猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 7 説経大福神弁財天御本地②

2012年01月18日 22時24分05秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

竹生嶋弁財天の御本地 ②

 はっと、目覚めた聖武帝は、全身汗まみれでした。既に夜も明け、朝日が差し込んで

いました。すぐに行基を呼んだ御門は、夢の次第を語って聞かせました。その話を聞い

た行基は、しばらく考え込んでいましたが、

「これは、目出度き御夢でございます。その天女は、福神として日本に渡らせ給われる

との知らせの夢です。赤い蛇は、魔王ですが、御剣にて、退治いたしましたので、ご心

配には及びますまい。また、瑠璃の壺は、梵天より与えられた不老不死のお薬です。そ

れそれ、ご覧下さい。」

と、行基が壺の蓋を開けると、かいだことも無いような香しい高貴な香です。聖武帝が、

早速に御母上に、お与えになると、たちまちに病が平癒なされたのは、まったく不思議

な次第です。その後、御門は、この行基の甚功(じんこう)に、菩薩号を下されたので、

行基菩薩と呼ばれるようになったのです。

 こうして朝廷は、大魔の宮の呪詛から逃れました。しかし、聖武天皇の気持ちには、

晴れないことが一つありました。実は、あの夢で、天女が残していった物は、薬の壺だ

けではありませんでした。天女が去った後には、琵琶も残されていたのです。

 ある夕暮れ、聖武帝は、天女が残した琵琶を弾じながら、忘れられない面影を追いか

けていました。

「いともゆかしい夢の内よ。まして、実際に会ったなら、朕が心は、どうなってしまう

だろうか。この琵琶は、在りし姿の形見ぞや」

と、琵琶を抱きしめては、溜息をつくのでした。すると、不思議なことに、庭前に突然

光り輝く雲が現れ、懐かしい面差しの天女が、匂やか(におやか)に現れたのでした。

天女は、聖武帝の居る部屋の障子をさらりと開けると、

「私は、いつぞや、夢中でまみえました吉祥天ですが、その節、琵琶を忘れてしまいま

した。どうぞ、お返しください。」

と言うのでした。御門は、恋い焦がれた天女の出現に、舞い上がって手を取ると、中に

招き入れました。聖武帝は、

「そうですか、琵琶を取りに、お戻りになられたのですか。お返しすることは、簡単な

ことなのですが、この国の習いでは、他国より渡りし物を、直ぐに返すという法は無い

のです。」

と、出鱈目な事を言いました。天女は重ねて、

「これは、恨めしいことを仰ります。母の形見として、肌身離さず持っていた琵琶です

が、外道に襲われた時、あまりに慌ててしまったので、忘れてしまったのです。それを、

捨て置いては、母上様への不孝と成ります故、どうぞお返しください。」

と、涙ながらに頼むのでした。聖武帝は、かわいそうには思いましたが、どうにかして、

天女を留めておきたいと思い、

「誠に、仰せを聞けば、道理なことです。それであれば、三年は、この地に留まり、朕

に仕えなさい。そうすれば、返してあげましょう。」

と、言うのでした。天女は、これも母への孝行のため、琵琶さえ取って帰れば、地上の

三年は瞬く間のことと考え、(天の一日は、地上の1600年に当たると言う。地上の1年は約1分)

