goo blog サービス終了のお知らせ 

思考の7割と収入の3割を旅に注ぐ旅人の日々

一般的には遊び(趣味)と見下されがちな「旅」も、人生のなかでやるべき「仕事」である、という気概で旅する旅人の主張と報告。

拙著『沖縄人力紀行』の補足10 沖縄県内で犯した罪への罰は本土よりも重そうだ

2006-12-25 11:00:29 | 拙著の補足・訂正

拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)の154~155ページでも触れているが、罰当たりな行為は控える、というのは全国、いや全世界共通のことで、僕も旅するさいは他人へよりも自分により厳しくならなければ、と常に律しながら行動している。僕は特に、野宿のような一般的には怪しまれやすい、最悪の場合は犯罪者呼ばわりされかねない行為を嗜好しているため(警察官の職務質問もいくらか受けたことがあるし)、その想いというか自分が周りからどう見られているか、ということは人一倍、いや二倍以上気にしている。こんなふうに僕と同様の感覚で実践している旅人は多いはずだ。

自分さえ良ければそれで良い、という自己満足が先行する旅もそれはそれで楽しいかもしれないが、やはり「旅」というのは他所の土地の日常に一時的にではあるけれどもお邪魔させてもらう行為なのだから、とにかく気を付けたいところである。
逆に、自分の生活圏、つまり地元の場所で他所者が目障りなこと、例えば粗大ゴミの投棄やら、壁やシャッターへの落書きやら、散歩の犬の糞の放置やら、小学生がよくやるいたずらの“ピンポンダッシュ”やら、クルマや二輪車による暴走行為やら、をやられたら腹が立つでしょう? まあそこまでの行為や、以前よく報道されていた「ゴミ屋敷」や「騒音おばさん」のようなひどい事例まではいかないまでも、旅先においても自分が気付かないうちに地元住民から、市原悦子が演じる家政婦のように良くも悪くも物陰から注視されているかもしれないことは常に意識しておきたい。

特に沖縄県の場合、名護市内で見つけた上の写真の看板のように「御嶽(うたき)」というものが、世界遺産に登録されている本島南部の「斎場御嶽(せーふぁうたき)」以外にも県内各所に点在し、祠や林のなかに佇んでいることが多いそのような特異な空間のそこでは、仏教のような偶像崇拝よりはどちらかと言うと環太平洋の島々のような自然崇拝に近いカタチの儀礼が執り行なわれる。そうなると前者よりは後者のほうが罪を犯したときの罰というかしっぺ返しもより厳しくなるはずだ、と僕は思っている。

僕としては、大自然の力は偉大であるよ、ということは登山(特に雪山)や、拙著の86~89ページの向かい風のなかで自転車を走らせることの難しさ、のような事例によって毎回痛感しているが、こういうことを体験すると、本土の都会で日々繰り広げられている街をわざと汚す行為や他人の足を引っ張るような行為がアホらしく見えてくる。やはり21世紀の旅は、自分だけ良い「結果」を出せればそれでよい、では済まされない、自分以外の他者とのつながりも考える行為にしていくべきではないかと思う。それを「過程」のなかで感じて見直すためにうってつけで(でも「自分探し」とは方向性がかなり異なるが)、旅する人がより良い「大人」に近付く、というか行動することによって自動的に近付いていく旅のカタチが、拙著で提示している「人力」で移動する旅である、ということ。


年内の拙著の補足はここまで。来年も、気が向いたときにつらつら書いていく予定。すでに用意している話もいくつかあるが、まだ精査したい部分もあるので来年以降に先送りすることにする。ではまた。

拙著『沖縄人力紀行』の補足9 二千円札を使っていますか?

2006-12-25 10:00:11 | 拙著の補足・訂正

拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)では特に触れなかったが、2000年の九州・沖縄サミットの開催に合わせて発行された二千円札という紙幣がある。これはみんな知っているはずだが、実際に使っています?
最近は本土の都会でも銀行にわざわざ両替をしに行かないと入手できないが(しかも両替機は大概は二千円札に対応できない古い機種なので、それよりは時間がかかる用紙に記入しての窓口対応になるし)、僕が沖縄県に行くときは毎回、あらかじめいくらかの二千円札を用意してから出かけるように努めている。
上の写真は那覇市内で2003年から運行しているモノレール「ゆいレール」の駅で見つけたもので、ほぼ各駅の改札口付近に貼られているから首里城見物などでゆいレールを利用したことのある人であれば一度は見かけたことがあるはずだ。

この二千円という額面は、世界的には20ドル札のように結構使いでのあるもののはずだが、日本の場合は前々から千円札や五百円硬貨が大量に普及しているため(中国だか韓国だかの偽造団が五百円硬貨を集中的に狙っているのもなんとなくわかる)、現状ではそれらの組み合わせでも事足りる場合が多い。本土の鉄道などの自動券売機や販売機でも二千円札には対応していない機種はまだまだ多く、僕の普段の生活においても入手経路および使い勝手はあまりよろしくない。

この貼り紙だけを見ると、守礼門が印刷されていることによって沖縄県民にとっては誇れる札なのだな、もっと流通されるべきものだな、と喚起される。が、沖縄県内の旅先で知り合ったウチナーンチュの方に事あるごとに二千円札を使っているか? と訊くとほとんど使っていない、わざわざ両替するのが面倒、と本土と同様の返答をされ、やはり実際には県内ではあまり流通していないという現実が垣間見られ、特に気にも留めておらずにぞんざいな扱いを受けている印象がある。故小渕恵三元首相や旧大蔵省にとっても、現在の沖縄県民にとっても、二千円札は今や記念通貨的な存在に成り下がっているのかなあ、せっかく税金を大量投入して創ったのにもったいないなあ、とやや寂しくもなる。

沖縄県好きの僕としてはそんな閉塞感を打開すべく、最近も銀行に行く機会があれば手間はかかるけれども積極的に二千円札に両替し、できるだけ実際に使うように努めている。二千円札が誕生してから6年経過しているにもかかわらず現在も世間にあまり流通していないのを見ると、現財務省の印刷・流通コスト的にはいくらか問題があるからそうなっているのだろうが、「ああそうか、沖縄県があったか」と改めて気付いてもらうべく、せっかくあるこの札を使いまくることも、拙著の130~131ページにも書いた(旅においての)「社会貢献」につながるのではないか。
この札に触れることによって気付きを促して、より多くの人に意識をほんの少しでも沖縄県に向けさせることも、沖縄県へのささいな恩返しというか貢献にもつながるかな、と僕個人的には考えている。

拙著『沖縄人力紀行』の補足8 小学生もウチナータイム?

