最近好評で、来週に拡大版で最終回を迎えるテレビドラマ『Dr.コトー診療所2006』のロケ地が、沖縄県の、そして日本最西端の島である与那国島で行なわれているというのは有名な話だが、拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)の63ページにもあるように、僕も「コトー先生」が訪れる前に自転車を携えてこの島を訪れている。このドラマが前回撮影された2003年と2004年よりも少し前の、正確には2002年4月20~28日で、7泊8日の滞在であった。
この島を訪れた理由は、旅人ならば誰しも憧れる「最西端」を目指したいことなどたくさんあるのだが、拙著にもあるように僕の知人家族が島に住んでいて(しかも本土から移住した“ヤマトウチナーンチュ”ではなくれっきとした島出身の“ウチナーンチュ”、「島人」と称したほうが妥当)、この夫婦、特に奥様にお会いしたくて行きたかった、というのが与那国島に行く最大の決め手となった。
なお、このふたりは島出身ではあるけれども、以前にある事情でそれぞれ神奈川県と埼玉県で一時期暮らしていたこともあるいわゆる「出戻り」の方々で、一度島を出て島外の様子も見知っているため、島人によくある「村社会」という感じの保守的および閉塞的な雰囲気はなく、物事の発想も理解も比較的柔軟で視野も広い方々であった。結局、島滞在中はこの家に7泊8日のうち6泊7日「居候」させてもらった(あとの1泊は某所でテントなし野宿。原則的に島内でのキャンプは禁じられているため)。
また、ここで自転車旅に精通した方に向けてひとつ言い訳をすると、拙著の21ページ下段に、与那国島に行く1~2週間前の沖縄本島一周の「本編」の自転車旅で使用した自転車とそれに積載した荷物の写真がある。この荷物の量だけを見ると、この時期に沖縄本島を一周するくらいの短距離であればこの荷物の量は客観的に見ると多すぎるのだが、実はこのなかには野宿旅のためのキャンプ道具のほかに、与那国島のその知人のためのちょっとした土産物も併せて積んでいたため、分量が旅する必要最低限以上に多くなってしまった、という事情がある。つまり、この一周旅に取り組む以前から実は、八重山列島や与那国島に行くことも事前に見据えて旅の計画を立てていたということ。シェルパ斉藤のような「行きあたりばったり」の成り行き任せで与那国島に行ったというわけではなく、島に対して事前にそれなりの思い入れがあったことをここで補足しておきたい。
で、以下にその当時の写真を挙げるが、ただこのときはまだデジタルカメラではなく1万円弱で購入した安価なフィルムのコンパクトカメラを使用していたため、それで撮影したネガを写真店でCD-Rに焼いてもらったものだから、画質は最近のデジカメよりはかなり劣るが、そこはまあご容赦いただきたい。写真から当時の旅を振り返ってみる。

①ドラマでもコトーや剛洋の送迎、それに数々の“事件”があるたびに登場する、与那国島の玄関口である島西部の久部良港。週に2便、石垣島からの航路「フェリーよなぐに」が運航しているのだが、人とともに生活物資もたくさん運ばれてきて、フェリーが来た直後は島の住民や各種商店の人たちがこのように自分たちが注文していた物資を仕分けして回収しに来るため、活気づく。このすぐ右側に、(ドラマで言うところのしげさんを始めとする漁師たちの悶着がよくある)漁協がある。

②久部良港を少し離れたところ(徒歩10分ほど)から見るとこんな感じ。ちなみにここは「クブラバリ」という歴史的にやや重く受け止めなければならない穴というか岩の裂け目がある場所で、僕個人的には与那国島を巡るさいはやはり漏れなく訪れるべき場所だと思う。
それと、僕の知人はこのすぐ近所、後方の港にも徒歩3分ほどで行けるところに住んでいて、1週間そこで居候させてもらった。各種ガイド本でも紹介されているカレー店「ユキさんち」も港の近所にある。

③港がある久部良と、与那国町役場などがある島の中央部の祖内集落のほぼ中間地点にある与那国空港。当時、石垣島からJTA(日本トランスオーシャン航空)機が週2便往復、那覇からRAC(琉球エアーコミューター)機が週1便往復で運航されていた(※現在はやや変更されている。空港や旅行代理店によくあるJALの時刻表参照)。他地域の離島と同様に、基本的には漁業や農業で生計を立てている人が多いこの島では、このような空港や物資輸送関連の仕事に就くことは公務員と同様にそれらよりも結構な実入りになるらしい。