「そうであれば、仰せに従いましょう。」

と、言うのでした。聖武帝の喜びは限りなく、

「それは、誠に、なかなか。」

と、奥の一間に、打ち連れ、お入りになったのでした。

 一方、滋賀の岩富の宮は、郎等どもに向かい、

「いかに、汝ら、祈る験(しるし)も現れず、この年月を送ることは、なんとも口惜し

い限りである。この上は、挙兵して、御所に押し寄せるぞ。」

と、鼻息荒く言いました。これを聞いた悪七郎は、

「それがしが、考えまするには、御門の心をお慰めするとの使いを立て、御門を招き、

御門がやって来たら、大手口に潜ませた兵で、一気に討ち滅ぼしてはいかがでしょうか。」

と、言いました。これを聞いた岩富の宮は、それは妙案であると、早速に岩瀬の藤太を

使いに立てたのでした。

 さて、聖武帝は、夢に見た天女と結ばれて、今は、天和(あめわ)の宮という七歳

になる若宮にも恵まれて、日々、目出度く暮らしておりました。御門の寵愛の深いこと

は言うまでもありません。

 そこに、現れたのは、大魔岩富の宮の使い、岩瀬の藤太でした。大魔の招きに、内裏

の人々は顔をしかめました。時の摂政は、

「これは、怪しい使いですぞ。大魔の宮との御仲は、常に不和でありましたのに、この

ような睦まじい使いは、何か企みあってのこと。このような御幸は、薄氷を踏むが如し、

まずは、適当なことを言って、使いを追い返しましょう。」

と、諫言しましたが、聖武帝は、

「確かに、その考えには理があるが、仲は悪いとはいっても、大魔の宮は、現在の御兄

であるぞ。例え、謀反の心があり、麻呂が殺されたとしても悔やんではならぬ。もし、

そうでは無いとしたら、その後に蒙る恨みをどうするのだ。とにかく、招きに応じて、

滋賀へ参るとしよう。」

と、勅答なされたのでした。それから、御前に藤原の経正(つねまさ)を呼び出すと、

聖武帝は、

「この度の御幸は、危険が伴うので、汝を連れて行くことにする。しっかりと守護せよ。」

と、言いました。経正は、畏まって答えました。

「若年なるそれがしに、守護せよとのお達し、末代までの面目です。」

 

 さて、経正は、館に戻ると三人の若者を集めて、この度の大役について話をしました。

「この度の近江への御幸において、それがし、御供を仰せつかった。大事の御幸である

から、左右の心を配り、率爾に事を見ること無かれ。」

すると、金道丸は、嬉しげに進み出で、

「さて、さて、それは何よりの大役をお受けになられました。なんであれ、大魔の宮、

御謀反とあれば、心のままに思う存分働き、太刀の切れ味を試してくれん。嬉しや、嬉しや。」

と、小躍りして喜ぶと、海道丸はこれを見て、

「いかに、金道。お前は、気でも違ったか。この度の御供は、事なきように、平穏に済

ませてこそ、君のお供と言えるのだ。案者(※思慮分別に富む人)こそ勇姿というもの

だ。それをなんじゃ、騒がしい若造め。」

と、たしなめました。それを聞いた金道丸は、大いに腹を立て、

「何、それがしの若気の至りと言うのか。おのれが様な、腰の抜けた年寄りの振るまい

など、知らぬわい。髪を下ろして、山寺へも籠もっておれ。」

と、傍若無人に怒鳴るので、海道丸も、腹に据えかねて、

「何、それがし、腰抜けなれば、入道せよと言うか。いで、腰がぬけているかいないか、

見せてくれる。そこ引くな。」

と、跳んでかかれば、金道丸も飛びかかり、取っ組み合いになるところを、岩堂丸が割

って入り、

「まあまあまあ、方々、我々は、竹馬の昔より、魚と水の如くに仲良くしてきたではな

いか。大事の御門出に際して、少しの意趣遺恨は有るべからず。」

と、なだめると、盃を取り出し、

「さらば、門出を祝い、君の御供をいたしましょう。」

と、祝杯を挙げるのでした。

この者どもが心底、貴賤上下おしなべて、感ぜぬ者こそなかりけれ

つづく

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忘れ去られた物語たち 7 説経大福神弁財天御本地①

2012年01月18日 18時21分00秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

  天満八太夫・重太夫正本(元禄年間)

古説経末期の作品であり、浄瑠璃の影響が色濃い。奇を衒う(てらう)設定や、合戦などを取り入れることで、受けを狙ったのであろうが、説経本来の情感を失ったストーリーとなっている。また人形操り的には、絡繰り(からくり)を多用したものと思われる。

 もうひとつの竹生嶋弁財天の本地を語る「まつら長者」とはまったく異なるストーリーであるが、天照大神のお告げにより聖武天皇が、行基に命じて竹生嶋宝厳寺を開基させたという史実に基づいているのは、こちらの方である。但し、元正天皇を聖武天皇の母として設定したり、(実際には、叔母にあたるが、聖武帝を我が子同様に庇護した。)実在しない聖武帝の兄、大魔岩富の宮なる人物を設定して、活劇に仕立てようとするなど、史実にそぐわない無理な設定が目立つが、全体として、大仏を建立した聖武天皇を神格化しようとする試みがあるように思われる。

竹生嶋弁財天の御本地 ①

 さて、いろいろと思いを巡らせてみますと、三界(さんがい:欲界・色界・無識界)