2006-12-25 09:00:38 | 拙著の補足・訂正

拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)の27ページ12行目にもあるように、沖縄県には「テーゲー」、つまり沖縄らしいおおらかさというか適当さからくる「ウチナータイム」という概念があり、例えば友人知人などと集まる約束をしても、全員が時間どおりに集まることはなく遅刻しまくったりすることがよくあるようで、僕も本島内各地で運行されている路線バスに乗るときに時刻表の運行時間から10~20分近く遅延されたりすることによっていくらか体験もしている。

これは大人たちだけの話なのかなと思ったのだが、やはり現代日本のなかでも特有の空気がある沖縄県では実際には老若男女問わずこの精神が根付いているようで、そんな大人を見て育った子どもである小学生も同様なのだな、と感じたのが、糸満市内のある小道というか通学路で見つけた上の写真のような看板であった。
僕の地元も含めて本土の都会の学校であれば、「○時までに登校しましょう」と時間をきっちり厳守させるようにしつけるところだが、この看板の場合は「8時ごろ」と表記していて、「ごろ」で曖昧さを残した表現をしているところがなんとも沖縄らしい。

今年だったか、あるテレビ番組で沖縄県内のとある大人たちの飲み会に密着して、事前に参加表明をしている総勢20名近くの参加予定者たちは幹事が設定した時間にきっちり集まることができるのか? という実験をしていたが、その結果が面白かった。
設定時間どおり(18時か19時だったような)に会場に来た人は幹事以外はひとりもおらず、20分、30分と経つごとにぽつぽつ集まり始め、設定時間から1時間経過しても予定の半分程度しか集まらない。さらに時間が経ち、宴席が終了する間際に来た人もいた。が、最終的には来なかった人もいて(本土で言うところの「ドタキャン」か)、その来なかった人に電話して来なかった理由を問い詰めてみても特に悪びれた様子もなく(その人は集まりがあることを忘れていたとか)、幹事のほうもああそうなのか、と納得していた。参加予定者の大半が大幅に遅刻し、しかも全員揃わない、そんな集まり方がいつもどおりの光景なのだそうだ。
これが本土であれば人の信用にもかかわる大問題に発展するところだが、現代の沖縄県ではこんな曖昧さが許されてしまうことがある意味凄い。ちょっとの遅れでもカリカリせずに物事をおおらかに受け止めるこういった気質があることは、これはこれで良いことなのかもしれない。
冒頭の看板で「ごろ」と表記しているのも、これを書いた教師などの学校関係者側が普段は時間を厳守できない、つまり説得力のない行動をしているからこそ、生徒に対しても甘くなるというか強くは言えないためにこの表記になったのだろう。
沖縄本島でも約束ごとをする場合はこんな感じなのだから、離島のほうではもっとひどい、というか適当さがあるのかな、と思う。それは先の投稿でも触れた(2002年に訪れた)与那国島に行って知人と生活していたときにもいくらか感じた。

そんなことから、僕が沖縄県内を旅するときも「ウチナータイム」がたしかにあることを意識しながら、時間に余裕を持たせて行動するようにしている。本土からの多くの観光客も、いちいちカリカリせずにそんな概念があることを事前に予習してから訪れたほうがよいと思う。
でも、今年9月に友人と本島に行ったときにレンタカーを借りたさいには、設定時間どおりの返却を、と言われたし案内にも書かれていたが(まあこれは当たり前のことなのだが)、那覇市内の飲食店のように本土からの観光客、つまり“お得意様”を受け入れることで成り立っている商売であれば、いくらかは「ウチナータイム」を封印しつつも本土のような時間きっちりの対応をしているところが多いようだ。

拙著『沖縄人力紀行』の補足7 「暴走自転車」とは?

2006-12-15 11:30:16 | 拙著の補足・訂正
先週8日の投稿でも、拙著『沖縄人力紀行』(彩図社)161ページ9行目でも触れている「暴走自転車」という表現についても補足しておきたい。

自転車は原則的には車道の左端を通行すべき「軽車両」であることは本ブログでも何度も触れているが、それとともに赤信号停止、交差点での二段階右折、夜間の灯火などの交通法規は一般的なクルマと同様で、それらを車道上で違反している(もちろん飲酒運転や運転中の携帯電話の使用なども含まれる)、ということについても言えるのだろう。が、車道のクルマや二輪車の交通量が多すぎる幹線道路で自転車が車道を通行するのがやや困難な場合に一時的に例外的に歩道の通行を「許可」している歩道において、本来は歩行者が難なく通行できるために設定している歩道を、自転車がひょいっと何の気なしに“侵入”してきて、歩行者に何の配慮もなく歩行者と同等の感覚で我が物顔で疾走する輩のことを、一般的に「暴走自転車」と呼んでいる。
歩行者にとっては「凶器」以外の何者でもないそれらのふざけた自転車とのつまらない歩道上の事故によって(ほぼ100%自転車側に非がある)、歩行者の被害が近年急増しているのが大問題で、先の警察庁がまとめた「提言」はそれを助長しかねない悪文である、ということで僕もこれに違和感を唱えている次第。

文字でああだこうだ長々と書いても伝わりにくいので、そのわかりやすい事例として、以下に昨年に撮影した加工なし写真も挙げておく。なぜこれに写っている人物の顔などを加工していないのかという理由は以前の投稿でも触れたが、このような犯罪的行為には断固として反対の姿勢を取る僕としては、このような“悪行”を行なう人々はそのまま公開することにしている。

この写真は2005年9月1日に埼玉県志木市の歩道で撮影したもので、これは西から東に向けて撮影していて、ここから400mほど東に、関東圏の自転車乗りにはお馴染みの自転車専門店「ワイバイシクルズ志木本店」があるのだが、それが主な理由なのか、それともこの写真の右側にある埼玉県内有数の進学校である慶応志木高校があるからなのかどうかはよくわからんのだが、この通りは前々から車道上の自転車専用レーンがきちんと整備されていて、僕としても10年以上前から注目している道路である。
で、こうやって自転車が通行すべきところがここでは特にわかりやすく丁寧に設定されているのにもかかわらず(自転車レーンの路面の青色着色は2005年から)、この自転車乗りは歩道を堂々と通行し、しかも携帯電話を使用しながら、さらには目の前にこのときは歩行者である僕がいるのにもかかわらず僕を注視して減速したりすることもなくふらふら通行していやがる。これほどわかりやすい悪例はないな。いったいいくつの交通違反を犯しているのだろうか。いちいち罪の数を数えるのも面倒だ。こういう人道的に100%間違っている愚行は罰金なり懲役なりの刑を合算して考えてもよいと思うのだが、やはり現行法では「携帯電話の使用」くらいしか引っかからないのかね。





それと、僕がいつも「暴走自転車」か否かを判断する基準をひとつお知らせすると、歩道上で自転車乗りと交わる場合にそいつがブレーキを握っているか否か、というところに注目している。
自転車が歩道を通行する場合は減速→徐行、または降りて自転車を押しながら歩いて、ととにかく道行く歩行者に誠に申し訳ないという気持ちで謙虚に通らねばならないのだが、街なかでは特に歩行者がいてもまったく徐行しないアホな自転車が多く、そうなると歩行者のことなんかは眼中にはなく(ただの障害物としか思っていないのだろう)、とにかく速く移動することに力を注ぐためにブレーキを握らずに走ることが多い。僕はそうやって歩道上でもブレーキを握らずに走る気満々のやつらは「暴走自転車」と判断していて、ブレーキを握らない=歩行者無視、と解釈し、そのブレーキを握っていないアホ自転車が前方から迫ってきて明らかに歩行者である僕を除けようともせずに“攻撃”してくる場合は2006月4月15日の投稿でも触れた“馬場キック”のような“迎撃”の態勢を取って警戒している。この判断は時間にすると長くても1、2秒と短い時間のことなので、そんな場合のとっさの判断はちょっと難しいかもしれないが(人によって視力も異なるから、それによって危険か否かの判断のタイミングも変わってくる)、「まあ自転車が除けてくれるだろう」とのほほんとしていると、特に混雑する繁華街の歩道ではぶつけられて痛い目を見る可能性が高い。

