さな小川に入っていました。
子供の頃、竹で小さな弓を作り、その池の水面に顔を出した蛙もよく打ちました。
意外と命中率は高く70%は超えてました。
笹竹で作った矢の先には、一番長い縫い針を使った残酷な遊びで、沢山の成仏した蛙さんごめんなさい!
そういえば我が家の庭に住み着いてるガマガエル、この春まだ会ってませんね。笑
田の畦みちを走っていくと、畦に並んでいたカエルたちが、ポチャン、ポチャンと音を立てて田の水面に飛び込む音のことを!
今では、トノサマガエルたちも減ってしまったのかもしれない。日本の農村風景って貧しくても豊かなものなのかもしれない。文通している俳人で作家のあのひとも、84歳くらいになると思うけど、俳句の味を知っているんですね。
ああ、世界の中心で愛を叫ぶ、か。核廃絶をほんとうに、世界の中心で叫ぶことが出来るのは、日本人かもしれないのに!
新潮文庫です。
1500円以上だったら送料無料で届きますので、+高樹のぶ子さんの「透光の樹」「季節の短編」(文春文庫)と併せたら、たぶん1500円になります・・ふるってご注文くださいませませ。
できあがった人物像を、別の視線から見る、というのも、面白いです。カエルボチャンか無音かの決着は、是非、田舎に行ったときに、自分で確かめて見ましょう!!
内容(「BOOK」データベースより)
ならず者と遊び人が集った蕉門、美男弟子との衆道関係、あの句にこめられた危険な秘密…いつしか神格化され「求道の人」のアイドルとなった松尾芭蕉。しかしその素顔は、芥川龍之介に「日本の生んだ三百年前の大山師」と言わしめるほど、凄腕の不良だった!「俳聖」を敢えて俗人と同じレベルで再考し、犯罪すれすれのところに成立した俳諧の真の凄味に迫る、画期的芭蕉論。第34回泉鏡花文学賞&第58回読売文学賞W受賞。
紅子の放言に敏感になられていらっしゃる。あんな暴言は、今の紅子だから許されるのであって、実は今後の展開ではどうなるか分からないと思います。もう少し見守っていましょうよ。
命取りになるかもしれない。現にケータイの彼女の行方は未だ分からないのですから。欧州版では、今朝は水卵の話でした。すごい表現と感心しながらも、ゆで卵の様な固さに頷きながらも、若干の違和感。。。それは私が半熟が好きだからではなく、多分、ゆで卵になったら、水卵の状態には戻らないからかしら。
作家にしろ、俳人にしろ、経験したことを言葉にするタイプと想像したことを言葉にするタイプがあると思います。その時々で違うかもしれません。現実を忠実に描写することも価値を見出せますが、想像の世界を描写することも価値あることではないでしょうか。しかも、それが読み手の琴線に触れるのであれば。
中国の飲んべえ詩人による、月と月光でできた自分の影と自分の3人で晩酌をしたとの目出度い詩がありますが、想像を膨らませ余韻を楽しむことで大いに満足しても悪くないのでは。
さあ皆様、目をお閉じになってつぶやいてみませんか。自分の世界で味わってみましょうよ。
古池や 蛙飛び込む 水の音
小説は・・リアルのことではありませんよね。
空想の世界で楽しむ世界だと思っています。
社会が大きく動いているのも事実、
でも小説の世界で男女が悩ましく動くのも・・
それはそれでいいではないですか。。
社会情勢に敏感に生きていく人もいれば、
今の生活を「いっぱいいっぱい」でしのいている人も沢山いるのですよ。
そういう苦しい中、
紅子さんのような奔放な生き方も、
これまた魅力的だと私は思いますよ。
キャリアウーマンの寂しいながらも素敵な生き方でしょう。
私のような凡人には味わえない世界ですが、
気分は「紅子」さんのようにありたい。。と思う
しがない主婦なんです。
知的生き方って・・・
私も憧れるところではありますが、、
なかなか理想どおりにはいきませんね。
紅子さんには自由に自分の気持ちに素直に生きていってもらいたいと、、
いつもそう思いながら小説を読ませていただいてました。
ご自分の体験を小説にするのか?
空想の世界を小説にするのか?
私には計り知れないところではありますが、、
それでも私は、
小説は小説と、、
それだけで楽しませていただいておりました。
しょせん・・
小説は作り事の話なのだと・・
そんなに皆さんがいきり立つようなことでもないと思っているのですが・・
どうでしょう~
古池にカエルが飛び込む時には間違いなく「音」があるでしょう~
無いわけがない。
私は理系の人間ですので・・
そんな風に思いました。
カエルが音を立てて飛び込んでも・・いいでしょう~?(笑)
もし音が出たとしたなら・・
その音を楽しめばいいのですから。。
お互いがんばりましょう
子雀と云えば小学三年の時に、校内で同じような幼い雀を拾って、皆で教室で一、二ヶ月飼ったことが有ります。
ハナバチなどの虫を捕まえ、子雀に与えるのが日課になり、一度ミツバチに親指を刺され、少し痛い思いもしました。
子雀は教室を伸び伸びと飛び回りましたが、授業中は籠の中に入り、休憩時間は皆の一人一人の机に立ち寄り、愛嬌を振り撒いて皆を嬉しがらせました。
自然に返そうと放ちましたが四五日の間は、呼べは野外から帰って来てました。
近年は「すずめ」と云う名前の焼酎も戴いてます。
心和む五七五調、心に浮かぶは、静寂の波紋、苔色がかった和の風景。
クッカバラさん、落ち着かせてくれて、ありがとう。
こちら東米国も、連翹が元気に黄色を輝かせ、マグノリアの蕾も弾け始めました。
当地の満開マグノリアは、私が知っている日本の木蓮より大きく、花色やや淡く、花数が多いせいか、いつも遠目に「えっ、桜?」。
わかっていても騙されるのは、全身で感じるこの陽気を桜の季節に覚えこんだからでしょう。
・・・
日経新聞文化部に送るべきコメントでしたね。
購読料を払ってるというおこがましさもありました。すみません。
でも、新聞紙上でこちらにリンクさせ、連載中の単行化も宣伝、いつかのコメントでも、「「甘苦上海」もSIA」、「ライブ」と記されていたことから、あえて、こちらに投稿しました。
不快に感じられた皆さまには失礼しました。
紅子の一人称小説と充分理解していますが、他者の運命を背負わない、たかが男女の濡れ場を、作家が「戦場」と表現されることに、どうしても引っかかって。。。
すみません、くどくて。
「甘苦上海」連載開始時、「渡辺淳一の女版かよ~」という声に「高樹のぶ子は違う!!」と言ってただけに、前言を翻さなくてはならないのかと心配しています。(名を得てからの渡辺淳一は文学でない、という共通認識)
若い頃、芥川賞受賞前後を楽しく読んでいました。
新聞連載の「百年の預言」は、その心意気に、意を添わせるように読んだものです。
今は、自分が海外でいっぱいいっぱいだから、敏感に反応してしまったのかもしれません。はい、見守りましょう。
小説だからこそ表現できるものを、期待しています。
煽るだけ煽る無責任なメディアにあっても、小説家の筋は貫いてください。
小説家は嘘を書く。嘘を書いて真実を描く。重ねて、期待しています。
文字処理能力がなく、長々と失礼しました。