は、龍車のように、生まれては死に、死んではまた生まれ、いつになったら苦しみを逃

れることができるのでしょうか。だから仏様も、「三界無安猶如火宅」(さんがいむあん、

ゆにょかたく)、どこに行っても、火のついた家のように、落ち着いてはいられず、不

安定な世界なのだとお示しになったのでしょう。しかし、これを不憫と思われて、衆生

の貧を救い、福徳を与えようとされる仏様が、ここにいらっしゃいます。その仏様を詳

しく尋ねてみますと、近江の国、竹生嶋の弁財天がそれなのです。

 竹生嶋は、景行辰の十年(西暦80年)に、金輪際(地底)より、五水を分けて、忽

然と現れた山です。ご本尊の弁財天は、行基菩薩が、初めてこの嶋に参詣した時に、開

眼なされました。さて、この勧請を命じたのは、人皇四十五代の御門、聖武天皇でした。

 この御門は、神代よりこの方、一番の賢王でありましたので、吹く風は枝を鳴らさず、

民のかまども賑わい、大変に目出度い御代でした。時の摂政には、前の左大臣道成(道

成寺を建立)。右大弁(うだいべん)惟喬親王(これたかしんのう)。両臣、いずれも私

無く仕えました。天下の武将には、欽明天皇の末孫で、曾我の大臣(おおとも)に十一

代の孫に当たる丹海公藤原経正(ふじわらつねまさ:不明)がいます。経正は、年齢十

八歳。威勢抜群、百人力で、唐土まで聞こえた古今無双の若武者でした。この経正の郎

等には、海道丸照秀(かいどうまるてるひで)、岩堂丸(いわどうまる)、金道丸(かな

どうまる)という、いずれも劣らぬ大剛の強者(つわもの)が居ました。その外、公卿

大臣、皆、聖武天皇を敬って仕えたので、四海の浪は静かで、目出度くも平和な世の中

を治められていたのです。

 これはさて置き、その頃、近江の国、滋賀の里には、大魔岩富の宮(だいまいわとみ

のみや)という者がいました。その有様は、普通ではなく、背丈は九尺四寸(約3m)

色は、浅黒く、頬骨が飛び出て、眼(まなこ)は逆さまに切れており、朝日に照らした

その顔は、まったく夜叉の様でありました。この大魔岩富に付き従う眷属には、御影

の鉄扇景虎(みかげのてっせんかげとら)とその舎弟、悪道、悪七、悪四郎がおりました。

ある時、岩富の宮は、彼ら四人を集めて、こう言いました。

「いかに汝ら、この世の中で、包むべきは、悪心である。我は、幼少より、悪を好むた

めに、御母である元正天皇の勘気を蒙り、皇位も許されず、二の宮の聖武帝に代を奪わ

れてしまった。我は、悪王となり、このような田舎に押し込められ、空しく朽ち果てる

しか無いのは、誠に無念である。これというのも、元正天皇は、我にとっては、継母で

あるからである。そこで、逆心を持って兵を起こし、二の宮聖武帝を初め、一味の公卿

どもを掴み拉ぎ(つかみひしぎ)、大魔王と呼ばれようと思うが、お前達は、どう思う

か。」

兄弟の中でも、悪七が答えて言いました。

「仰せは、ごもっともではありますが、こちらは、僅か二カ国ばかりの小勢力です。天

下に打って出て、し損じては、一大事です。力で叶わぬ時には、調伏するに越したこと

はありません。祈祷をしてはいかがでしょうか。」

大魔岩富は、成る程と思い、調伏をすることにしました。岩富は、悪日を選ぶと、八方

四面に釼(つるぎ)で切った御幣を飾り、人間の油で灯明を燃やし、仏供(ぶく)には、

羊の内臓を盛り、柳の木を削って人形(ひとがた)を拵えると、第六天の魔王の絵を

本尊として、魔界の法で、祈祷を始めました。

「上は、欲界、無色界。下界の悪霊、無間奈落(※地獄)の悪鬼、外道に至るまで、

ことごとく、驚かせ、我が念ずる所の妄念を、晴らさせ給え。ギャソンギャテイ、ダン

ナクチエジザイ、ウンタラカンマン。」(原文のママ:真言と解すると、ウンタラタカンマン(不動明王)に該当すると思われるが、前段は不明。般若心経の羯諦羯諦カ:又、断悪智慧自在と読めなくは無い)

大魔岩富の宮は、振り上げた数珠の緒も切れよとばかりに責め立て、強く祈祷をすると、

なんと壇に飾った釼が跳び上がり、人形(ひとがた)を貫きました。人形は、たちまち

燃え上がり、煙となって消えたのでした。大魔の宮は、祈願が成就したと喜びましたが、

天は、誠を守るものでございます。その魔術は、聖武天皇には届かずに、母親の元正の

身の上に降ったのでした。元正は、突然、万死の床についてしまわれたのです。

 突然の御病気に、聖武天皇は驚いて、片時もそばを離れずに、様々看病をなされまし

たが、一向に病状は回復せず、日々悪化するばかりです。聖武帝は、悲しみの涙に打ち

しおれておりましたが、やがて摂政関白、公家、大臣を集めると、

「なにとぞ、神力をもって、母上のお命を助けようと思う。誰か力のある沙門はいないか。」

と、言いました。摂政は、謹んで、

「はい、和泉の国に、行基僧都(ぎょうぎそうず)という、尊き知識の僧がおります。

これを、参内させて、ご祈祷なさるのが良いでしょう。」