また、その“攻撃”を1秒以内でもっと瞬間的に判断しなければならないときは、志村けんの「アイ~ン」のポーズのように、肘を前方に突き出して“暴走自転車”との接触の衝撃を和らげるような対処もしている。どちらかと言うと、足よりはこの肘を繰り出すほうが回数は多いかも。ただ、これはプロレス技のエルボーのように横方向に力を入れるのではなく、肩幅くらいの広さで前に力を入れて、あくまで自転車との衝突時の衝撃を受け流すために出している。もちろん、誰彼かまわず繰り出しているわけではない。大概は歩道上を時速20km以上で爆走している輩にのみ行なっている。これくらいは「正当防衛」として認められても良いはずだ。歩道上で自転車にやられ放題、暴走され放題では納得いかない。
何もしないよりはいくらか用心したほうがよいので、とにかく僕は自転車乗りのブレーキを注視している。特に、制動が利きやすい右手、つまり前輪のほうのブレーキを見ている。その観点からいくと、上の写真の自転車乗りもブレーキを握っておらず、しかも片手運転で、どこからどう見ても明らかに「暴走自転車」である、と容易に判断できる。

でもまあ大概の自転車乗りは(特に走る気満々という感じではない主婦のママチャリなんかは)きちんとブレーキを握っているものだが、そうではないやつも実際多いので(ここ数か月の埼玉県・東京都の街での観察結果としては、握る:握らない=4:6くらいの割合)、まずはブレーキを見てから警戒している。これは歩道を歩行者状態で歩く場合はぜひやっておいたほうがよい。男性であれば、自転車にいきなり真正面から突っ込まれて大事なところを痛打されたら後々の行動にも影響するし、歩行者が歩道を堂々と通行する当たり前の権利は自らの手で守り抜きたいものだ。

拙著『沖縄人力紀行』の補足6 「Dr.コトー」が定住する以前の与那国島

2006-12-15 09:00:15 | 拙著の補足・訂正
最近好評で、来週に拡大版で最終回を迎えるテレビドラマ『Dr.コトー診療所2006』のロケ地が、沖縄県の、そして日本最西端の島である与那国島で行なわれているというのは有名な話だが、拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)の63ページにもあるように、僕も「コトー先生」が訪れる前に自転車を携えてこの島を訪れている。このドラマが前回撮影された2003年と2004年よりも少し前の、正確には2002年4月20~28日で、7泊8日の滞在であった。

この島を訪れた理由は、旅人ならば誰しも憧れる「最西端」を目指したいことなどたくさんあるのだが、拙著にもあるように僕の知人家族が島に住んでいて(しかも本土から移住した“ヤマトウチナーンチュ”ではなくれっきとした島出身の“ウチナーンチュ”、「島人」と称したほうが妥当)、この夫婦、特に奥様にお会いしたくて行きたかった、というのが与那国島に行く最大の決め手となった。
なお、このふたりは島出身ではあるけれども、以前にある事情でそれぞれ神奈川県と埼玉県で一時期暮らしていたこともあるいわゆる「出戻り」の方々で、一度島を出て島外の様子も見知っているため、島人によくある「村社会」という感じの保守的および閉塞的な雰囲気はなく、物事の発想も理解も比較的柔軟で視野も広い方々であった。結局、島滞在中はこの家に7泊8日のうち6泊7日「居候」させてもらった(あとの1泊は某所でテントなし野宿。原則的に島内でのキャンプは禁じられているため)。

また、ここで自転車旅に精通した方に向けてひとつ言い訳をすると、拙著の21ページ下段に、与那国島に行く1~2週間前の沖縄本島一周の「本編」の自転車旅で使用した自転車とそれに積載した荷物の写真がある。この荷物の量だけを見ると、この時期に沖縄本島を一周するくらいの短距離であればこの荷物の量は客観的に見ると多すぎるのだが、実はこのなかには野宿旅のためのキャンプ道具のほかに、与那国島のその知人のためのちょっとした土産物も併せて積んでいたため、分量が旅する必要最低限以上に多くなってしまった、という事情がある。つまり、この一周旅に取り組む以前から実は、八重山列島や与那国島に行くことも事前に見据えて旅の計画を立てていたということ。シェルパ斉藤のような「行きあたりばったり」の成り行き任せで与那国島に行ったというわけではなく、島に対して事前にそれなりの思い入れがあったことをここで補足しておきたい。

で、以下にその当時の写真を挙げるが、ただこのときはまだデジタルカメラではなく1万円弱で購入した安価なフィルムのコンパクトカメラを使用していたため、それで撮影したネガを写真店でCD-Rに焼いてもらったものだから、画質は最近のデジカメよりはかなり劣るが、そこはまあご容赦いただきたい。写真から当時の旅を振り返ってみる。



①ドラマでもコトーや剛洋の送迎、それに数々の“事件”があるたびに登場する、与那国島の玄関口である島西部の久部良港。週に2便、石垣島からの航路「フェリーよなぐに」が運航しているのだが、人とともに生活物資もたくさん運ばれてきて、フェリーが来た直後は島の住民や各種商店の人たちがこのように自分たちが注文していた物資を仕分けして回収しに来るため、活気づく。このすぐ右側に、(ドラマで言うところのしげさんを始めとする漁師たちの悶着がよくある)漁協がある。



②久部良港を少し離れたところ(徒歩10分ほど)から見るとこんな感じ。ちなみにここは「クブラバリ」という歴史的にやや重く受け止めなければならない穴というか岩の裂け目がある場所で、僕個人的には与那国島を巡るさいはやはり漏れなく訪れるべき場所だと思う。
それと、僕の知人はこのすぐ近所、後方の港にも徒歩3分ほどで行けるところに住んでいて、1週間そこで居候させてもらった。各種ガイド本でも紹介されているカレー店「ユキさんち」も港の近所にある。



③港がある久部良と、与那国町役場などがある島の中央部の祖内集落のほぼ中間地点にある与那国空港。当時、石垣島からJTA(日本トランスオーシャン航空)機が週2便往復、那覇からRAC(琉球エアーコミューター)機が週1便往復で運航されていた(※現在はやや変更されている。空港や旅行代理店によくあるJALの時刻表参照)。他地域の離島と同様に、基本的には漁業や農業で生計を立てている人が多いこの島では、このような空港や物資輸送関連の仕事に就くことは公務員と同様にそれらよりも結構な実入りになるらしい。



④島の東端である東崎(あがりさき)の付近では、島固有の馬である「与那国馬」が放牧されていて、このように車道にも平気で出てきて草を食んでいたりする。僕が近付いても、「あら、また観光の人が来たのね」という感じでまったく意に介さず、のそのそ移動しながら悠然と食べ続けていた。
まあこの島の端っこあたりは基本的にクルマはそんなに通行しない場所だから(観光客を乗せたタクシーや農作業の軽トラックなんかが10分に1台通行すればよいほう)、常に強く警戒する必要もないけど。それに固有種で以前よりも頭数が減少しているだけに丁重に扱われるため、島独特の緩い時間が流れるなかで人間以上にかなり良い待遇で生活している。