④島の東端である東崎(あがりさき)の付近では、島固有の馬である「与那国馬」が放牧されていて、このように車道にも平気で出てきて草を食んでいたりする。僕が近付いても、「あら、また観光の人が来たのね」という感じでまったく意に介さず、のそのそ移動しながら悠然と食べ続けていた。
まあこの島の端っこあたりは基本的にクルマはそんなに通行しない場所だから(観光客を乗せたタクシーや農作業の軽トラックなんかが10分に1台通行すればよいほう)、常に強く警戒する必要もないけど。それに固有種で以前よりも頭数が減少しているだけに丁重に扱われるため、島独特の緩い時間が流れるなかで人間以上にかなり良い待遇で生活している。

⑤島南部の比川浜。現在はこの写真の左側にコトー先生が常駐する診療所があるが、2003年にドラマの撮影が始まる前はこんな感じ。たしかに南方の海の眺めは良く、テレビのロケ地として映える場所ではある。
ちなみに、ドラマに関してひとつだけ夢のないツッコミを入れるとすると、ドラマではコトー先生が自転車で、2003のほうでは彩佳、2006のほうではミナが徒歩でこの診療所がある比川から①の久部良港まで涼しい顔で移動している場面がよくあるが、実はこの2点間は直線距離にすると約4kmあり、しかも島は台形状の地形のために島の東西や南北に移動する場合は内陸でやや大きな上り坂と下り坂を必ず通らなければならないため、実際に人力で移動する場合はそんなに涼しい顔はしていられない、はず。それに沖縄本島以上に暑いし。この区間は徒歩であれば1時間はかかる距離だから。
僕はこのときに自転車で島を一周していることもあって島内の距離感と地形は熟知しているため、毎回その場面展開の妙が面白おかしくて(良い意味で)プッと吹き出してしまう。まあドラマだからそのへんのつなぎ方にはいろいろ事情があるのはわかるけど。そんな「コトー先生」の暮らしを島で追体験したければ、やはり一度は訪れるべきかな。

⑥島南部の「南牧場」がある車道の出入口には、このように車道に深い溝を掘った「テキサスゲート」がある。これは放牧している牛が逃げないようにするための措置らしいが、賢い牛であれば溝がない細い部分を上手に渡って通過できる気もするが、実際はどうなんだろう? このときは牛がここで立ち往生している場面は見かけなかったが、島を再訪するときはここをもっとじっくり観察したい。

⑦⑥の場所から西に200~300mほど移動したところ。ここからもやはり南方の海の眺めはすこぶる良い。実際、拙著の178~179ページに挙げた本島最南端の喜屋武(きゃん)岬からよりも西の台湾も南のフィリピンも距離的には近いのだから、より異国情緒を味わうことができる。
ちなみに、ドラマのエンディングでコトー先生が中島みゆきのドラマ主題歌「銀の龍の背に乗って」に合わせて必死こいて自転車を漕いでいるのはこの写真手前数百mあたり。東の⑤比川から西に向けて緩やかに登り坂になっているため、ペダルを踏み込む力もより入るわけだ。
それにしても、コトー先生のあの漕ぎ方は自転車乗り的な視点から見るとやや問題で、サドルの位置が低すぎるように思う。あの位置で漕ぐと、膝がペダルをいちばん上に引き上げたときに角度で言うと90度以下に屈折して、明らかに膝に悪い。ペダルを漕ぐときの膝の屈折はそのときは90度、ペダルをいちばん下に下ろしたときに110~120度あたりになるように調節したほうがより足の力がペダルに伝わりやすいし、膝も痛めずに済む(まあこの角度は個人差があるけど)。歳を取ってからの脚力に影響するはず。
だから、このドラマで劇中の重要な小道具として自転車を前面に押し出している点については自転車好きの僕としても拍手を贈りたいが、医師としてはあのペダルの漕ぎ方やサドルの位置にして不健康まっしぐらになるのはいかがなものか? という野暮なツッコミもドラマ全般で毎回入れたくなる。