⑤島南部の比川浜。現在はこの写真の左側にコトー先生が常駐する診療所があるが、2003年にドラマの撮影が始まる前はこんな感じ。たしかに南方の海の眺めは良く、テレビのロケ地として映える場所ではある。
ちなみに、ドラマに関してひとつだけ夢のないツッコミを入れるとすると、ドラマではコトー先生が自転車で、2003のほうでは彩佳、2006のほうではミナが徒歩でこの診療所がある比川から①の久部良港まで涼しい顔で移動している場面がよくあるが、実はこの2点間は直線距離にすると約4kmあり、しかも島は台形状の地形のために島の東西や南北に移動する場合は内陸でやや大きな上り坂と下り坂を必ず通らなければならないため、実際に人力で移動する場合はそんなに涼しい顔はしていられない、はず。それに沖縄本島以上に暑いし。この区間は徒歩であれば1時間はかかる距離だから。
僕はこのときに自転車で島を一周していることもあって島内の距離感と地形は熟知しているため、毎回その場面展開の妙が面白おかしくて(良い意味で)プッと吹き出してしまう。まあドラマだからそのへんのつなぎ方にはいろいろ事情があるのはわかるけど。そんな「コトー先生」の暮らしを島で追体験したければ、やはり一度は訪れるべきかな。



⑥島南部の「南牧場」がある車道の出入口には、このように車道に深い溝を掘った「テキサスゲート」がある。これは放牧している牛が逃げないようにするための措置らしいが、賢い牛であれば溝がない細い部分を上手に渡って通過できる気もするが、実際はどうなんだろう? このときは牛がここで立ち往生している場面は見かけなかったが、島を再訪するときはここをもっとじっくり観察したい。



⑦⑥の場所から西に200~300mほど移動したところ。ここからもやはり南方の海の眺めはすこぶる良い。実際、拙著の178~179ページに挙げた本島最南端の喜屋武(きゃん)岬からよりも西の台湾も南のフィリピンも距離的には近いのだから、より異国情緒を味わうことができる。
ちなみに、ドラマのエンディングでコトー先生が中島みゆきのドラマ主題歌「銀の龍の背に乗って」に合わせて必死こいて自転車を漕いでいるのはこの写真手前数百mあたり。東の⑤比川から西に向けて緩やかに登り坂になっているため、ペダルを踏み込む力もより入るわけだ。

それにしても、コトー先生のあの漕ぎ方は自転車乗り的な視点から見るとやや問題で、サドルの位置が低すぎるように思う。あの位置で漕ぐと、膝がペダルをいちばん上に引き上げたときに角度で言うと90度以下に屈折して、明らかに膝に悪い。ペダルを漕ぐときの膝の屈折はそのときは90度、ペダルをいちばん下に下ろしたときに110~120度あたりになるように調節したほうがより足の力がペダルに伝わりやすいし、膝も痛めずに済む(まあこの角度は個人差があるけど)。歳を取ってからの脚力に影響するはず。
だから、このドラマで劇中の重要な小道具として自転車を前面に押し出している点については自転車好きの僕としても拍手を贈りたいが、医師としてはあのペダルの漕ぎ方やサドルの位置にして不健康まっしぐらになるのはいかがなものか? という野暮なツッコミもドラマ全般で毎回入れたくなる。



⑧島中央部の、知人が持っている牛を育てている牛舎。
冒頭で知人宅に「居候」したと書いたが、滞在中は毎日、知人が持っているこの牛たちの世話やサトウキビ畑の手入れを手伝っていた。ちょうど訪れたときの少し前から狂牛病が騒がれ始めたから、1頭ずつに全頭検査のための11ケタのコード番号というかバーコードが記載れた黄色のタグが付けられていた。

で、ここで小話をひとつ。
知人のその手伝いで主に行なったことが、牛の餌になる牧草の刈り取りで、北海道のように大きな面積で放牧して、牧草ロールを蓄えたりするほどは牧畜は盛んではないこの土地では、鍬を駆使して牧草を集める、という地道な手作業に最も従事した。これがまた意外と重労働で、マジメにやると手にマメができ、しかも南国なので暑くて大汗をかくし、牧畜は結構大変なんだなあ、と当時は最西端の島で毎日牧畜の大変さを肌で実感していた。正直、映画『深呼吸の必要』のようなサトウキビ刈りならまだしも、沖縄県で牛と戯れるとは事前にはとても想像できなかったが、今となっては良い経験であったと言える。
実はこのときに僕が知人から借りた鍬はやや古いもので、取っ手の部分がなくなっていてしかもその持つところも思いっきり錆びていたため、作業はより難航したりした。
そしてある日、作業中に汗で手を滑らせてその取っ手の鋭利状に出っ張った部分に右腕の内側を突っ込ませ、幅約1cm、深さは約5mmほどざっくり切ってしまった、ということがあった。痛みはそんなになかったが、その傷跡が後々まで残り、現在も僕の右腕にはそのときできた傷跡が残っている。しかもこれは現在も入浴や洗顔をするときに必ず目に入る目立つ位置にあるので、ほぼ毎日、この傷跡を見るたびに与那国島で短期間ながらも実際に「生活」していたことが思い出される。
傷跡が残るというのはふつうは忌み嫌われるものだが、僕のこの傷の場合はそんなふうに島への想いをしょっちゅうかきたてられて心が豊かになる、という点では言い方がヘンになるが「良い傷」だったりする。この傷を毎回見るたびに、与那国島は僕にとって今や他人事では済ませることはできない重要な島である、ということを日々再確認している。この傷を持っていることが、僕は沖縄県とは距離的にはかなり離れてはいるけれども精神的には深い接点があり、しかもこの旅のあとに拙著を書く原動力のひとつにもなった、というちょっとした自慢。



⑨⑤から⑥と⑦を経由して西に行くと、多くの旅人憧れの、有人島・無人島問わず日本最西端の西崎(いりさき)に辿り着く。ここからは①へも、逆に①からここへも徒歩10分強で行ける。ここからは思いっきり晴れた日の特に夕方あたりにたまに台湾が見えるそうだが、僕が滞在したときはそこそこは晴れていたけれども見えなかった。
ちなみに、港付近のこの距離感をまとめると、僕がこのときお世話になった知人宅から港を経由してここまで、徒歩15分ほどで行けてしまう。朝のちょっとした散歩で日本最西端に何の気なしにふらっと行ける、というのはよく考えると凄いことだ。実際、僕も島滞在中にここには計3回行っていて、しかもこの写真は(小・中学生も含めた)地元住民も他所からの旅人もまだ動き始めていない朝6時台に早起きして散歩に行ったときに撮影したもの。
こんなにお手軽に日本の地理を考えるうえでのかなりの重要地点に日常的に触れることができるというこの島は、地理学を専攻する僕としては人一倍興味深い場所であり、訪れてから4年経った今現在も憧れる。



⑩「フェリーよなぐに」から見た、与那国島の遠景。やや台形っぽい地形になっていて、特に写真左側の東崎のほうは断崖絶壁になっている。
このへんの海はよく荒れるらしく、僕も石垣島への帰りのフェリーではかなりやばかったが、これまでにも全国各地で航路での移動中に戻したことは一度もない! という自尊心から、石垣島までの所要約4時間はなんとか我慢した(ちなみに、下船後に戻したことは、2005年に沖縄本島付近で漁船に乗ったときに一度ある)。


まあ2002年の旅で視てきた与那国島はこんな感じである。その後も常に再訪の機会は狙っているのだが、沖縄本島には容易に行けても八重山の島々はやはり距離的に難しく、簡単に手は出せずにいる。そう思っているうちに4年経ってしまった。知人には3人の子どももいるのだが、彼ら彼女らのその後も気になるし(島の子たちは高校に進学する場合は石垣島以北に出る必要がある)、もちろんそのほかにもまだ未知の島の風景や暮らしも気になる。ぜひ近いうちに再訪しなきゃなあ、とドラマや各種媒体で与那国島の風景に間接的に触れるたびに想いを馳せてしまう。
なんとかして1~2年以内に再訪したいものであるよ。


※写真③の補足

2006年12月現在、与那国島へ飛行機で行く場合には、石垣-与那国間のJTA機が毎日1往復、RAC機が週4日のみ1往復、それに那覇-与那国間でRAC機が週4日のみ1往復、運航されている。以前からそんなに劇的な変化はないが、旅行者の動向によっては今後もダイヤの変更は度々あるだろうな。東京-那覇間、那覇-石垣間の便はJAL、ANAともにたくさんあるのだが、石垣から先はちょっと注意が必要。
だから時刻表を読むと一応は、経済的に比較的余裕があれば空路利用で東京や大阪からも与那国島へは1泊2日や2泊3日の強行日程でも行けることは行けるのだが、やはり実際に島へ行くにはそんな駆け足ではもったいないので、もっと時間をかけて島の時間をゆっくり体験してもらいたいな、といち与那国島ファンの僕としては余計なお世話な気持ちになる。

拙著『沖縄人力紀行』の補足5 沖縄的軽食5題評

2006-11-10 18:00:54 | 拙著の補足・訂正
拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)の本文中で挙げたり挙げなかったりしている、沖縄県内で気軽に手軽に約100~400円で飲み食いできる軽食を写真付きで補足しておく。



40ページ10行目で挙げた、全国的にも有名な(旧?)牛丼店の吉野家は沖縄県内にも支店が数多くあるのだが、2006年11月1日の投稿でも触れた県内店舗限定メニューとして出されているタコライス。白飯の上に挽き肉(牛か豚かは不明)、刻みレタス、薄切りトマト、細かく切ったチーズをのせて、さらにその上からピリ辛のチリソースを個々人の好みでかける、というのが一般的(吉野家はトマトはなし)。最近は県内のスーパーや土産物店でレトルトも販売されている。
米軍駐留の影響で戦後にメキシコのタコスが沖縄県に入り、それを“米の国”日本というか沖縄風に進化させたものらしいが(真説はよくわからん。詳しい方に教えてもらいたい)、これはこれでひとつの郷土料理として完成している。複数の食材や文化を“チャンプルー”(混ぜる)させることが日本国内のなかでも特に上手な沖縄ならではの賜物。作り方、というか具材ののせ方も簡単なので、今度、家でも旅の最中にも試してみようかね。



72ページ16行目にある、ポーク玉子のおにぎり。おにぎりの具として、薄い玉子焼きとポークランチョンミートを挟んでいるこのようなものが、沖縄県内のコンビニエンスストアやスーパーの惣菜コーナーで手軽に買うことができる。形態は、おにぎりと言うよりは「モスバーガー」のライスバーガー類に近いか。具もかなり大きいぶんだけ値段も190円前後とやや高め。
さらに最近はこの状態に加えて、具に油味噌が塗ってあったり、昆布も挟んであるような進化形も見られる。僕はこれも沖縄県に行くたびに毎回必ず食べている。僕のなかでの現在の沖縄県軽食ランキングでは、沖縄そばよりも上の第1位の食べ物である。
ちなみに、その沖縄県軽食ランキングについて簡単に触れると、第1位はポーク玉子おにぎり(スーパーで閉店間際に半額に値下げしたものであればなお良い)、第2位は白身魚のてんぷら(石垣島某所のてんぷら屋の揚げたてのものは絶品)、第3位は沖縄そば(ソーキではなく三枚肉のほう)。



43ページ4行目にある、『A&W』の、ハーブが原料の炭酸飲料・ルートビア。コカコーラよりもドクターペッパーが好きな奇特? な人にはすんなり受け入れられる飲み物だろう。
僕は近年は炭酸飲料を健康上の理由からできるだけ控えているのだが、沖縄県に行ったときは必ずこれは飲むようにしている、沖縄入りしてから最低1回は飲んでおかないと沖縄に来た気がしない、これを飲まずして沖縄を語れるか! というくらい気に入っている。そう、戦後の日米関係にも絡んでくるこれを沖縄県内で(たとえ苦手であっても)こうしてジョッキで飲んでおかないと、現在の沖縄県のあれこれを語ってはいけないと思う。
県内のスーパーや土産物店でも、アメリカから直輸入らしい350ミリリットル缶が販売されている。ただ、炭酸の強さは店のものよりもやや弱めで、これはたまに沖縄県を想うときに飲む程度。もちろん、「わしたショップ」などの沖縄物産店にもあり、最近は本土でも年々入手しやすくなってきている。でもやはり実際に県内の店舗でこうしてサーバーから注ぎたてのものをジョッキで飲むほうが面白い。さらに、ジョッキは居酒屋のビールのようにあらかじめギンギンに冷やしてあれば、特に夏場はありがたい。
また、同業他社と同様にオレンジジュースやアイスティーなどのほかの飲料もふつうにあるなかで、ルートビアに限っては一度注文すれば2杯目以降はおかわり自由だったりする。那覇空港内の店舗のような特に接客に積極的な店舗では、
「ルートビアのおかわりはいかがですか?」
と従業員がルートビアの入った大きなピッチャーを持ちながら振る舞いに来たりもする。今秋公開の映画『涙そうそう』でも、長澤まさみがA&Wでアルバイトしていた場面を一部差し込んでいたが、彼女のような若い娘が注ぎに来るのならばなお良い。



56ページ8行目にある、サータアンダギー。市場や惣菜店では1個単位で、スーパーや共同店では袋詰めされたやや小振りの廉価版が販売されている。沖縄県内であればホントにどこでも食べることができる。欧州の家庭では女性のたしなみとして母親が娘に幼い頃からクッキーの焼き方を教えるように、沖縄では子どもにサータアンダギーの揚げ方を教えるとかいう噂を聞いたことがあるが、ホントなのだろうか?
ちなみにこの写真は行動食用にあらかじめ買っておいたサータアンダギーを街なかで食べたときの食べ途中のもので、食べかけの写真ですまん。揚げたてのときのこれは油が多くてちょっと……とすぐにがっつくのはためらわれるのだが、人力で行動しまくってハンガーノック気味のときは、揚げてからしばらく時間が経ったこれのちょっとした油分によるしっとり感のある食感に助けられたりもする。まさに本土のドーナツ代わりの逸品。
ちなみに、94ページ14行目にある、辺戸集落のオバァにもらったサータアンダギーは、スーパーかどこかで買った複数個袋詰めされて販売していたものの余り。でも油で揚げてあるので日保ちしていて、初めに買ってから数日経っていたであろうそれを食べても充分美味かった。



本文中では触れなかったが、2006年9月21日の投稿でも触れた、ぜんざい。しかも食べた店も2006年9月にも行った富士家。この店では厳密には、かき氷の上に自分で小豆と白玉をスプーンで好きなだけすくってのせて、自分好みのペースと分量で食べられるようにしている。僕は普段は甘く煮た小豆はあまり積極的には食べないほうなのだが、このようなぜんざいではこれらの具が組み合わさることによってかき氷や鹿児島名物の「しろくま」のようにふつうに食べることができる。たしかに暑い夏場にこれがあるのは助かる(まあ亜熱帯の沖縄県は冬以外はたいてい暑いけど)。
ここ以外の飲食店でも、食後のデザートとして、また若者のあいだではハンバーガーやクレープと同等の間食としても広まっているようだ。