⑧島中央部の、知人が持っている牛を育てている牛舎。
冒頭で知人宅に「居候」したと書いたが、滞在中は毎日、知人が持っているこの牛たちの世話やサトウキビ畑の手入れを手伝っていた。ちょうど訪れたときの少し前から狂牛病が騒がれ始めたから、1頭ずつに全頭検査のための11ケタのコード番号というかバーコードが記載れた黄色のタグが付けられていた。
で、ここで小話をひとつ。
知人のその手伝いで主に行なったことが、牛の餌になる牧草の刈り取りで、北海道のように大きな面積で放牧して、牧草ロールを蓄えたりするほどは牧畜は盛んではないこの土地では、鍬を駆使して牧草を集める、という地道な手作業に最も従事した。これがまた意外と重労働で、マジメにやると手にマメができ、しかも南国なので暑くて大汗をかくし、牧畜は結構大変なんだなあ、と当時は最西端の島で毎日牧畜の大変さを肌で実感していた。正直、映画『深呼吸の必要』のようなサトウキビ刈りならまだしも、沖縄県で牛と戯れるとは事前にはとても想像できなかったが、今となっては良い経験であったと言える。
実はこのときに僕が知人から借りた鍬はやや古いもので、取っ手の部分がなくなっていてしかもその持つところも思いっきり錆びていたため、作業はより難航したりした。
そしてある日、作業中に汗で手を滑らせてその取っ手の鋭利状に出っ張った部分に右腕の内側を突っ込ませ、幅約1cm、深さは約5mmほどざっくり切ってしまった、ということがあった。痛みはそんなになかったが、その傷跡が後々まで残り、現在も僕の右腕にはそのときできた傷跡が残っている。しかもこれは現在も入浴や洗顔をするときに必ず目に入る目立つ位置にあるので、ほぼ毎日、この傷跡を見るたびに与那国島で短期間ながらも実際に「生活」していたことが思い出される。
傷跡が残るというのはふつうは忌み嫌われるものだが、僕のこの傷の場合はそんなふうに島への想いをしょっちゅうかきたてられて心が豊かになる、という点では言い方がヘンになるが「良い傷」だったりする。この傷を毎回見るたびに、与那国島は僕にとって今や他人事では済ませることはできない重要な島である、ということを日々再確認している。この傷を持っていることが、僕は沖縄県とは距離的にはかなり離れてはいるけれども精神的には深い接点があり、しかもこの旅のあとに拙著を書く原動力のひとつにもなった、というちょっとした自慢。

⑨⑤から⑥と⑦を経由して西に行くと、多くの旅人憧れの、有人島・無人島問わず日本最西端の西崎(いりさき)に辿り着く。ここからは①へも、逆に①からここへも徒歩10分強で行ける。ここからは思いっきり晴れた日の特に夕方あたりにたまに台湾が見えるそうだが、僕が滞在したときはそこそこは晴れていたけれども見えなかった。
ちなみに、港付近のこの距離感をまとめると、僕がこのときお世話になった知人宅から港を経由してここまで、徒歩15分ほどで行けてしまう。朝のちょっとした散歩で日本最西端に何の気なしにふらっと行ける、というのはよく考えると凄いことだ。実際、僕も島滞在中にここには計3回行っていて、しかもこの写真は(小・中学生も含めた)地元住民も他所からの旅人もまだ動き始めていない朝6時台に早起きして散歩に行ったときに撮影したもの。
こんなにお手軽に日本の地理を考えるうえでのかなりの重要地点に日常的に触れることができるというこの島は、地理学を専攻する僕としては人一倍興味深い場所であり、訪れてから4年経った今現在も憧れる。

⑩「フェリーよなぐに」から見た、与那国島の遠景。やや台形っぽい地形になっていて、特に写真左側の東崎のほうは断崖絶壁になっている。
このへんの海はよく荒れるらしく、僕も石垣島への帰りのフェリーではかなりやばかったが、これまでにも全国各地で航路での移動中に戻したことは一度もない! という自尊心から、石垣島までの所要約4時間はなんとか我慢した(ちなみに、下船後に戻したことは、2005年に沖縄本島付近で漁船に乗ったときに一度ある)。
まあ2002年の旅で視てきた与那国島はこんな感じである。その後も常に再訪の機会は狙っているのだが、沖縄本島には容易に行けても八重山の島々はやはり距離的に難しく、簡単に手は出せずにいる。そう思っているうちに4年経ってしまった。知人には3人の子どももいるのだが、彼ら彼女らのその後も気になるし(島の子たちは高校に進学する場合は石垣島以北に出る必要がある)、もちろんそのほかにもまだ未知の島の風景や暮らしも気になる。ぜひ近いうちに再訪しなきゃなあ、とドラマや各種媒体で与那国島の風景に間接的に触れるたびに想いを馳せてしまう。
なんとかして1~2年以内に再訪したいものであるよ。
※写真③の補足
2006年12月現在、与那国島へ飛行機で行く場合には、石垣-与那国間のJTA機が毎日1往復、RAC機が週4日のみ1往復、それに那覇-与那国間でRAC機が週4日のみ1往復、運航されている。以前からそんなに劇的な変化はないが、旅行者の動向によっては今後もダイヤの変更は度々あるだろうな。東京-那覇間、那覇-石垣間の便はJAL、ANAともにたくさんあるのだが、石垣から先はちょっと注意が必要。
だから時刻表を読むと一応は、経済的に比較的余裕があれば空路利用で東京や大阪からも与那国島へは1泊2日や2泊3日の強行日程でも行けることは行けるのだが、やはり実際に島へ行くにはそんな駆け足ではもったいないので、もっと時間をかけて島の時間をゆっくり体験してもらいたいな、といち与那国島ファンの僕としては余計なお世話な気持ちになる。