以上の5点は、今後沖縄県を訪れる方には沖縄そばやテビチや泡盛と同様にぜひ一度は試してもらいたい。沖縄県の食文化に改めて感心すること請け合いの品々であるよ。

拙著『沖縄人力紀行』の補足4 油味噌の成分事情

2006-11-10 17:45:06 | 拙著の補足・訂正

拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)の本文中での、またまたちょっとした訂正というか補足。

74ページ16行目以降で、沖縄県特有の調味料である油味噌とその使用例について少し触れたが、このなかで僕は「鰹節を絡めた甘めの味噌」と書いたが、実はこの味噌は様々なメーカーが独自の成分・配合で作っていて、現在の(主に沖縄県内の)市場に出回っている油味噌すべてに鰹節が含まれているとは限らず、この表記だけでは誤解を招きそうなので補足したい。つまり、僕が2002年のこの旅で携行していた油味噌に限って偶然、鰹節が含まれていたということ。この表記が100%間違っているわけではないが、すべての油味噌が「鰹節入り」であると勝手に決めつけているので30%くらいは間違った表記かと思う。申し訳ない。

今年9月の沖縄「旅行」の途上で立ち寄ったスーパーで、そして近年は2、3か月に1回は通う、拙著の184ページの6~8行目でも挙げた東京都・銀座にある沖縄県内の物産品を扱うアンテナショップの「わしたショップ」でも先日、改めていくつかの油味噌を物色してその成分を調べてみた。
その結果、合わせみそにサラダ油のような植物油を入れて、さらに砂糖や三温糖で甘みをつける、というのが基本で、油はごま油やなたね油を使用しているものもあり、少なくとも動物性のラードのようなものは使用していない模様。また。甘みを出すのにさらに蜂蜜や水飴を使用しているものもある。
で、この甘い味噌を基に各メーカー独自の食材を加えて配合しているようだ。タンパク質では僕が本文中でも挙げたように鰹節を入れているものもあり、豚肉(のおそらくバラ肉)を細かく砕いたものもあり(挽き肉入りのものもあったような気がする)、鮪を入れているものもある。僕は鮪入りのものはまだ試したことはないのだが、単純に味噌にシーチキンを絡めたものを勝手に連想してしまうのだが、そんな感じの味なのだろうか?
たんぱく質以外では、にんにく、ごま、唐辛子を少量入れているものもある。さらに味を整えるというか独自の味を出すための調味料として、しょうゆや沖縄名物の泡盛を入れているものもある。泡盛入りというのもまだ試していないな。それも手にとったときの見た目はふつうの茶色の味噌で、味も酒粕ほどの強いクセのあるわけではないのだろうが、少しはアルコールの香りがするのだろうか?

結論としては、油味噌というのは本文中に挙げたように必ずしも鰹節が入っているというわけではなく、多種多様な味があるということ。なので、この味噌を買う場合は会計前に瓶や包装の外側にある成分表を一字一句きちんと確認してから買う必要がある。ご注意を。
僕もまだまだ試していない油味噌がたくさんあるので(やはり島によって作り方も違うのかな?)、今後もどんどん試していきたい。炒め物に限らず、焼き物、煮物、おにぎりの具などホントに万能の調味料なので、この味噌の出番は本土の食卓でも今後増えそうだ。

ちなみに、上の写真の油味噌は紀州産の梅を入れた油味噌で、今夏に「わしたショップ」で油味噌の調査中に最も気になったもので、買って試してみた。梅肉はかなり細かく砕いてあってやはり基本的には味噌なのだが、味噌の甘みと梅の酸味が合わさって独特の風味が出ている。調理中の味付けのために入れなくても、これを瓶から少量をすくって酒のつまみとして食べるだけでもウマイ(味はかなり濃いので、1回にすくう量はホントに少量にしたほうがよい)。僕はこれは主に冷奴にかけて食べていたのだが、普段かけているしょうゆやめんつゆとはひと味違った面白い味であった。この味噌を彦摩呂口調で例えると、

「紀州犬(和歌山県)とシーサー(沖縄県)のコラボレーションや~!!」

という感じか(僕は横文字は嫌いなのだが、一般的にわかりやすいだろうから今回はあえて使ってみた)。おにぎりの具としても合いそう。これはなかなか良かったので、近いうちにまた買うつもり。

拙著『沖縄人力紀行』の補足3 ヤンバルクイナに、気を付けろ!!

2006-10-20 18:18:16 | 拙著の補足・訂正

2006年9月21日の沖縄「旅行」の投稿でも少し触れたが、本島北部の「やんばる」には、この地域にしか棲息していない固有種で、国指定天然記念物の鳥であるヤンバルクイナが棲息しているのだが、近年は人里に下りてくることがよくあるようで、本島北部の辺戸集落あたりから東海岸の国頭村と東村の境あたりまで、時折、このヤンバルクイナの注意標識が設置されている。拙著にある4年前の自転車による本島一周旅ではそんなに見かけなかったのだが(自転車走行に夢中になると上り坂で目線が下がって、標識を見落としていたのかもしれないが)、先月レンタカーで同じ道路を辿ったときは頻繁に見かけた。

ヤンバルクイナの特徴については拙著の83ページでも簡単に触れたし、まあ最近では動物図鑑のほかにもインターネットの検索で調べるという方法もあるから、情報は年々得やすくなってきている。だがやはり、もっと正確にこの鳥の生態を知りたいのであれば、実際にヤンバルクイナがいる国頭村の「やんばる野生生物保護センター」に行ってみるほうがよいに決まっている。ここは本土で言うところの国立・国定公園内によくあるビジターセンターのような自然学習ができる施設で、ヤンバルクイナの新しい出没情報も掲示してある。僕もここには過去2回行っているのだが、生物に関する図書や資料も充実していて、半日いても飽きない内容はあると思う(まあこれは人それぞれの関心度にもよるが)。やんばるを訪れたさいには一度は行ってみることをおすすめする。

ヤンバルクイナと聞いてあと連想することとしては、以前、ミニモニ。が、
「ヤンバルクイナって、なんなんだー!!」
と歌のなかで叫んでいたが、この生態を本気で知りたいのであれば、こういう場所で勉強していただけると幸いである。
ところで、ミニモニ。の元メンバーのうち現在は2名ほど行方不明のような気がするのだが、今は一体何をしているのだろう……。そのうちひとりは実家周辺の土地柄に不似合いな愛車? のベンツと一緒に引っ込んでいるらしいが。そんなときこそ、こういう大自然のなかに足を運んで、全身を駆使して学習する、という時間を持つこともよいと思うけどなあ。やんばるであれば、一年じゅう観光客でごった返している那覇や北谷ほどは旅する人も多くはないから、顔を指されることもそんなにないだろう。

僕も今後は野生のヤンバルクイナを死ぬまでには一度は生で見てみたいので、やんばるには何回も通うことになるだろう。これまでは海岸沿いの道路を歩いたり走っただけで山のほうはまだ未踏だし。遅くても2~3年以内にはやんばるを再訪してやる! という欲はいつも持っている。

拙著『沖縄人力紀行』の補足2 ルビがやや足りなかったかも

2006-10-20 17:45:31 | 拙著の補足・訂正

拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)を書くうえでひとつ大きく悩んだことに、沖縄県内の地名や事象などを挙げるさいに難読漢字へのルビをどのくらい入れるか、ということがある。また、本文のなかでは方言であるウチナーグチの読み方もいくつか挙げているため、これらの漢字や読み方への関心度というか感度は人それぞれで、それは住んでいる地域によっても違ってくるため(大雑把に考えると沖縄県から距離的に遠い北海道や東北地方の人は特に関心度は低いのでは? という印象がある。もちろん、そうではない沖縄を偏愛する人も少数派ながらいるだろうけど)、ルビを入れるか否かの線引きに結構苦労した。

もちろん、沖縄県が地元のウチナーンチュにとっては読めて当然の言葉ばかりだが、拙著は沖縄県も含めた全国47都道府県に住む人を対象に書いたため、どちらかと言うとそれらを予備知識なしでは読めない人が多いと思ったため、とりあえずは沖縄県を一度も訪れたことのない人から見てすぐにわかるか否か、という見方で判断した。一応、僕の身の回りの友人知人(東京近郊在住)に沖縄旅の話をするときに地名や固有名詞を小出しにして、沖縄県の事象への関心度を調べたりして、そんな第三者的な客観的な回答を参考にもした。

ただ、地名に関しては各出版社から出版されている観光ガイドブックや沖縄本、道路地図、それに統計では県勢(日本国勢図会地域統計版)、最近ではインターネットの検索で調べたりすればある程度はわかると思うので、そんなにルビを入れなくても大丈夫かな? とも思ったが、やはり基本的には本文の流れを考えて、重要度の高いところにはできるだけルビを入れるようにした。
例えば、56ページ14行目では近年、米軍再編で特に注目されている名護市の辺野古(へのこ)、67ページ14行目では、最近の沖縄県内でも特に人気のある観光地である本部町の「美ら海水族館」の美(ちゅ)らなど、昨今の米軍絡みの報道や沖縄ブームによって本土でもよく知られるようになった言葉にはルビを入れているが、そこはまあ全国47都道府県を旅していて数々の難読地名や表記によく触れている僕基準で判断した。

それで、これは前回の投稿の誤字脱字に少し関係するかもしれないが、拙著の出版後に、もう少しルビを入れておけばよかったかなあ、と少々後悔することもあり、今回、ここでちょこっと補足したい。
なかでも特に気になっているのが、50ページ7行目の「読谷山花織」である。これは約600年前から読谷(よみたん)村に伝わる伝統織物のことで、格子柄がいくつか組み合わさってできた花模様が印象的。その模様は30種類以上あるとか。おそらく、沖縄県を旅したことのある人であれば、那覇市の那覇空港2階の土産物店や市内中心地にある国際通りに建ち並ぶ土産物店で、「紅型(びんがた)」、「久米島紬」、テレビドラマ『ちゅらさん』でも重要な小道具となった石垣島の「みんさー織り」などの染物や織物とともに一度はこの幾何学模様を見たことがあるはずだ。しかも、山花織とは限らないかもしれないが、上の写真のように沖縄県内では比較的人通りが多い場所では歩道の路面に幾何学模様を施している様子もいくつか見受けられる(写真は那覇市中心部で、奥の大きな建物は沖縄県庁)。肝心のこの読み方だが、標準語であるヤマトグチ読みでは、

「よみたんざんはなおり」

になるのだが、沖縄県内であればやはりウチナーグチ読みのほうが一般的なようで、「花織」も「はなおり」ではなく「はなうい」と読み、厳密には、

「ゆうたんざはなうい」

と読むことが多いようだ。ただ、一部の資料では「花織」を「はなゆい」というふうにウチナーグチとヤマトグチを混ぜたような読み方もあるようで、そうなると、

「ゆうたんざんはなゆい」

と読むこともあるらしい。これはその道に詳しい人に聞かないとはっきりしたこと言えないのでなんとも難しいため、今回、ルビを入れるのを見送った。まあ脱字と言えば脱字かもしれないが、そうではないと言えばそうではないとも言える。
だが、その後も沖縄絡みの雑誌や書籍を読み漁った結果、やはり沖縄的には2番目の「ゆうたんざはなうい」が妥当かな、と今は思っているので、もし拙著を増刷する場合は沖縄県に敬意を表してルビは地元読みのこれを入れようかな、と考えている。
このように、本土もんが沖縄県の事象を扱うのはかなり大変なのね、と今回本を出版して改めてその難しさを痛感した。

ほかには、もし増刷の可能性があればぜひルビを入れたいな、という地名もいくつかある。
沖縄県の地名に使われる漢字で基本的なところでは新を「あら」、城を「ぐすく」、谷を「たん」、原を「ばる」(「ばる」は九州でも読まれるか)、良を「ら」と読むのだが、それも含めてやや難しそうだな、というものを吟味して判断したつもりだが、プロ野球・中日ドラゴンズの春と秋のキャンプ地である北谷(ちゃたん)や上に挙げた読谷(よみたん)、サッカー現日本代表のFW我那覇和樹(川崎フロンターレ)の出身校がある宜野湾(ぎのわん)なんかはわかりやすいと思ったが、判断にやや迷い、結局はルビを入れなかったのが以下。カッコ書きのページ・行数は初出の場所。ちなみに、すでに拙著を読まれた方はわかるはずだが、ルビは初出のみに入れている。総ルビにするとうるさいし、編集に時間がかかるから。

1.嘉手納 (かでな。44ページ7行目)
2.普天間 (ふてんま。46ページ16行目)
3.残波 (ざんぱ。47ページ5行目)
4.楚辺 (そべ。49ページ1行目)
5.座喜味 (ざきみ。50ページ5行目)
6.許田 (きょだ。56ページ6行目)
7.辺土名 (へんとな。85ページ8行目)
8.金武 (きん。127ページ10行目)
9.与那原 (よなばる。155ページ9行目)
10.玉城 (たまぐすく。158ページ9行目)
11.南城 (なんじょう。158ページ9行目)
12.豊見城 (とみぐすく。180ページ7行目)

1は本土でも米軍絡みの報道でここに飛行場があることがほぼ毎回報じられるので、すでに全国的知られているだろう。最近も、北朝鮮の核実験を受けてかどうかはわからんが、どこかからの攻撃に対抗するための迎撃用の(米軍の)パトリオットミサイルがここに配備されたし。
2も1と同様に近年よく報じられる、米軍再編による辺野古への基地移転の移転元の飛行場がある。このふたつの飛行場をおおまかに分類すると、嘉手納は戦闘機を多数配備しているように大陸方面の有事のさいの前線基地になり、普天間のほうは輸送ヘリコプターが多いように人員・物資輸送などで嘉手納の後方支援的な役割を果たすようだ。このふたつの地名くらいはルビなしで読めてほしい、そしてこれらの自治体のど真ん中に現在も米軍基地が広々と存在していることは全国的に知っておいてほしいよな、と思う。

6と8については、沖縄県内の高速道路である「沖縄自動車道」のインターチェンジが設定されている場所なので、これも特にクルマによく乗る人であればなんとかわかるかな、と思った。ちなみに、許田には59ページでも触れている泡盛「くら」を製造しているヘリオス酒造があり、ここは1961年に県内で初めてラムの製造を始めたそうだ。最近は「TYPHOON」というシークヮサー果汁入りのラムカクテルも製造販売している。

最近ややこしいのが、10と11と12。沖縄県の地名で「城」と表記する場合は基本的には「ぐすく」と読み、人名で表記する場合はふつうに「しろ」と読む。例えば、Kiroroのふたりの名字(ふたりとももう結婚したので、旧姓?)は玉城と金城だが、それぞれ「たましろ」「きんじょう」と読む。だが、地名のときはやはり「ぐすく」になり、同じ玉城という漢字を使っていても「たまぐすく」になる。
しかし、沖縄本島南部の玉城村、知念村、佐敷(さしき)町、大里村が2006年1月に合併してできた南城市は「なんぐすくし」ではなくヤマトグチ読みで「なんじょうし」と読む。なんでこれだけ旧来のウチナーグチ読みではないのかね。本土の影響を受けてのことなのだろうか。これらの町村の合併の詳しい経緯は知らないが、沖縄らしさを少しでも保とうとするのであれば「なんぐすく」のほうが言葉の響きとしては良いと思うのだが。地元住民としてはやや不慣れなこの読み方で納得いっているのかなあ。

まあこんな感じで、拙著のルビの表記についてはやや物足りなさがあるため、補足した。以上の件についてはもし増刷できる場合は変更しようかと思っている。まあこれは拙著の売れ行き次第なのだが、できれば入れたいので売れてほしいな。

拙著『沖縄人力紀行』の補足1 いきなり誤字脱字訂正  

2006-10-15 06:00:39 | 拙著の補足・訂正
最近はなんだかんだと細かい用事が立て込んでいて、しかも先々週に北海道に行ってしまったりしたために旅ネタをじっくりまとめる暇がほとんどないのだが(貧乏暇なし、というやつ)、先月下旬にお知らせした拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)の補足もそろそろ始めなきゃなあ、と思い、今日からゆるゆると不定期で始めることにする。
だが、1回目はそんなにゆるゆるはできない、拙著の出版後に発見した誤字脱字の話。ただ、他者の記述からの引用を間違えたとか、人名・店名・地名などの固有名詞を勘違いしたとかいう対外的に特に重要な問題ではなく、僕個人的に納得のいかない表記で、その責任もすべて自分に返ってくるもの。

まず1点目は、191ページの奥付の僕の自己紹介の最終行に本ブログのURLを記載しているのだが、

http://blog.goo.ne.jp/watarureport/

のなかで、後半のreportのeが抜け落ちている。中学生でもわかる簡単な脱字で、いやあホントにお恥ずかしい。これについては編集に使用したパソコンの扱いなどで言い訳したいこともあるが、未練たらしいし、もうすでに出版されてしまっているので、とりあえず報告のみにしておく。
ただ、拙著を買わずとも今すでに本ブログに辿り着いている方、それに僕に近い友人知人や各種媒体にはすでにURLは別途知らせてあるので、これはほとんど意味のない報告ではある。
が、事例はほんの少しかもしれないが、拙著を買ってくださった方や、買わなくても奥付を確認してからその著者の人と成りを判断したい方にとっては(僕も他者の本を買うときには最初は奥付から確認するクチ)、せっかく本ブログに興味を抱いてもらってもURLが間違っていて接続できない、というのはやはりかなり恥ずかしい。面目ない。

最近、インターネットの普及によってURLやメールアドレスを表記する機会が各方面で増えているが、これは今回の誤りのように1文字間違っているだけで、またドットやハイフンやスラッシュなんかがひとつ抜けているだけでも誤りになるので、媒体でこれを扱う場合は難しいよな。より注意が必要であるよ。出版業界においてはこれからの時代は、横文字や英語に強い編集者や校正者が求められるのだろうな。もうすでに「パソコンが使える」というのが雇用時の前提条件になっている感はある。まあこれは出版業界に限ったことではないか。
先週11日に、僕が前々から懇意にしている山と溪谷社が買収額4500万円でインプレスホールディングスの傘下に入ることが公表されたが、そのような時代の流れによって横文字感がより加速していくのは少し寂しい気がする。旧来の漢字かな混じり文と、僕の愛読誌『山と溪谷』『ヤマケイJOY』の明日はどっちだ。

次に、これは本文中の字面のこだわりについてのこと。
2点目は、78ページ11行目に「足元にも及ばない」という表記があるが、この「及」の字を127ページ3行目の「開発および競争力」のようにひらがな表記に統一して「およ」にすべきだった、と残念に思う。

そして3点目は、50ページ6行目の「紅いも」を、56ページ10行目のように「紅イモ」に統一すべきだった。74ページ2行目に「サツマイモ」という表記もあるし。
実は、拙著では野菜や果物に関してはゴーヤーやパイナップルのようにすべてカタカナ表記でいく、という(僕のなかでの)表記の基準を設定している。そのため、「紅いも」という表記はそれに照らし合わせると不適格ということ。

このほかにも僕なりの基準はいくつかあり、ついでに目立つところを補足しておくと、拙著のなかでは動物名がたくさん出てくるのだが、特に陸上のほ乳類については、「匹」で数えられるものはカタカナ、「頭」で数えられるものは漢字で表記している。この分類は一般的な、人間がその動物を両腕で抱き上げられるか否か、で判断している。だから、一般的にはカタカナで表記することが多い砂漠のラクダも、170ページ4行目のように「駱駝」というふうにあえて漢字表記にしている。これはべつに小学館の雑誌『駱駝』からパクっているわけではない。
ただ、鶏と犬に限ってはその基準からは除外している。と言うのも、71ページ15行目の鶏は、豚や牛などと同様に「食用」という意味合いに含めているから。
また、犬については特に113~115ページで人間と犬の関わり方について詳述しているが、最近は室内でも難なく飼える小型犬が流行っていて、トイプードルやミニチュアダックスフントのように成犬になっても人が抱き上げられるものも多い。が、そんな「イヌ」と、ゴールデンレトリバーや土佐犬などの「犬」とを分けて表記するのは面倒だから、漢字表記に統一した。わざわざ分類して、犬だけは浜崎あゆみの飼い犬のように“お犬様”という感じで特別扱いにするのもなんだかなあ、という思いもあった。

このように、本文中の表記(特に名詞)の統一にはかなり神経を使っているのですよ。まあ普段から校正を生業にしている者からするとこんなこだわり方も当然の成り行きである。ただ、本ブログではそういった細かい基準は設けずに表記揃えはあまり気にしないでやや適当に書いているけどね。べつに出版化されるわけでもない自己満足気味の日記のような、自由で自分中心の媒体だから。
現在、出版媒体で活躍する作家やライターの方々は執筆以前の情報収集や取材の段階からこのような細かい表記にまでこだわっていたりするのかな? それとも、そういうやや時間を要する作業は校正・校閲者に任せっきりなのかな?

そんなわけで、とりあえずは以上の3点が筆者としては出版直後から気になっているところである。申し訳ない。
でも、いずれも誤りによって他者に著しく悪影響を与えるわけではなく、すべて自分の身にのみ責任が降りかかってくること(のはず)だから、少しは気楽でいられる。そんなに落ち込むことではない。しかし、最近は「校正者」を名乗っている身としてはやや恥ずかしい誤りだけど。
拙著はすでに出版されて世に流通してしまっているので仕方ない。それに、無名の筆者ゆえに、また少部数出版ゆえに、社会的な影響も拙著の100倍、いや1000倍以上の部数を安定して出版できている人気作家に比べたらほとんどなく、改めて僕の信用が失われるということもないし(現在の僕は失うものは何もないまっさらな状態であったりする)。

ただ、版元からは仮に拙著の現在の在庫がすべて出荷されてはけた場合は増刷をかける、という話は当然あり、そうなると以上の誤りを訂正してから再度製本できるので、なんとか現在の残り分を完売できるように、今後も広報活動を継続していこう! と逆に販促へのやる気が出てきた。本ブログでもこれ以降、拙著の販促のてこ入れの意味合いも込めながら本の補足をしていくことにする。